さよなら、ダイヤモンド
06
半年が経った。最初は隠者たちのミサでしかなった
地下墳墓は崩壊した。平等という理想を実現するために、彼は自分一人だけを平等の外側に置いたのだ。結果、あまりの仕事の量に耐えきれずとうとう巽が倒れ、彼を慕っていた非特待生も最後には唾を吐いて地下を出て行った。禁忌とされた地下空間に彼が築いた教会の名残はなく、今もなお居座っているのは一時の理想郷が忘れられない亡者だけだ。
その少し後に、巽と入れ替わるようにHiMERUが芸能界に復帰した。巽が取りこぼした仕事を拾い集める形で特待生に返り咲き、彼が寝ていたタコ部屋の隅には今は他の非特待生が死んだように眠っている。
なんだか、このタコ部屋からどんどん人が消えているようだ。ジュンが昼休みの度に帰ってきては、些細なことについてあれこれ話していた彼らはもういない。こんな掃き溜めから抜け出していったことは喜ばしいことで、本来なら祝福すべきなのだが。
この場所から姿を消したのは彼らだけではない。ジュンの心にぽっかりと空いた穴は、その大半が来栖茜の形をしていた。彼女は教師に目を付けられて以来タコ部屋に来る頻度を落とし、一ヶ月ほど前からとうとう来なくなった。相変わらずテレビやネットでは元気に歌っているようなので、不調というわけではないようだ。
言葉を交わせない物寂しさがないわけではない。だけど本来ならこれが正常なのだ。彼女だって、最初は巽を頼ってここまでやってきた。その巽がいないのだから、わざわざ危険を冒してまで男子部に足を運ぶ意味はない。少し交流があったからって浮かれていた自分をジュンは脳内で罵倒した。この勘違い野郎。彼女は最初から自分じゃなくて、巽しか見ていなかったのに。
ただのファンに戻ったのなら、悲しいが仕方ない。ライブ映像を買って、心の中で密かに応援して、烏合の衆の名もなき一部になるだけだ。
今夜のタコ部屋もいつもと変わらず、疲れきった非特待生達が爆睡している。巽の信者の布団だけがもぬけの殻なのも、いつも通り。主のいない布団に挟まれて、ジュンはイヤホンから流れてくる茜の歌を聞いていた。
曲の切れ間から雨音が微かに聞こえてくる。今日は夕方から天候が崩れてきていたが、少し前から本降りになってしまったらしい。こういう日は雨で汚れた廊下の掃除や洗濯が増えるから億劫だ。そう思うと、早く眠らなければという焦燥感から余計に眠気が遠のいてしまう。
……こういう時は、白湯を飲むのがいいんでしたっけ。
ジュンはむくりと起き上がると、ルームメイトを起こさないよう忍び足でキッチンに向かった。
荒れに荒れた台所は巽が来ていた頃の面影もない。あの頃は料理も後片付けも全て彼がしてくれていたため、掃除に気を回す余裕もないジュンたち非特待生だけでは雑然とする一方だった。
鍋に適当に水を入れて火にかけ、その間に自分のマグカップを探す。水切りかごの中に積み重ねられた食器の中から目的のものを音を立てずに出すのは繊細なパズルでもしているようだった。そうこうしているうちに鍋からふつふつと音が聞こえ始め、一度ガスコンロに目を向ける。
その途中、ちらりと視界の端に映った窓の先で、信じられないものを見た。
遠くに茜が立っていた。季節が変わり落葉した茂みの中でジュンと同じジャージの色がぽつんと浮いている。この雨の中で傘もささず、じっと何かを見上げる横顔をジュンの瞳が捉えた。ぼんやりと何の光も灯さず、ただ上を見つめる彼女はまるで亡霊のようだった。
最初は見間違いかとも思った。こんな夜更けに、しかもこの雨で寮から出るなんてありえない。だが濡れた肌にぺったりとくっつくその髪の色は、間違いなく何度も見た茜のそれだ。
――何やってんだ、あの人!?
ジュンは即座にコンロの火を消し、ビニール傘と上着を掴んで着の身着のまま寮を飛び出した。ばしゃばしゃと泥を跳ねながら茜の姿を探してかける。
「茜!」
ジュンが名前を叫ぶと彼女はくるりと振り返った。目を大きく見開き、「ジュン?」と小さく呟く。
「どうしたの、こんな時間に? 早く寝ないと、――」
「それはこっちの台詞ですよぉ! こんな夜中に傘もささないで何やってんすか! 風邪引きますよ!」
そう言って強引に持ってきた傘を握らせる。予想外の人物の登場に驚きを隠せないままの茜は、されるがままに頭上で聞こえる雨音を聞いていた。
かと思えば、茜の冷えきった上半身にぬくもりがのせられる。ジュンの上着を肩にかけられたのだと気づくまで数秒かかった。
「……え、えっ!? これじゃジュンが風邪引いちゃうでしょ!? 早く着て!?」
「いいんですよ、オレはわりと頑丈な方なんで。でもあんたはたぶん違うでしょう? ああほら、こんなに冷たくなっちまってますし……あ、汗臭いとかは言わないでくださいよ〜?」
絶対に譲らないと言わんばかりに、ジュンは茜にかけた上着が落ちないよう襟元から手を離さなかった。ジャージよりもさらに大きな上着にすっぽりと覆われ、冷え切った茜の肌がじんわりと熱を取り戻す。
ジュンを見上げる茜の瞳がゆれる。雨のせいか、うるんでいるようにも見えた。
「…………ありがと、ジュン。でも傘は入ってね。君が風邪引いたら私が罪悪感で寝込むよ」
「………………っす」
すっと茜が傘を持ち上げると、ジュンはお邪魔しますと言うように頭を低くした。自分の傘なのに遠慮がちに入ってくるのは、いつかタコ部屋で会った時のようだ。
拒まれないと分かると、彼女にかけた自身の上着から手を離した。その流れで彼女の手から傘を奪い、彼女が濡れないよう少し傾けて傘をさす。
両者ともに無言の中、雨音だけが鼓膜を揺らす。少し時間が経って冷静さが戻ってくると、途端に羞恥心がジュンに襲いかかってきた。
茜の方を見ていられなくなって顔を背ける。この馴れ馴れしい状況は一体何なんだ。傘を差し出すだけならともかく、自分の服をかけてあげるなんて漫画の中みたいなこと、まさか自分がやるとは思わなかった。気持ち悪いと思われていないだろうか。全く匂いがないかと聞かれると自信がない。男所帯だとどうしたって部屋自体に特有の匂いがこびりついているものだ。
ジュンがちらりと茜を盗み見ようとしたその時、茜が沈黙を破った。
「塀の様子を見に来たの。女子部の方からじゃこっちの様子は分からないから」
「塀? ……ああ、なんか今工事やってるみたいっすねぇ」
茜が見上げていたのはそれだったらしい。男子部と女子部の敷地の間に築かれたそれは、今は一部分がシートに覆われていた。その合間から見える鉄骨の骨組みから、何らかの修復作業のようなものを行っているとも見える。それにしては、日中作業員の姿を見かけなかったが。
「工事なんて見てどうするんです? 特段珍しいものでもないでしょうに」
「……」
茜は微笑むだけで答えなかった。
代わりに小さな頼みを投げかける。
「ねえジュン。明日の昼、この塀の前に来てくれる?」
「? どうして?」
「ライブするんだ。私の。本当はゲリラだから内緒だよ?」
人差し指を立てて片目を閉じる茜は小悪魔みたいだった。教師がこの事を知ったらきっと大目玉だ。それがいけないことだという自覚はきっちり持っていた。
「ライブ!? なんでまたいきなり……? いくら特待生でも学校側が認可してないライブは怒られますよねぇ……?」
「やりたいし、必要なことだからやるんだよ」
「必要? 何のために?」
ジュンの問いに答えることなく、彼女はずっと笑っていた。だけど同時に、まるで怯えているようにも見えた。今、彼女の後ろには見えない人物が立っていて、ずっと拳銃を突きつけられているみたいに。
何を怖がる必要があるのだろう。この玲明学園を物語にしたのなら、きっと主役は巽と茜の二人なのに。脇役にも上がれないジュンには、眩しくて目も開けられない世界に立っているのに。
「ジュン」
茜が名前を呼ぶ。
「よかったら、地下墳墓まで一緒についてきてくれない?」
「はあ……そりゃ、別にいいっすけど。っつか、元々そのつもりでしたしね」
学園の敷地内とはいえ、夜道を女子一人で帰すのは危険だ。特に地下墳墓は今、巽が入院しているせいで無法地帯になっている。彼女が女子部の敷地に入るまでは送るつもりだった。
工事現場に満足したのか、茜はジュンの隣に並んで来た道を戻り始める。ジュンの上着を羽織って、ジュンに傘を持たせて、貴族にでもなったかのようだった。
「なんか、いいね。誰かと一緒に帰るのって案外楽しいものなんだ」
「そりゃ玲明は校舎も寮も敷地内ですし、帰るって感じもしませんからね〜? 中学の頃はなかったんですか?」
「実は中学じゃあんまり友達がいない方でね? いっつも一人で帰ってたよ。ジュンはないの?」
「オレもそういうのとは無縁でした。学校終わったらすぐ帰って来いって親に散々言われてたんで」
「門限早いと面倒だよねぇ。小学生ならともかく、中学なら委員会とかで遅くなったりもするんだし」
「わかります。まあ、オレはたまに委員会だって言って漫画喫茶に立ち寄ったりもしてましたけどね」
「あっ、悪いんだ〜! でも、それくらいの息抜きがあってもいいはずだよねぇ」
学園全体が寝静まっている時間。ここには茜とジュンの二人しかおらず、邪魔が入ることもない。だからどんなにくだらない他愛のない話でも遠慮せず話すことができた。
だが、男子寮から地下墳墓までそう距離があるわけでもない。楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、もうすでに地下への入り口に差し掛かっていた。
「そこ、滑りやすいんで気ぃつけてください。夜だと余計見えづらいですし」
「はいは〜い……って返事したけど、さすがにそんなお母さんみたいなこと言われなくても平気だよ」
「だってあんた、運動神経まるでないですし。この間のバラエティなんか……」
「あ、あれは! 企画内容がだめだっただけだから!」
来栖茜が運動下手なのはファンの間では周知の事実だった。ダンスはあれだけ上手く踊れているのに、その他の体を動かす事象にまるで才能がない。スポーツ系バラエティにドラマの番宣で出演した時はSNSが大荒れだった。一応、頑張っているのは見ていて嫌というほど伝わってくるので、今のところ炎上らしい炎上はしていないようだが。
「それに前よりまた痩せたみたいなんで、たぶんちょっとの高さから落ちただけですぐ骨折りますよ。ほら、掴まってください」
「……う、そうする…………」
ジュンの言った通り、整備されていない階段はあちこちが欠け、ただでさえ足を踏み外しやすくなっている。おまけに照明もほとんどないせいで、スマホのライトが一番の頼りだった。
ジュンの腕に茜の手のひらがそっと触れる。先ほどより少しは血の通いが良くなった体温に安心を覚えつつも、緊張でジュンの心臓がわずかに暴れ始めた。
「っ、……ここに来るのは随分久しぶりですけど、なんつーか変わんねえっすねぇ」
階段を下り切って暫く進むと、集会所となっていた広場に辿り着く。茜の手が離れていくのを感じながら、周囲の様子を確認した。
そこまで行けば多少の照明がぽつぽつと置かれているので、スマホで照らす必要はなかった。とはいえ巽がいた頃とは比べ物にならないほど人も灯りも減っている。薄ら笑いを浮かべながらじろりとこちらを観察してきている非特待生が、ぱっと数えるだけで五名ほど。壁に寄りかかって隠しているが、何人かの手には札束が握られている。アイドル活動で手に入れたようには見えないので、大方特待生に個人的に握らされたのだろう。その金と引き換えに一体何をしたのかは知らないが。
やはり茜を一人で帰さなくて正解だった、とジュンは直感した。巽の消えた地下墳墓はもう、ただの負の溜まり場だ。安全地帯とはほど遠い。
なるべく目を合わせないようにその中を突っ切って進む。広場を抜けて茜に促される方向に何度か曲がると、古い木の扉が見えてきた。
「ここまででいいよ。この先はもう女子部なんだ」
「ああ、そうなんですね。ならオレはここで。夜更かししないでちゃんと寝てくださいねぇ〜?」
「そうする。あと上着、ありがとう」
茜は羽織っていた上着を丁寧に折りたたむと、大事そうにジュンに手渡した。元々濡れていた茜の服や髪に触れたおかげで少し水分を吸ってしまったが、この程度なら夜が明けるまでには乾いているだろう。
「そういえばお礼をしないとね? 何かしてほしいこととかある? 欲しいものでもいいよ。特待生の私なら大体のものは買えるし」
「別にそういうのが目当てなわけじゃなかったんですけどねぇ……ああ、なら、ファンサしてもらえます?」
「ファンサ?」
来栖茜のファンサに酔いしれてみるのも悪くない。毎日のように歌を聞いているので、ほとんど常にへべれけのようなものだけれど。ファンがアイドルに求めることなんて、元気に歌って踊って、健康な姿を見せてくれて、欲を出せばファンサをくれるだけで良かった。
「……じゃあ、明日のライブは絶対に来て。どこにいても君を見つけるよ」
これ以上ないほどの殺し文句と共に茜が扉を開けると、その先は暫く同じ様子が続いていた。少ない灯りだけが足元を照らす暗闇が彼女を歓迎している。
彼女が帰っていくのを見届けてジュンが踵を返そうとするが、「ジュン」と名前を呼ばれて足を止めた。
「私、ジュンに会えてよかった。負けるなよ、ジュン」
「……」
そう言った彼女の感情はジュンには分からなかった。喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも、呆れているようにも見える。
だからふと、聞いてしまった。
「……明日、何が起こるんです?」
茜は笑って答えた。
「夢のおわり」