指差しのよすが

或るアイドルへの大難

08

 来栖茜は孤児だった。

 赤子の頃に両親に捨てられ、家と呼べる場所は年季の入った児童養護施設で、親と呼べるのは施設の院長のみだ。なので“来栖”も“茜”も、院長が適当につけた名前らしい。本当の名前が何だったのか、そもそも名前がついていたのかどうか、今となっては自分を捨てた実の両親に聞いてみないと分からなかった。

 それ自体を不幸だと嘆いたことはない。幸せが数値化できないのなら、基準となるものと比較することでしかその総量を計ることはできない。

 だが茜にはその基準となる幸せすら持っていなかった。だから、自分は不幸ではない。そう思うことにしていた。

 けれど自分の置かれている環境が歪で、特殊であることは、自分でものを考えるようになった頃にはうっすらと感じ取っていた。

 茜が育った施設は、院長を君主に据えた茨の王国だった。明確なルールが決められており、それを破った者は罰を受ける。どんな社会でも取り入れられているその制度で、施設もまた回っていた。

 例えば、お風呂は一人十五分以内でないといけないだとか。職員から与えられる以外の食べ物を勝手に食べてはいけないだとか。テレビはニュース以外見てはいけないだとか。小さなルールが無数にも張り巡らされて、それに引っかかってしまった子供は地下の反省室に閉じ込められる。子供たちからは“牢屋”と呼ばれていた。

 茜はそれなりに上手くやっていた方だった。要領は良かったのでルールも自然と身についたし、職員たちに特に反抗しようと思う気にもならなかった。模範的な優等生だ。成長してから振り返ると、一種の洗脳に似ていたのかもしれないとも思う。自分が虐げられているという感覚は一切持っていなかった。

 だが茜が小学生の頃、とある事件が起きた。


「職員室にあった先生のチョコレートがなくなっていました。心当たりのある人は?」


 茜も含めた全児童が一箇所に集められ、院長である小太りの女がそう困った顔で話し始めた。

 当然、茜に心当たりなんてものはあるはずがない。茜はつい数分前に学校から帰ってきたばかりだったのだ。職員室に近寄る時間もなかった。

 大半の児童は茜と同じ反応で、ぱちぱちと目を瞬かせながら小首を傾げたり周囲を見渡したりしている。だが院長が次に放った言葉が、子供たちの瞳を一瞬にして変えてしまった。


「なら、こうしましょう。本当のことを教えてくれた子に、残りのチョコレートを一つあげます。だから、もし犯人を知っていたら隠さず教えてくださいね」


 ぎらり、と光る双眸。茜の背筋はまるで霜が降りたようだった。

 チョコレートなんて世間一般ではどこでも買える代物だが、施設の子供にとってはご馳走だった。あまくて、口の中で溶けて消える夢みたいな味。茜もそれを口にしたのは数える程度しかない。誰もがたった一粒のチョコレートを欲しがった。

 犯人は一体誰か。いちばん最初に見つけて密告をすれば、チョコレートが食べられる。まるでスパイ映画の中に入ったような緊張感が茜の肌を突き刺した。

 しかし、茜に衝撃が走ったのはこの直後からだった。


「はい、院長先生」


 子供たちの中から一人、短い手を上に挙げて発言許可を求める者がいた。茜と同い年で、隣のクラスの女子児童だ。


「私見ました。茜ちゃんが盗んでるところ」
「え……」


 がつんと頭を殴られたような衝撃だった。子供たちの白い目が一斉に茜に向けられて、手足が凍ったかのように動かせない。冷や汗が全身からにじみ出て、ばくばくと心臓がはやくなる。

 ゆったりと近づいた院長は目線も合わせず、微笑んでいるが侮蔑を孕んだ目で茜を見下ろした。


「本当? 茜ちゃん」
「ち、ちがう! 茜、盗んでなんか……」
「先生! 僕も見たよ。茜ちゃんが帰ってきた後、職員室のチョコレートをポケットに入れてたの」
「!?」


 茜よりも二つ年下の男の子がそう挙手しながら述べた。身に覚えのない証言に茜の頭はさらに真っ白になる。


「なんで嘘つくの!?」
「嘘じゃないよ! じゃあポケットの中見せてみろよ!」


 子供の世界に年上を敬う考えはない。この泥棒、と罵られ指をさされても、この施設では何も咎められない。咎められる側に非があるのだ。

 茜が上着のポケットを探る前に、強引に院長がその中に手を突っ込んだ。まだ十歳程度の子供服は大人がまさぐるには小さく、プツプツと糸の千切れる音も聞こえた。

 それから院長の手が何かを握った状態で抜かれる。その手のひらを開いた時、子供たちの間からあっと声が上がった。


「……茜ちゃん。いつから嘘つきになったの?」
「え……」


 透明なプラスチックの包み紙に入った茶色い宝石。端が少し溶けて、握力で形が歪んだチョコレ―トがそこにあった。

 ――なんで!? どうして!? 本当にチョコレートなんか盗んでいないのに!

 なぜ、という言葉が茜の頭の中で洪水を起こした。冷静になって考えてみれば他の子供たちに嵌められたのだと一瞬で分かることだったが、当時の茜はそこまで頭が回っていなかった。違うと否定すればするほど院長の顔つきは険しくなり、周囲の目も冷ややかになっていく。


「やっぱり茜が盗んでたんじゃん!」
「嘘つき泥棒!」
「前にお菓子盗んだのもこいつじゃないの!?」
「違うってば! 茜じゃないの!」
「茜ちゃん」


 混ざりけのない罵倒を浴びせられる中、院長は朗らかに笑った。その手が茜の頭に伸ばされる。たまに、いいことをした子供を撫でて褒めるように。

 だが次の瞬間、彼女は茜の髪をぐんと掴んで引っ張った。


「いたいっ!」
「泥棒も、嘘つきも、良くないことだよね? どうしてそんなことしちゃったの? こっちに来なさい」


 茜の髪を掴んだまま、院長はずかずかと歩き始める。頭皮を引っ張られる痛みで茜の両目から涙がこぼれた。少しでも痛みを和らげようと院長の歩みに合わせようとしたが、子供の歩幅では大人に合わせることはまず不可能だった。時折足をもつれさせては転び、また鋭い痛みがやってくる。院長はそんな茜にはお構いなしに、まっすぐにとある場所に向かっていた。

 茜たちが牢屋と呼ぶ、地下の反省室へと。


「やだやだ! やだ! ちがう! 茜やってないもん! 茜じゃないもん! 誰かが茜のポケットにいれたんだよ! 茜じゃないよぉ!」
「いい加減にしようね、茜ちゃん。いつまで嘘つくの? そんなことするなら、もう二度とお外に出してあげないよ?」


 院長にそのつもりはなかったのだろうが、考える力をもたない状態で、まして子供に嘘か真かなんて判断できない。薄暗い階段を下り切ると、黒い鉄でできた扉が見えてきた。茜たちが牢屋と、大人が反省室と呼ぶ部屋だ。

 抵抗も虚しく、茜の体はぽんと扉の中に放りこまれた。髪を捕まれる痛みから解放される代わりに、今度は固いコンクリートの床に投げ捨てられた衝撃が茜の体全体に走る。急いで立ち上がったが、目の前で閉められる扉とガシャンと鳴った施錠音に、目の前が文字通り真っ暗になった。


「反省するまで出してあげませんからね」


 そう言い残して過ぎ去っていく足音に縋りつく思いで、茜は扉に手を叩きつける。


「開けて! 茜本当にやってないの! ごめんなさい! もうしないから! 出して! 出してよ!」


 痛みと恐怖と悔しさで溢れて止まらない涙を交え、茜はそう懸命に訴えた。しかしその叫びが院長に届くことはなく、やがて足音も完全に消えてしまう。そのことを上手く頭が認識できなかった。もしかしたらまだ近くに院長か、他の職員がいるかもしれないと思って、何度もごめんなさいと声を張り上げる。もはや自分が何に謝っているのかもわからなくなっていた。ただこの暗くて狭い空間から出してもらいたくて、必死に泣きじゃくった。

 地下室といっても、ここはいわゆる半地下だった。天井は手を伸ばせば茜でもぎりぎり手が届き、唯一部屋に一つだけある小さな窓からのみ光が差し込む。その他には何もない。茜の震えを止めてくれるブランケットすら用意されていない劣悪な環境だった。

 やがて絶望感に支配された茜は、扉にもたれ膝を抱えて座り込んだ。


「茜じゃない……茜じゃないのに……」


 今頃、茜に濡れ衣を着せた二人は院長にめいっぱい褒められて、チョコレートを貰っているのだろう。自分をこんな場所に突き落としておいて。はらわたが煮えくり返りそうだった。もし今目の前に現れたら、気のすむまで殴ってやりたかった。

 もう、施設の人間を家族だなんて思わない。

 自分に家族はいない。

 誰のことも信用なんてしてやるものか。

 数十分後に職員が迎えにくるまで茜は血が滲むほど唇を噛み、涙で頬を濡らしていた。
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