02.

食事のあと、片づけを終えたキッチンで、
包丁を研ぎ終わり、鍋も磨き終えた。
帰ろうとしたところで、ぴかぴかに磨いたシンクに自分の顔が映って、ふと立ち止まる。


「ひどい顔・・・」

痩せて青白く、笑みのない表情。

昔はもうちょっとふっくらしてたのにな。

いつからだろう、ご飯がおいしくなくなってしまったのは。







これは、ここへ来る少し前の話。




私が学生時代から付き合っていたのは、幼馴染の爆豪勝己だった。
幼い頃から一緒にいて、いつから付き合い始めたのかあやふやなくらい、ずっと近くにいた。

雄英でプロヒーローを目指す勝己と、
料理の道を目指す私。

高校は当然別れ、自然と会う回数も減っていった。
それでも電話や休日のデートはしていて、お互い忙しいなりに繋がっていたんだ。
それなのに。





どこから間違えたのか、

甘くて若い恋の終わりは、とても残酷だった。

私はそこから、動けないでいる。

まだ心が、前を向いていない。


勝己に、ちゃんと謝れていないからーーー






(シズク、こっち見ろや・・・!)
(ごめん、無理、勝己・・・)
(シズク!)
(もう無理・・・耐えられないよ、こんなの・・・!)

最後のシーンが何度もフラッシュバックする。
泣きそうな勝己の顔。
震える自分の声。

伝わらなかった、思い。
突き放してしまった、大好きな手。


あの時、どうしていたらよかったんだろう。
私さえ、もっと強かったら。
勝己を傷つけずに済んだのかなーーー













「シズク、どうした。」
「・・・!」


考え込んでいて気付かなかった。
後片付けを終えたキッチンで、治崎さんが後ろに立っていた。
動かない私を心配してくれている。

「あ、や・・・何でも、ないです、」
「・・・真っ青だぞ。」
「ほんとに、だいじょ・・・っ」

近寄ってきた治崎さんが、私の額に手を当てる。

「熱はない・・・っシズク、泣いてるのか・・・?」
「・・・っごめ、なさ」

優しく触れられるのと同時に、涙がぼろぼろと零れた。
驚いた治崎さんが、顔を覗き込んでくる。

「やめ、見ないでーーー」
「シズク。」
「だいじょぶ、ですからっ・・・」

優しくされると、辛い。
心がきしむ。

私なんて、優しくされる資格なんかない。
大切な人を傷つけて、逃げ出してしまった。

やめて、そんな顔で見ないで。


顔を背けていたら、ふわりと抱きしめられた。

「・・・や・・・」
「落ち着け」
「ちさ、」
「まず泣き止め。このままじゃ帰せない。」

昼間みたいに強引な抱擁じゃない。
逃げようと思えば逃げられる。

でも、動けない。

壊れものを扱うような優しさが、
背中を優しく叩いてくれる、手の暖かさが。

涙を増やして、動けなかった。



「・・・っ、ふ・・・!」
「・・・大丈夫だから」
「う、ええっ」

喉がぎゅっと締め付けられて、嗚咽も漏れる。
もう止まらない涙が、どんどん溢れて来た。

悲しいのか苦しいのか、もうわからない。
私は何がしたいんだろう?


「っひ、ちさき、さ・・・!う、」
「あァ」
「ごめ、」
「謝らなくていい。泣きたいなら泣け。」
「っふ、ごめ・・・なさい、すぐ・・・済みます、からっ」

あやすように抱きしめてくれて。
泣き止まなくちゃと思う程、嗚咽がこみ上げる。

「・・・俺は、お前が好きだ。」

泣き続ける私に、独り言のように治崎さんが言う。
手が背中を撫でてくれて、驚きも涙も緩んでいく。

「蕁麻疹も出ない。こんな事は初めてなんだ。」

残り火のような涙で歪む視界で見上げると、治崎さんは遠くを見ていた。

「俺は、お前をもっと知りたい。もっと・・・触れたいと思う。迷惑なら、拒んでくれ。」
「・・・ふ、っ・・・」
「だが、急がない。ゆっくりでいい。」
「・・・っ」
「お前がもし、俺を頼ってもいいと思ったら・・・聞かせてくれ。」
「・・・」

低くて静かな声。
優しくて、耳をくすぐる。
私は胸がきゅうっと苦しくなって、治崎さんの体に腕を回した。

「っち、さ・・・き、さん・・・」
「・・・!」
「少し・・・少しだけ・・・っこ、のまま・・・」

少しだけ力を込めて、治崎さんを抱き返す。
胸に顔をうずめると、ネクタイに涙の染みがついてしまった。

「・・・シズク、」

ちゅ、と額にキスが落ちて来た。
嗚咽はだいぶ落ち着いてきていて、火照った額に柔らかい感触が気持ちよかった。

「わ、たし・・・まだ、お返事・・・できません・・・」
「いい。急がないと言ったろ」
「・・・っ治崎、さ・・・」

ごめんなさい、と何度も呟く。
優しい声も腕も享受しておきながら、何て都合のいい。
つくづく自分に嫌気が差すけど、
今この瞬間、この腕の中にいたかった。

「に、してもな。」

ぽつりと、小さな声。

「言いづらいんだが、胸が密着しているぞ。いいのか?」
「・・・っ!!」

離してくれるのかと思いきや、ぐっと力が込められた。
ぎゅうっと抱きしめられて、肩に顔を埋められる。

「や、治崎さーーー」
「可愛い声で煽るなよ、泣き顔だけで結構限界なんだ。」
「・・・っ」

すう、と髪を嗅がれて、背中がぞわりと泡立つ。
今までは、優しく、そっと触れてくれていた。
男の人の力、本当は私なんて力ずくでどうにでもできるんだ。

「キスしたい」
「・・・だ、めです・・・」
「本当に?」

ぐい、と顔を近づけられた。
胸が張り裂けそうな位、心臓が暴れてる。
あともう少し、唇が触れる距離。

「・・・拒んでもいい」
「・・・っち、さ・・・」

半開きのまま近づいてくる唇が、あまりにも色っぽくて。
凍り付いたみたいに、動けない。

「・・・っん、」

そっと、一度だけ唇が触れた。
震える吐息が、細く漏れる。

「・・・っお前、今どんな顔してるか、わかってるのか・・・?」
「え、ちょ・・・んん!」

今度はがぶりと、食べられるようなキス。
緩急が激しくて、抵抗できない。

「っう、ふっ・・・んん」
「あァ、こんなに良いものか・・・口は汚いと思っていたが、お前は違う」

器用にキスの合間に囁かれ、また頭を掴まえられる。
逃げられない。
体が受け入れ始めている。
啄まれて、唇を吸われて、頭が痺れていく。

「ひ、は・・・き、さ・・・んうっ」
「もっと、くれ・・・」

堰を切ったように、舌が差し込まれた。
ぬちゅ、くちゅ、と響く音が、私をどんどん甘く溶かしていく。
治崎さんのキスはどんどん強引になって、膝や腰が笑いだす。
合間に聞こえる低い声も、艶を増していく。

「シズク・・・」
「っふ」

上唇をちゅっと吸われて、名前を呼ばれた。
頭がぼんやりして、思考がまとまらない。
キスが気持ち良すぎて、もう何も考えられない。

「好きだ」
「・・・っふ、んんぅ」

答える暇もないくらい、また激しいキスが降ってきた。
どれくらいの時間だったかわからないけど、とても長く感じた。

「・・・すまん。」
「っは、はぁっ・・・」

ふと息苦しさから解放されて、治崎さんにしがみつく。
酸素を求めて喘ぐ私を、また抱きしめて治崎さんはつぶやいた。

「・・・こんな、無茶するつもりじゃなかったんだが・・・」
「っふ、苦しかっ、たです・・・」
「嫌だったか」
「・・・っ、その顔、ズルい・・・ですよ・・・」

治崎さんが子犬みたいな目をしたので、もうそれ以上何も言えない。
落ち着いてきたところで改めて思い返すと、なんだかすごいことが立て続けに起きていた気がする。
告白にキス。
ぼぼ、と顔がまた熱を持つ。

「え、っと、か・・・帰ります!!」
「送ろう」
「いいです!ほんとに!」
「シズク・・・俺が嫌なら、玄野に送らせる」

ぱし、と手を掴まれる。
恥ずかしくて顔を見られないけど、声がひどく弱弱しいのがわかった。

「・・・心配、なんだ。」
「!」
「頼むから」

手は強く握られていない。
振り払える強さにしてくれている。
震えそうな声が、私の足を縫い付けて動かない。






「・・・送って、ください。治崎さん」
「・・・!車を回してくる」

観念して力を抜くと、治崎さんは颯爽と部屋を出ていった。
過保護すぎるのはいつものことだけど、



本当にずるくて汚いけど、










もう少し、治崎さんと一緒にいたくなった。








いつもの車で、治崎さんの運転で。
帰り道は気まずくて、会話がなかなかできずにいた。

(・・・うう、重いなあ・・・空気。)

治崎さんは黙って運転している。
キスされた時、嫌なわけじゃなかった。
でも、甘い幸福感に浸って、過去を忘れることができなかった。
好きだと言ってくれたのに、答えることができなかった。
私はまた、向き合わずに逃げた。

(なにも、変わってないな・・・)


ふう、とため息が零れた。

「・・・シズク、怒って・・・いるのか。」
「へ!?」
「その、無理やり・・・したことを。」
「えっ、や、違います!」
「なら、何故喋らない?」
「・・・っその、ちょっと・・・恥ずかし、くて」

私のため息が聞こえたのか、治崎さんが小さく尋ねて来た。
怒ってなんかいない。
誤解させていたようだ。

「・・・っはぁ・・・・」

信号待ちで停車すると、治崎さんはハンドルに両手を置き、顔を埋めた。

「お前、殺す気か。俺を」
「ええ?!」
「あんまり可愛い事を言うと、襲うからな」
「・・・っかわ・・・!?え!?」

全然状況を把握できないまま、車はまた動き出す。
治崎さんは、少し表情が緩んだようだった。

「今日はもう、何もしない。安心して送られろ。」
「・・・は、はい」
「今日は、な。」
「・・・もう!何笑ってるんですか、治崎さん!」

治崎さんがなんだか嬉しそうなので、普段の雰囲気を取り戻せた。
無事に家に送ってもらい、車から降りて治崎さんの乗る運転席のドアに近づく。

「ありがとうございました。わざわざ」
「送りたかったから送っただけだ。・・・それより、もっとこっちに来い」
「?」

手招きをされて、全開になったウィンドウに近づく。

「おやすみ、シズク」
「・・・っ!」

手を取られ、手の甲にキス。
気障なしぐさも、腹立たしいくらい様になっている。
ボン!と音が出る位顔が赤くなった私を、にやにやと眺める治崎さん。

「もう、もうっ!何もしないって、さっき・・・!」
「そうだったか?」
「・・・!治崎さんのバカ!おやすみなさい!!」

恥ずかしくて、吐き捨てて家に向かう。
玄関で少しだけ振り返ると、治崎さんはまだそこにいた。

「あァ。明日の朝も迎えに来てやる。」
「自分で行けます!!」

扉を思い切り閉めて、しばらくの後にエンジン音が遠ざかっていった。









「・・・もう、悲しかったのに、どっか行っちゃったよ・・・」

1人きりの家。
家族はいない。

独り言が、吸い込まれて消えた。



















朝になって、玄関の前で車が停まった音がした。

「え、ちょっと・・・ほんとに、来てる?」

支度の途中で、カーテンを開ける。
治崎さんは車の中から片手を挙げた。

「ちょっとちょっと、早すぎるよ・・・!」

私はばたばたと着替えて、とりあえず外に出た。

「おはよう、シズク」
「おはようございます・・って、違う!いいって言ったのに!」
「途中で倒れたらどうするんだ。」
「大丈夫ですってば!・・・もう、まだ用意できてないんで、上がってください!」
「・・・いいのか。」
「なんですか、その間。おかまいはできませんよ?嫌ならーー」
「車を置いてくる。」

あっさりと答えて、治崎さんは近くのパーキングに向かった。
その間に家に戻り、簡単に玄関を整える。
めったに人の来ない家だから、気の利いたものはないけど。
コーヒーくらいなら、用意できる。
用意をしていると、治崎さんが玄関に現れた。

「・・・片付いているな。」
「あ、どうぞ。まだメイクもしてなくて・・・これ飲んで待っててくださいね。」
「化粧なんぞいらんだろう。」
「いりますよ、身だしなみです、身だしなみ。」
「そのままで充分可愛いが。」
「・・・っ、もう、とにかく、大人しくここにいてくださいね!」

子供みたいな扱いだったけど、治崎さんは大人しくソファに座ってくれた。
メイクをするために奥の部屋に引っ込むと、
改めて治崎さんが自宅にいることの違和感がすごい。

「・・・かっこいいな、もう」

マスクを外して、ソファに座ってコーヒーを飲んでいるだけなのに、様になっている。
治崎さんはイケメンっていうより・・・なんていうか、美人だ。
顔も線の細い感じの美形だし、まつげも長くて色も白い。
自分の顔をメイクしながら、鏡で治崎さんを盗み見る。

「・・・人の部屋に入ったのは、初めてだ。」
「え、そうなんですか?すみません、何にもない部屋で」
「良い。お前らしい。」
「そう、でしょうか」

簡単なメイクを済ませ、髪を整えて、なんやかんやと時間は過ぎていく。
その間も治崎さんは待ってくれていて。
待たせて申し訳ないけれど、女の子の準備は時間がかかるもの。
持ち物を確認して、バッグに入れて、としている時に、背後に気配を感じた。

「まだかかるのか。」
「・・・待たせて申し訳ないんですけど。もう少し待ってください。」
「怒ってるように見えるな。」
「怒ってません。・・・お迎え、来てくれてありがとうございます。」
「シズク、迷惑だったか?」

傍若無人なこの人に似合わない、殊勝なせりふ。
ぱっと振り返ると、想像より近くに治崎さんの顔があった。

「迷惑なんて・・・違います、近いです。」
「キスしていいか。」
「だめです。」
「・・・早いな、返事が。」

食い気味に拒否すると、治崎さんはむすっと眉間に皺を寄せた。
朝から何を言ってるんだ、この人は。

「嫌ならしない。」
「・・・」

また、悲しそうな目。
それは反則だって・・・!
それきり黙ってしまった治崎さんに、私はつい仏心のようなものが芽生えてしまうんだ。

「・・・一回、だけ・・・・なら。」
「!」
「・・・なんですか、その顔。」
「いや・・・ダメ元だったんだ。」
「しなくていいなら、いいです」
「する。こっちに来い」

今度は治崎さんが食い気味に、ソファを叩きながら。
横に座れってこと・・・?
そんなに改まってするのかと、今さら恥ずかしくなってくる。

「・・・失礼、します」
「お前の家だろう」
「だって・・・」

治崎さんのオーラが凄すぎて、もう私の家とは思えないんだもん。
すごすごと隣に腰を下ろすと、治崎さんがマスクを顎までずらした。
身構えてしまって、緊張が高まる。

「・・・シズク」
「っ、はい」
「そんなに身構えるな、こっちが緊張しちまう」
「・・・だって」
「ほら、おいで」

手を広げて、あくまで紳士的に。
要望はセクハラまがいだけど、この人は基本的にスマートだ。
無理強いはしない。基本的に、だけど。

とりあえずハグを求められているようなので、おずおずと近づいてみる。

「・・・顔色は良好だな。」
「あんまり、見ないで・・・ください、」
「その恥じらう顔、理性が飛びそうになる・・・」
「!治崎さん、キスだけ・・・んむっ」

顔色をチェックされていると思ったら、急にキス。
大人なキスじゃないけれど、確かめるように長いキスだった。

「・・・ん」
「・・・っ、も、い・・・ですか、」
「お前がいいなら、もっと・・」
「も、だめ・・・ですっ」

治崎さんが色っぽく囁くから、慌てて胸を押し返す。
昨日のキスがフラッシュバックして、顔が熱くなってしまった。

「いい顔だな・・・何か想像したか?」
「・・・!もう、終わり!です!」

体を包む腕を無理やり引きはがして、ソファから立ち上がる。
名残惜しそうで楽しそうな治崎さんを置いて、玄関へ向かうと、
ちゃんと後からついてくるのが憎らしい。

施錠をして、治崎さんの車に向かう途中。

「お前、屋敷に住まないか?」
「え、」

突然、治崎さんがそんなことを言い出した。

「今の住居に愛着があるのなら無理は言わないが」

淡々と、業務連絡のように。

「いえ・・・でも、どうして。」
「部屋はある。セキュリティもその辺の賃貸物件より優秀だ。」
「そりゃあ・・・そうでしょうね。」
「何より、」




「家賃はいらん。」



「住ませてください。」



瞬時に私の中の家計簿が起動し、返答した。
いや、だって、困ってるもん。家賃高いし。
1人暮らし、さみしいし。

お屋敷に住めば、常に誰かいるし・・・
治崎さんのちょっかいも、落ち着くよね?




「よし、じゃあ今日中に荷物を運ばせよう。契約の破棄はこちらで済ませておく。」
「え、急すぎないですか」
「善は急げと言うだろう。」
「いや、でも片付けとか・・・」
「組のモンにやらせろ。」
「嫌ですよ!服とか色々あるんですよ!」
「・・・む、確かにシズクの下着をあいつらに触れさせるわけにはいかないな。」

あんまりはっきり言うもんだから、返す言葉もない。
私はなんとか治崎さんを説得して、今週中に引っ越しの支度を自分ですることにさせてもらった。

八斎會からいただくお給料は、十分すぎるほどだ。
でも、それでも女の一人暮らしには色々物入りで。
正直カツカツだったので、治崎さんの申し出はとてもありがたかった。
通勤費も、時間も節約できる。
その分、みんなにおいしいごはんを食べてもらえる。
こうやってすぐに料理に繋げて考えるのは、私の昔からの癖だった。


朝のお迎えはこうして終わり、今日も1日が始まる。

「お、ご両人朝からアツいねぇ」
「なんだなんだ、朝帰りか?」
「違いますからっ!もう、今朝からおかわり自分でしてもらいますからね!?」
「シズク。お前は俺の世話だけしていればいい。」
「ひゅーひゅー!」



つ、疲れた・・・!


朝食の調理の前に、こんなに消耗するなんて。
キッチンに着いた頃には、私は肩で息をしていた。