三男坊の帰還
弁天に借りた奥座敷をペシャンコにして、更には風神雷神の扇まで紛失させてまった矢三郎。彼は夏から秋にかけて大阪日本橋と京都を行き来し、弁天からの逃走劇を繰り広げていた。
母が一度宝塚鑑賞のついでに大阪へ出向き矢三郎と話をしたらしいが、姿をころころ変えて元気にしていたらしい。
よくやるなぁと桃玄は、逃げの矢三郎の相変わらずな阿呆ぶりに感銘を受けたのだった。
「教えませんからね」
つい先日夷川家との和解を諦め、勝手に買って出た仲介役を勝手に放任した桃玄であるが、別に「もうどうでも良いや!」となった訳ではない。きちんと彼女は下鴨家の狸であるので、金閣銀閣が矢三郎の行方を聞いて来たとて家族の情報は売らない決心があった。
「違うよ。僕らは矢三郎の居場所が知りたいんじゃないんだってば」
「僕らが話しているのは海星の事なんだよ」
「だから、海星の話が矢三郎の居場所に繋がってるじゃないですか」
桃玄の真っ当な意見に、二匹は分かりやすく苦々しい顔をした。
鴨川デルタで人間観察に励みつつのんびりとした時間を過ごしていた桃玄の元へ突然現れ、つらつらと悩み事をぶちまけて来た金閣と銀閣。
その悩み事というのはそんなに大きな事でも何でもなく、海星がここ最近よく黙って遠出をするから心配!という物である。
「別に海星が何処で何をしてようが貴方達には関係ないでしょう」
「君だからそう思うんだろうけどね、海星は元々黙って遠出なんかしない狸だったんだよ」
金閣の言葉に、うんうんと頷く銀閣。
桃玄は毎日ふらっと何処かへ行って帰って来ない事が多々あるので、海星が遠出しようが別段驚いたりもしない。
故に「はぁ」というどうでもよさそうに相槌を打った桃玄。「それがだよ」と金閣が彼女が放棄した会話の主導権を再び握った。
「矢三郎がいなくなってから増えている。頭脳明晰な僕だからわかったね。矢三郎が海星をたぶらかしていると!」
「何度聞いても無茶な暴論ですね」
「僕らは心配で心配で夜も眠れないんだ!」
「桃玄、僕らの仲じゃないか!お願い!」
例え友人である金閣からの頼みでも、こればっかりは矢三郎の命に関わる。今回だけでなくとも、態々家族の情報を彼らに流す訳もないだろうに。
よっこらせと立ち上がると、縋り付いてくる二匹を撒くことにした桃玄。
「無駄足でしたね。どんなにお願いされても教えませんよ」
「桃玄のドケチ!」
「酷いよ桃玄!」
「知らなかったんですか。私はドケチで酷い狸なのですよ」
桃玄は最後まで矢三郎の居場所を教えることはなかったが、夷川親衛隊のお陰で彼の居場所を特定した金閣と銀閣が矢三郎の居場所を弁天に告げ口をするという面倒事を起こした。
「逃げの矢三郎逃走劇」が終焉を迎えたのは、五山送り火の約三ヶ月後の事であった。
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金閣銀閣のせいで矢三郎の居所が弁天にバレた為阿呆の双子に対して桃玄は少々苛立ちを覚えていたものの、京都狸界の噂に反して矢三郎はピンピンしていたのであの苛立ちは彼女の中からすっかり消え去っていた。
狸が恐る金曜倶楽部に属している弁天なんかと態々関わる矢三郎も悪い、なんて。鍋になった説が浸透していた弟が狸界でそんな言われようなのは複雑であったが、桃玄も弁天なんかに態々絡む矢三郎の心境には理解が追い付いていない。
しかしそんな渦中の矢三郎は弁天のご機嫌を取ったらしく、逃走劇を繰り広げていたのが嘘のようにすっかり京都に舞い戻って来た。
「矢三郎の事だから大丈夫と思っていたけれど、やっぱり何とかなったね」
先ほど朱硝子の店主に挨拶に行ってくると出かけて行った矢三郎。その背中を思い出しながら、舞殿の階段に腰掛ける母がそう呟いた。
大阪から帰還すると真っ先に糺ノ森へ現れた矢三郎の無事を誰よりも喜んだのは、案の如く母であった。
矢三郎不在のこの三ヶ月間、薬師坊に頭を下げたり怒ったりしていた矢一郎は小言を言っていたが弟の無事は素直に嬉しい様子。矢四郎なんか半泣きだったし。
桃玄も桃玄でもちろん安心したものの、ポーカーフェイスの中に不満顔を紛れさせていた。
「赤玉先生の世話はもう懲り懲りですからね、帰って来てくれて本当に助かりますよ」
舞殿の階段に母と隣り合わせで腰掛けていた桃玄がそんな文句を混ぜた返答をするものだから、母は彼女へ視線を向けた。
「逃げ回った挙句矢四郎に任せてしまった貴女が何を言っているの」
「あの大役は矢四郎に譲ってなんぼですからね」
「全くもう、またそんな適当な事を言って」
「母上も、矢四郎は心胆を練らなければいけないと常々言っているじゃないですか」
桃玄の言葉に母は「痛いところを突かれてしまった」という表情をした。
あまりに意気地なしでビビりな矢四郎にそんな事を何度も言って来ていた為だろう。実際、母のその言葉に奮い立たされたからか、桃玄から薬師坊の世話役を任された際に矢四郎は奮起していた。
「いつも思っているけれど、桃玄は本当に矢三郎と似ているのよね」
「矢三郎ほどの阿呆ではないですよ」
桃玄の言葉に母はクスリと笑った。
そんなところもよく似ているわ、なんて思ったんだろうなと彼女は苦笑した。
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母が矢一郎を連れてビリヤード場に行くと言うので、そのまま見送った。
矢三郎は朱硝子、矢四郎は薬師坊の世話、そして母と矢一郎はビリヤードへ。
下鴨神社に一匹だけになってしまった桃玄は、ふらりと気ままに出掛けることにした。
先ほど話題に上がった矢四郎の頑張りでも見物しようかと企み、彼女は下駄を鳴らしコーポ桝形へ向かった。
が、しかし。矢四郎の頑張りを見ることは叶わなかった。
「矢三郎がいる」
古びたアパートが故か、窓が全開だった故が か薬師坊の部屋の中で巻き起こる口論は丸聞こえであった。
「風呂に入れ」だとか「この助平天狗」だとか矢三郎の怒声が響き渡っている。それに対して薬師坊も「しょうもない」だとか「捻り潰してやる」だとか怒号を浴びせている。
これは矢三郎からよく聞いていた「銭湯行きをめぐる駆け引き」だなと瞬時に理解したので、部屋にいるであろう矢四郎を鼓舞する言葉を心の中で唱えると桃玄は早足で退散することにしたのだった。
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あの後商店街をウロウロし、人間の知り合いと鴨川公園で世間話なんかをして、更には賀茂大橋のど真ん中でぼうっと川を眺めたりなんかして暇を持て余した桃玄が糺ノ森へ戻ったのは、すっかり夜になってからだった。
桃玄が帰ると、寝床だというのに居心地悪そうにソワソワして座っていた母と矢四郎が彼女へ一気に視線を向けた。
「矢三郎を見なかった?」
「いえ」
しかし待ち望んでいたのは桃玄ではなく矢三郎であったらしく、彼女の返答に母は「そう」とだけ返事をした。
よく見れば寝床に横になっている矢一郎がいた。背中を向けて寝ているのでどんな心境なのかはわからなかったが、涙の匂いがしたので桃玄は余計に何が何だかわからなかった。
ビリヤード場で何かあったのか?という突拍子もない予想を立ててみたが、流石に無理があるなと思って考えるのをやめた。
「兄上はどうしたんですか?」
寝息が聞こえて来ない事もあり、矢一郎は起きている事がわかっていた。その為気を使って母に小声で問い掛けると、彼女は「赤玉先生と行った銭湯で何かあったみたいなの」とコソコソと耳打ちで教えてくれた。
どうやらあの銭湯行きをめぐる駆け引きの後連れ出せた様だ。
暫くすると心待ちにしていた矢三郎が戻って来た。すぐさま母が彼に手招きをする。
「何があったの」
矢一郎が怖い顔をして帰って来てこと、そして何も言わないでずっと横になっている事を矢三郎に告げると、彼は少し黙った後に静かに答えた。
「矢二郎兄さんのところに行ってたんだ」
「それで?喧嘩でもしたの?」
母の問い掛けに答えるのではなく、矢一郎へ声をかけた矢三郎。
「兄貴、母上が心配している。なんとか言え」
しかし矢一郎は黙ったままだった。きっと長兄のことだから、考えをまとめてから言葉を吐き出そうとしているのだなと桃玄は思った。
矢一郎の返答を待つ間、桃玄は順序立てて彼らの本日のスケジュールを整理することにした。なにせ何が何だかわからない。
朱硝子に行った筈の矢三郎がコーポ桝形に行き、口論の末薬師坊を銭湯に連れ出した。そしてその後、母とビリヤード場にいた筈の矢一郎が矢三郎と二匹で矢二郎のところへ行った結果、こうなった。
そんな考えを張り巡らせて余計混乱していると、漸く矢一郎が母を呼んだ。
「なんだい」
「母上は知っていたのですか?」
「何をだい」
「矢二郎が井戸に籠った理由です」
矢一郎の言葉に、母が息を呑んだのがわかった。言葉を選んでいるかの様な若干の空白の後、母は静かに口を開いた。
「我が子のことだもの。私が分かってやらなくては、あの子があんまり可哀想だよ」
その言葉を聞いて、桃玄は理解した。
母は"父と最期に会ったのが誰か知っている"のだと。
今何が起こっているのかを桃玄はすっかり理解した。
矢一郎たちは知ってしまったのだ。
下鴨総一郎が最後に会った。そして彼が鍋に落ちる原因を作り出してしまった狸が誰なのかを。
………
2025 12.03