わだかまりのその先へ

下鴨家の五兄妹の丁度真ん中で産まれた私には女であるという小さな劣等感があったので、それを払拭する為に子供の頃から工夫を施していた。
まずは下駄を履いた姿に化ける様になった。これは父上が赤玉先生と仲良くしていたからだ。"下駄は天狗の履き物"という認識に至り、狸でありながらそれを自在に操る私はすごい。という結論に満足していた。

「この下駄の音で桃玄が何処にいるのか遠くでもわかる」

自在に操れる様になったのはもう少し大きくなってからだったので、不慣れに下駄を引き摺る私を見て父上はそう言って高らかに笑った。
下駄を引き摺る私はその父の言葉が頗る恥ずかしくて、劣等感を埋める為に下駄を履く練習をしながら再び思案した。
そうして常に敬語で喋る様になった。
父上が使う天狗相手への丁寧な言葉遣いが素晴らしいと感じた為だ。
そんな素晴らしい言葉を常に使う私は兄や弟達よりも素晴らしいのだと、至極阿呆な思考で実行していた。

「丁寧な言葉を積極的に使う事は良い行いだ」

自発的に敬語で喋り始めた私を父上は褒めてくれたが、何処か手放しで喜んでいる様には見えなかった。
そんな紆余曲折がありながら私は大人になって酒が飲める歳になった。
その頃になると私の意味不明な劣等感は殆ど姿を見せなくなっていたが、父上や矢二郎兄さんが大好きだという酒を飲んでみたいという想いは強まっていた。
程なくして父上と二匹で酒を飲む機会がやって来た。私は初めて飲んだ酒で酔っ払い、これまた初めて自分の内にある悩みをぶち撒けてしまった。

「小さな劣等感がありました、私だけが女だから」
「女だから何だと言うのだ。女としてではなく、下鴨桃玄という一匹の狸として生きれば良いのだ」

その父上の言葉は深く私の髄に刺さった。
あんまりにも刺さったものだから今でも団体行動が出来ずに勝手気ままに生きてしまっている。
きっと私が下駄を引き摺りはじめたり、敬語で喋り始めた理由に父上は昔から気付いていたのだろう。と私は思っている。
それから何度も父上と飲み歩き、矢二郎兄さんとも飲み歩き、三匹でも飲み歩き、気付けば自分が酒豪だと気付かされた。
酒を飲むのは至極楽しかったし、日々の溜め込んだストレスを発散させるにはもってこいだった。

「矢二郎兄さん、飲みに行きませんか?」

忘れもしない、あの日は12月26日だった。
クリスマスも終わり大晦日に向けて洛中はざわめきたっていた。その人間の流れに乗りたいと考えていたのだ。
父上は偽右衛門という立場であるので忙しかった為、私は矢二郎兄さんだけを飲みに誘った。

「悪い、今日は大事な用があるんだ」

しかし予想外にも断られてしまい、渋々私は一匹で酒を飲みに出た。
ほろ酔いで何軒か店を廻った後、私は偶然見てしまった。父上と矢二郎兄さんが二匹で並んで店から出て行くところを。
矢二郎兄さんの大事な用というのは、父上との密会だったのだ。
矢二郎兄さんが何か悩んでいる事は前々から知っていたが、私には話せない悩み相談をしていたのだなぁなんて小さな疎外感に少ししょんぼりして糺ノ森へ帰ったのを覚えている。
その晩泥酔した矢二郎兄さんだけが糺ノ森へ帰って来たが父上は数日経っても戻らなかった。
そうしてあの日、父上が鍋にされていたと知ったのだ。
とんでもない事だと私は恐怖を感じた。
私が見た父上の最後の姿は、酔っ払って矢二郎兄さんと肩を並べていたところだったからだ。
泥酔した父上を矢二郎兄さんが街に放って行ったせいで父上は鍋になってしまったのか?すぐに出て来た疑念を頭から振り払った。全く別の理由で鍋になってしまった場合もあるのに、私はどうしても矢二郎兄さんのせいなのではないかと思ってしまった。
あんなに仲の良かった矢二郎兄さんを疑ってしまう自分を恥じ、私はこの事実を誰にも言わぬ様努め今まで過ごした。
だと言うのに、何処からこの話が漏れたのだ。


▪︎


「おや?」

朱硝子へやって来た矢三郎が小さく驚いた声を上げた。
長い事禁酒中であった筈の桃玄がカウンターに座り、ニセ電気ブランを腹中に収めていたからだ。

「姉さん、禁酒中だったのでは?」
「やめました」

即答した桃玄の態度はいつもと同じ様な、しかし雰囲気が変わっている様な。
兎に角矢三郎は違和感を感じた。
矢三郎が隣の席に腰掛けると、桃玄はグラスに残っていたニセ電気ブランをグイッと飲み干した。

「桃玄、久々なんだから加減をしろよ」
「久々だから加減がわからないんですよ」
「全く。お前は昔から酒飲むと気が強くなるよな」

朱硝子の主人の忠告に強気で言い返した桃玄は、久々の飲酒故に既に酔い気味であった。矢三郎が「何杯目だい」と聞くと主人は黙って両手をどちらもパーにして見せた。
普段は一歩引いて感情的に等殆どならない温厚な狸だが、主人の言った通り酒を飲むと気が強くなり些か感情的になる。
昨晩は矢二郎の事があったので、飲酒はそのせいか?と矢三郎が考え出したところで桃玄が彼を呼んだ。

「ねぇ矢三郎、話をしてもいいですか?」
「構わないよ」

ロックグラスに残った氷をカラカラ回しながら桃玄は静かに話し始めた。

「貴方達は昨日知った様だけど、矢二郎兄さんの件を私はずっと前から知っていたんですよ」

案の定、桃玄の禁酒解禁は矢二郎の一件に関連していた。
彼女は手に持っていたロックグラスをカンとテーブルに置くと卑屈な笑みを浮かべた。

「矢二郎兄さんはきっとまだ悩んでいるというのに、私はなんて酷い狸なんでしょうね。家族に知られた途端口封じの為の禁酒もやめてしまった」
「姉さんはそれで、酒を飲むのをやめたのかい?」

桃玄は矢三郎の問い掛けに静かに頷いた。
酒を飲める年になった矢三郎ならわかる。飲酒をすると気分が高揚するし、逆に弱気な部分も露呈してしまう。
桃玄には父と矢二郎に関する"絶対に外に漏らしてはいけない情報"があった。
彼女は酒を飲むと気が強くなり饒舌になる部分がある。金閣や銀閣と接点の多い彼女は余計慎重になり、結果的に禁酒という方法を取ったのだろう。
しかし昨晩矢三郎たちに知られてしまったのだ。あんなに大好きな酒を我慢してまで漏らしたくなかった事実が実は世に出ており、あまつさえ家族の耳に入ってしまったのだ。
長く抑え込んで来た感情が爆発し、酒に逃げてしまうのもわかる気がすると矢三郎は思った。

「私は兄さんを真っ先に疑ってしまったんです」
「けれど父上に最後に会ったのは矢二郎兄さんだ」
「そうだとしても、家族なら信じてやらねばならなかったのに」

家族の中でも特に気が合い、二匹でも飲みに行っていた仲だ。だというのに桃玄はいの一番に矢二郎を疑ってしまった。
禁酒を始めたのは情報を漏らさない為だったが、矢二郎に会いに行かなかったのは彼に対して後ろめたさがあったからだ。

「会いに行かないのかい?」

矢三郎の問いに、桃玄は散々黙って考えた後に「会いたい」と呟いた。そうして「謝りたい」と続けた。
それならば話は早い、と矢三郎はいつの日か解いた腕捲りを再開させた。

「では、行こうよ」



▪︎


六道珍皇寺の井戸にほろ酔い気味に落ち着いた桃玄を引き連れ訪れた矢三郎は、井戸の底へ声を掛けた。

「兄さん、起きてるかい?」

井戸の底に住み着いた蛙が動いた気配がした。

「おや、矢三郎。こんな時間に訪ねて来るなんて珍しいな」
「姉さんを連れて来たよ」

姉さん。そのフレーズに矢二郎が一瞬固まった風に感じた。実際には矢二郎の姿は見えていないので、感覚の話であるが。
可笑しな間が出来たものの、矢二郎はのんびりとしたままの口調で桃玄へ声を掛けた。

「やぁ桃玄、息災だったかい?」

父が亡くなり、生気を失った矢二郎が井戸に引き籠ってから約数年ぶりの会話であった。桃玄は今にも泣き出しそうな声色で「はい」と返事をした。

「…矢二郎兄さんは?」
「俺は何せ蛙だからね。妙ちくりんな病気をしない様に努力しているよ」

数年間も会いに来なかった自分に小言を言うでもなく、変わらずに優しく返事をしてくれた矢二郎に桃玄は静かに涙を浮かべた。
それは懐かしさからの涙なのか、それとも罪悪感からの涙なのかは矢三郎にはわからなかった。
しかし桃玄は静かに涙を流しているだけで何も言わなくなってしまったので、その背中を軽くつついて話を促してやった。
促された桃玄は両目が零れ落ちる涙をなんとか吹き切ると、井戸の淵に両手を付きゆっくりと身を乗り出した。

「…矢二郎兄さんに謝らないといけない事があるんです」
「なんだい」

桃玄は先程矢三郎に話した話を詰まりながら話した。
あの日の大事な用事というのが父との約束だった事を知っていた事。矢二郎が泥酔して父を街に放置した結果あんな事になったんだと疑ってしまった事。あんなに仲の良かった兄を信じられなかった負目があった事。その話を一切合切飲み込み禁酒をしていたが、何処かから話が漏れて家族に知られてしまった故に酒に手を出してしまった事。
ひとしきり話し終えると、黙って桃玄の話を聞いていてくれた矢二郎が静かに相槌を打った。

「…そう言う事か」
「兄さんがどうという話ではないの。私の中の後ろめたさが、兄さんに会いに行くのを拒否してしまっただけなんです」
「……俺だって、桃玄の立場ならそう思ってしまうだろうさ。…それに、実際父上と最後に会ったのは俺だ。お前が気に病む事じゃない」

矢二郎も矢二郎で辛いのだと桃玄はわかっていた。自分が次兄の立場であったら耐えられないだろう。
それなのに勝手に問題を抱えた妹にこうまで優しくしてくれるのか、と彼女はまた涙が込み上げたがなんとかグッと抑えた。

「桃玄、あの日父上が俺に言っていた事があるんだぜ」

矢二郎が突然話を変えて、父との密会の話をちょこっとだけ教えてくれた。
生前の父の言葉、と聞くと矢三郎も興味が湧いて聞き耳を立てた。

「父上は、俺たち兄妹が憎み合ったり離れ離れになるのが恐ろしいと言っていた」

天狗まで化かした父が恐れていた事を、桃玄は知らず知らずのうちにしてしまっていたと言う事になる。彼女は父に対して少しだけ罪悪感を抱いた。
「今の俺が言えた立場では無いけれど」と茶けたように付け足した矢二郎に、桃玄はなんて声を掛けようかと少し悩んだ。

「…では、また来てもいいですか?」

矢二郎が「うん」と返事をしたので、桃玄は「これで堂々と酒が飲める」と茶けて言えた。


………

2025 12.04