その感情を彼女は知らない
江戸時代から続く仙酔楼が吹き飛んだあの晩の事を思い返すと、桃玄の感情は混沌となる。喜怒哀楽の全ての感情を体験した唯一無二の晩であった。
「ああいう現場を、人間の若者はカオスと呼ぶらしいですよ」
「カオスかぁ」と井戸の中の矢二郎がおうむ返しした。
金曜倶楽部と狸の集会が偶然交わったあの後、弁天に怯えた長老たちが一斉に毛玉に戻ってしまいてんやわんや。矢一郎が逃げ出した事で何故か母が代わりに狸鍋になるところだったのだが、それに気付いた早雲が何故怒り散らかし、そしてなんと数年前に母を助けた人物が金曜倶楽部に紛れ込んでおり「この子だけは食べちゃダメだ!」と母を檻ごと奪い揉め始めてしまったのだ。その後も弁天の浮気だなんだと色々あった末に怒った薬師坊が仙酔楼を吹き飛ばしてあの場は強制的にお開きになった。
今思い返しても笑うしかない出来事だ、と桃玄はくつくつ笑った。
そんな桃玄に矢二郎がふと尋ねた。
「金閣たちとはあれっきりかい?」
金閣という名前が出た事で、笑っていた桃玄の表情が一瞬で分かりやすくむっと膨れた。
「あんな事をしでかしておいて謝りにも来ないんですから、あんな狸はもう知りません」
あの晩から既に三日経っているが、金閣銀閣からの謝罪は未だ受けていない。きっと寒空の中大阪湾まで流れて行ってしまい、風邪でも拗らせているのだろうが。
あからさまに不機嫌そうに返した桃玄に矢二郎は言った。
「海星が訪ねて来たんだ」
「いつの話ですか」
「二日前だね。お前にも会いたがっていたよ」
「今回のことについての謝罪をして回ってるんですかね」
言ってため息を吐き出すと、桃玄は持参していたニセ電気ブランを一口飲み込んだ。
矢二郎は「だろうなぁ」とのんびり相槌を打った。
どうやら海星はあの出来事の翌日に矢二郎の所へ来て話をしに来たらしい。何を話したのかは定かではないが、きっと彼女なりの謝罪やらなんやらだろう。
阿呆二匹と早雲を抱えた海星の気苦労は計り知れない。
▪︎
1月1日。下鴨家の狸たちは家族で八坂神社へ出かける事にした。
住処と隣接している下鴨神社には毎年お参りしているが、八坂神社に行くのは数年ぶりであった。
阪急電車に乗り、四条大橋に降り立つとそこは初詣客でごった返していた。
「うわ、ものすごい人出だな」
「だから止めましょうと言ったんですよ」
「新年早々文句を垂れるんじゃない」
矢一郎が八坂神社へ向かう人間の行列を一望し渋い顔をしたが、桃玄はもっと渋い顔をしていた。そんな彼女を叱責したものの、矢一郎もあの晩鴨虎になり暴れ回った事を長老たちに怒られていた。しかし情状酌量の余地があると言う事で許されているのだが。
「押し潰されては困るわねぇ」
人垣に流されながら八坂神社を目指しつつ、母が矢四郎の肩を抱きながらぼやいた。
しかしこの場で一番押し潰されそうなのは矢三郎の肩に乗った蛙である。
「落とさないでくれよ、矢三郎。踏み潰されちゃうから」
矢二郎はまだ蛙から狸の姿に戻ることが出来ないままだった。その為初詣も蛙の姿のまま参加する事にして、当分の間は井戸と糺ノ森を行き来して生活すると彼は決めているらしい。
そのまま八坂神社へ向かって歩いていると、金曜倶楽部で母を救った布袋さんに出会した。正しくは淀川教授であるが。
彼は矢三郎に気付くと「あけましておめでとう」と新年の挨拶をした。矢三郎も同じように新年の挨拶を口にすると淀川へ尋ねた。
「お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。それにしてもあれだね。いくら思い返したところで、あの夜に何が起こったのかさっぱりわからんねぇ」
とばっちりを受けた淀川は、あの晩四条通りで薬師坊に追いかけ回されたのだ。弁天とデキていると矢三郎がホラを吹いた為だ。
追いかけ回されるきっかけを作った矢三郎は、罪滅ぼしで体調を気に掛けたのだろう。
しかし淀川はさして参っている様子でもなかった。
「散々な目にあったし、金曜倶楽部は除名になったし…」
「しかし、ご無事だったらそれで良いじゃないですか」
「まぁそうだね。結局それだ」
そう言うと淀川は「また研究室に遊びにおいで」と矢三郎に言って、連れていた学生達と立ち去って行った。
淀川と別れた後、下鴨家の一行はやっとの思いで八坂神社の門前まで辿り着いた。どこもかしこも人集りの中、冷ややかな顔つきをした灰色の背広姿の男達を発見した矢三郎。
彼は矢一郎の脇をつついて「あれを見ろよ」と言った。
「鞍馬の天狗たちか?」
矢一郎は矢三郎が指差した方を向きそう言うと、蛙の矢二郎が独り言のように呟いた。
「この中に、どれだけ天狗やら狸やらが混じっているかわからないなぁ」
「蛙でも初詣に出掛けますからね」
矢二郎を茶化すように桃玄が言った。矢三郎が感心した面持ちで「天狗も初詣に来るんだな」と呟くと、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
「天狗が初詣に来て何が悪い」
薬師坊と弁天がそこにいた。桃玄が小さく悲鳴を上げて矢一郎の背後に隠れたが、しっかりと彼に睨まれた。
二人で初詣に出掛けている姿を見たのは何年ぶりの事だ、と矢三郎は驚いていたが母が率先して新年の挨拶を口にした。
「これはこれは如意ヶ嶽薬師坊様。あけましておめでとうございます」
母に続くように兄妹たちも新年の挨拶を口にすると、薬師坊は満足そうに「うむ」と返事をした。
「これからお参りですか?」
「そのつもりだったのだがな、面倒になった」
この人集りを見て心底面倒臭くなったのだろう。桃玄も同じ気持ちだったが、天狗と同意見なのはあまり良い気はしなかった。
薬師坊は眉間に皺を寄せて「こんなところで延々と待っているつもりはない」と文句を垂れたが、横にいた弁天がすぐに彼の両肩に手を添えた。
「お参り致しましょう。ね、先生」
「まぁ、そうだな。たまには悪くない」
弁天の説得を聞くとすぐに眉間の皺を緩めた薬師坊。
こうして下手に出て天狗のご機嫌を取らないといけないというのが、桃玄は苦手なのだ。バレていないと思って思いっきり苦い顔をする桃玄であったが、列に並ぶ退屈凌ぎに薬師坊が唐突に説教を始めたので、その顔は苦い顔から仏頂面に変わった。
「矢一郎よ。お前はもう少し頭を柔らかくせよ」
矢一郎へ向けて言った薬師坊は矢三郎の肩に乗る矢二郎へ顔を向けた。
「矢二郎よ。お前はとりあえず蛙から元に戻れ」
矢二郎へ向けて言った。次は桃玄へ顔を向けた。
「桃玄よ。お前はもう少し真面目に生きろ」
桃玄に言うと、今度は矢三郎へ顔を向けた。
「矢三郎よ。お前はこれ以上、面倒事を起こすな」
矢三郎に言うと、最後に矢四郎へ顔を向けた。
「矢四郎よ。お前はとりあえず早う大きくなれ」
薬師坊は下鴨の兄妹の頭を一匹ずつこづいてそう言った。
役に立つようなそうでないような、ありがたいようでそうでないようなお説教をきちんと聞いていたのは矢一郎だけで、矢二郎は蛙なので聞いているのかわからないし、桃玄は不満そうに膨れていたし、矢三郎はボンヤリしていたし、矢四郎に至っては人混みに埋もれてしまってとりあえず返事をしている状態だった。
そんなこんなでなんとか本堂の側までやって来ると、今度は夷川の集団がお参りをしている事に気付いた。
「あ!」と矢三郎が声を上げると、その集団の中にいた金閣と銀閣も「あ!」と声を上げた。
桃玄は再び小さな悲鳴を上げた。
人垣を掻き分けて文句を言いに来た金閣銀閣と矢三郎が口喧嘩をする最中、こんな事なら初詣なんか来なければ良かったと桃玄は非常に後悔したのだった。
▪︎
何か言いたそうな金閣の視線をひたすら無視して初詣を終えた桃玄。
そうして下鴨家御一行は、今度はコーポ桝形へやって来ていた。
母がこの下で甘酒を配るというので、桃玄はその手伝いを行っていた。
彼女が自発的に手伝いを行っているのは母にお願いされたからだけでなく、薬師坊や弁天、金光坊と同じ部屋にいたくなかったからだ。
「手伝ってくれるのは嬉しいけれど、貴女はもっと赤玉先生と関わりなさい」
「否みます」
寸胴の中にたっぷり入った甘酒をお玉でクルクル混ぜながら母が言ったので、桃玄はすかさず拒否した。
母が難しい顔をしたので、桃玄は言った。
「こればかりは無理です。私では赤玉先生を怒らせてしまうだけですから」
「気難しい人ではあるけれど、私たちとは違う経験をされている方なのよ。きっと貴女の為になるわ」
母がそう言うも、桃玄は仏頂面で紙コップを簡易テーブルに黙々と並べ始めてしまった。「全く、もう」と母が呆れた風に言うと漸く「考えておきます」と小さく言ったので彼女は益々呆れた。
桃玄の性格上気難しい薬師坊とソリが合わないのは明白であるが、こうも我儘であると母も彼女の行く末が心配になってしまう。
「貰えるかい?」
「あ、どうぞ」
そうこうしていると甘酒の甘い香りに釣られたのか狸たちが続々とやって来た。
母とせっせと甘酒を配り続けていると、桃玄は電信柱の方から強い視線を感じて思わず作業の手を止めた。
電信柱の方へふと視線を向けると、金閣と銀閣がそこにいた。桃玄の視線に気が付くと電信柱の裏にすぐ隠れてしまったが、目が合ったのであの二匹だと彼女は確信した。
「阿呆…」
小さく呟くと桃玄は徹底して無視を決め込んだ。
あんな事をしでかした癖に、と先日矢二郎に溢した通りの感情である。早雲に従うしか選択肢が無かった事も把握しているが、下鴨家の者を嫌っている為か「意外とノリノリだったぜ」と矢三郎から聞いている為だ。
普段の行いを見ていてもなんら違和感は無い。したがって、桃玄は自発的に金閣銀閣へ声を掛ける事は絶対にしないと決め込んでいた。
電信柱越しの静かな戦いに終止符を打ったのは母であった。
「桃玄、金閣銀閣にも渡して来なさい」
そう言って甘酒が入った紙コップを二つ桃玄に寄越してきた母。わかりやすく嫌そうな顔を出した桃玄に「なんだったら一緒に飲んで来なさい」と更にもう一つ甘酒を押し付けると、母はお盆に次々と紙コップを乗せ始めた。
「母上。あの二匹が自分から謝って来るまでは私は話してやらない決意をしているんです」
「それはそうね。では甘酒を渡すだけでいいわ」
「嫌です」
頑として動かないつもりの桃玄は手渡された甘酒を簡易テーブルの上に戻し母から顔を背けた。
すると今度は桃玄の前にお盆を差し出した母。その表情は笑顔であった。
「…渡さないですってば」
「これは赤玉先生たちにお渡しする分よ。金閣銀閣には私から渡してあげますから、桃玄はこっちをお願いね」
言われてみればお盆の上には八つ紙コップが置かれていた。矢一郎たちの分で五つ、そして薬師坊、金光坊、弁天の分である。
桃玄は先程よりも嫌そうな顔を見せた。
母は娘のこともたいへん熟知しているのだ。
▪︎
お盆を持ってアパート内に入って行った母の背中を見届けると、桃玄はどうしたもんかと頭を悩ませて余った紙コップを弄り出した。
そうしてチラリと電信柱の方へ視線を向けると、やはり金閣銀閣と目線が見事に合った。今度は電信柱の裏に逃げる事はなかったので、顔を合わせ続ける事になった。
「なんなんですか、もう!」
我慢ならずに桃玄が声を上げると「ほら兄さん」「押すなってば銀閣」「兄さんから行ってよ」「わかってるってば」とごちゃごちゃ揉め始めたので、彼女は益々苛々した。
簡易テーブルの上に置きっぱなしであった甘酒を二つ捕まえると、桃玄は勇足で二匹の元へ向かった。
「さっさと飲んで帰って下さい」
押し付けられる甘酒を金閣と銀閣がそれぞれ受け取ると、戸惑った様に「ありがと」と口にした。
初詣で遭遇し矢三郎と口喧嘩をしていた時の会話で彼らがあの晩から大変な風邪を引いていた事は知っていたので、謝罪しに来なかった件についてはとやかく言うつもりはない。しかし直接的な謝罪ではなく意味深な眼差しを送って来るだけというのが気に食わない。
現に今もおどおどして甘酒をちまちま飲むだけだし。
桃玄は盛大なため息を吐き出して言った。
「何か言う事はないんですか」
金閣銀閣はビクリと肩を振るわせた。
手に持った甘酒へ視線を向けると尻窄みになりながら金閣が言った。
「その…すぐに謝りに行きたかったんだけども」
「風邪を引いていたのは知っています」
ピシャリと言い放つ桃玄に金閣銀閣は肩身が狭い気持ちになった。
金閣はあの晩に色々ぶっちゃけてしまった故に大変気不味い感情を彼女へ抱いていた。結果的に矢一郎は鍋にならなかったが、あの様な計画を企てていた事は知られてしまっているし「話したくない」と直接言われてしまったからどう謝罪して良いものか、という感じである。
あの計画を企てた早雲は「温泉に行く」と言ったっきり行方を眩ませてしまったからもうあんな事はしないつもりだが、どう謝れば許して貰えるのかがわからずに悩んでいた。
妙な沈黙が彼らを襲う。そうして暫く黙った後、兄の為に銀閣が恐る恐る桃玄へ言った。
「兄さんは桃玄と金輪際話せないかもと悩んで、魘される毎日を送っていたんだ」
「風邪を引いていたから魘されていただけでしょう」
「そ…れもあるかもしれないけれど?そうかもしれないけれど…僕らは今後とも君と仲良くしたいんだ」
銀閣が必死に仲立ちをするが桃玄はむすっとしたままなので、金閣が慌てて補足した。しかし彼女は未だに鋭い目付きで二匹へ視線を向けていた。
どうしたらいいかわからずに視線を右往左往させた結果、金閣は直球勝負に出た。
「桃玄!僕らが悪かった!本当にごめん!」
「ご、ごめんよ!」
とにかく全力で謝る!という選択肢を選び、金閣は桃玄に一歩歩み寄り謝罪の言葉を吐き出した。その勢いに一瞬たじろいだ後、銀閣も頭を下げて謝罪した。
きちんと謝られた事により桃玄の中で不思議な現象が起きてしまった。
謝られて許せるレベルを当に超えた事をされているというのに、こうして直接謝られたことを皮切りに今まで抱えていたモヤモヤとした何かがスッと消えてしまったのだ。
「……」
怒りたいのになんだか怒れない。きっと金閣銀閣と深く関われば今後も傷付く事がある筈だ。しかし、前の様に仲良くしたい気持ちも戻って来てしまっている。
しかも金閣は幼い頃から自身に恋心を抱いていると知ってしまっている。許すと言って今後も仲良くすると言う事は、つまりそれを受け入れた事になってしまうのではないか。
桃玄は大いに悩んだ。
黙り込んでしまった桃玄の顔を凝視して金閣は更に続けた。
「君が嫌だと言うなら、仕方ないけれど…」
眉をこれでもかと下げて言われてしまい、桃玄は戸惑ってしまった。自身の中に得体の知れない感情が湧いて来たからだ。
この二匹と過ごす時間は思いの外快適だった。それが今後無くなるのは惜しいし、不思議とそれだけは嫌だと思ってしまった。
バクバクと自身の心臓の音がやけに耳に届く。
桃玄は精一杯無愛想な顔を作り込むと、再び大きなため息を吐き出した。
「あんな馬鹿な真似はもうしないで下さいよ」
その言葉を聞くと、金閣と銀閣はわかりやすく嬉しそうな顔をしたので桃玄は謎の高揚感を抱いた。
今まで感じたことのなかったその感情で思わず口角が上がりそうになってしまったので、なんとか仏頂面で抑え込んで難を逃れたのだった。
………
2026 01.04