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年末に吹き飛ばされた千歳屋と仙酔楼がどうなったか見物しようと目論んで鴨川沿いをひたすら歩いていた桃玄が「あ」と口から音を漏らすと、向かいから歩いて来た海星も「あ」と同じ様に音を漏らした。

「海星、こんにちは」
「あ…うん。こんにちは、桃玄さん。少し、話いい?」

桃玄もそのつもりだったので「はい」と二つ返事で了承した。
矢三郎の元婚約者である夷川海星は、あの一家の狸とは思えない程心根の優しい狸であった。
それはもう、母が「夷川の狸は残らずくたばれば良いけれどあの子は違うね」と言う程であった。
鴨川沿いの河川敷に二匹並んで腰掛けると、静かに海星が話し始めた。

「もう、お兄ちゃん達とは話したみたいだね」
「元旦に話しましたよ。風邪を拗らせていたみたいですね」
「うん、びしょ濡れで帰って来てからずっとね。でも、自業自得だから」

矢三郎に「熱い鍋か冷たい鴨川か」と選択肢を促され、自分から鴨川を選んで飛び込んだらしい。
狸界で金閣と銀閣は阿呆として名を馳せているが、海星はお利口さんである。阿保の兄貴達を持ち、頭を抱えながらも世話をする毎日。立場は違えど阿呆に頭を抱える日々なのは下鴨家の長兄も同じであるので、海星の気苦労も絶えないだろうなと桃玄は思った。
すると海星が桃玄へ身体ごと向き直って言った。

「桃玄さん、本当にごめんなさい」

案の定、海星の話の主軸はあの晩の件についての謝罪だった様だ。
しかし率先して下鴨家の狸に謝罪するべき者は早雲や阿呆兄弟なので、海星に謝られても「いいよ」とは言い辛い。
少し考えてみたが、やはり今回の問題で海星の悪いところが見当たらなかった桃玄は難しそうな顔をした。

「海星が謝る事は何もしていないでしょう」
「ううん。父やお兄ちゃんたちが何かするかもしれないと分かってたのに。私、何も出来なかったから」

俯いて反省する海星に、桃玄は「なるほど」と納得した。
早雲たちの計画は海星には知らされていなかったものの、家族であれば父親や兄のやりそうな事はわかるだろう。
しかし今回の一件に関して、海星は下鴨家に非常に良くしてくれたのだ。
桃玄はあの晩直接彼女と関わることがなかったが、乙第一倉庫に閉じ込められていた所を外に出して貰ったと矢四郎が感謝していた。

「十分助かりましたよ。矢四郎の事を外に出してやったと聞いています」
「でも私、桃玄さんが家に軟禁されてたなんて知らなかったから…」
「叔父上たちの計画は内緒にされていたんでしょう?知らないのも仕方がないですよ」

それに金閣銀閣からは既に謝罪を受けているし、首謀者である早雲は行方をくらましてしまっている。
矢一郎は鍋にはならずに済んだし、あの晩の事で未だ怒り散らかしている狸なんぞ下鴨家の中にはいない。故にそこまで海星が気にすることではない、と桃玄は思っていた。
しかし海星は「でも」などと言いそうな表情を見せたので、桃玄は言葉で追撃した。

「結果的に兄上は鍋にならなかったですしね。海星には謝罪を要求するどころか、此方が感謝しなくてはいけません」

桃玄は知らないが、偽右衛門選挙の前にも矢三郎に警告に近い言葉を告げていた。
矢三郎も少し心配して矢一郎に報告していたのだが、金閣銀閣が普段から余りにも阿呆な為に「大した事をするわけが無いだろう」と慢心してしまったのだ。
若くして下鴨家の頭領になり阿呆な弟妹を叱責する立場となった矢一郎であるが、まだまだ青いのであった。
これにて話は終了、と立ち上がった桃玄を呼んで海星が引き留めた。

「…叔父さんの事もなの」

海星の叔父。つまり桃玄たちの父、総一郎の事である。
早雲と矢一郎の言い争いの時にポロリと出た衝撃的な事実の事を言っているのだろう、と桃玄は思った。
桃玄は総一郎が最後に会った人物を矢二郎だと思っていた。矢二郎本人もそう思っていたのだが、実際は早雲であったそうだ。
偽右衛門選挙の騒動の後、桃玄は朱硝子で矢三郎から事の詳細を聞いていた。

「父上の事も聞きましたよ」

知っているなら教えて欲しかったというのが本音である。
それを知っていれば矢二郎はあんなに長い期間苦しまなかったし、桃玄だってあんなに悩まなかっただろう。
しかし海星の立場になればそれが簡単なことであるとは思えない。自分の父が万が一そんな事をしていたと知ってみろ、言い出せないだろうに。
故に、一切合切を下鴨家の狸たちは「致し方がない」と結論づけていた。
瞳に涙を浮かべる海星の頭をポンポンと優しく叩くと桃玄は言った。

「もう全部知っているんです。海星が悪くない事もわかってる。だから謝らないで下さい」

隠し事を自身の腹の中に抱え込み、誰にも吐き出せない。その苦しさを桃玄は知っている。
だが、産まれてすぐ母を亡くし、阿呆兄貴に頭を抱え、父の悪事を知りつつその事実を飲み込んでいた海星のその辛さは想像に絶する。
あの晩の出来事により、まだまだ誰かに頼りたい盛りである小狸の大きな悩みは一つ解消されたのだなと桃玄は思った。


▪︎


ひとしきり泣きじゃくって落ち着いた海星は「お姉ちゃんがいたらこんな感じなのかな」と、鴨川を眺める桃玄の横顔を見て思った。
海星がえぐえぐ泣いている間、桃玄は特に何をするわけでもなくただ静かに横に座っていただけだったが、これが金閣や銀閣ならば「どうして泣いてるの!」とか「何か暖かいものを飲む?」とか傍でてんてこ舞いになるのだろう。

「…ごめん」

つい先ほどまで子供みたいに泣きじゃくってしまっていた自分を思い返すと突然気恥ずかしくなってしまった海星は、赤くなっているであろう自分の目元を桃玄に見られない様にしながら小さく謝った。
謝られた桃玄はふいと海星へ視線を向けると、なんて事ない様に「いいえ」と返して立ち上がった。

「帰りましょうか。海星がいないとあの二匹が騒いでしまいそうですし」

海星も立ち上がり「そうだね」と返した。

「送って行きましょう」
「え!いいよ、一人で帰れるから」
「なんと言っても暇な身ですからね。散歩がてらです」

謙遜でも何でもない。桃玄は本当に暇な狸であるので、そう言われてしまうと断り辛い。最終的に海星は「じゃあお願いします」と受け入れる事にした。
何が面白いのか辺りを観察し「あの建物の工事はいつ終わるんですかね」なんて喋る桃玄に相槌を打ちながら、海星は彼女の足元へチラリと視線を向けた。
海星の視線は、桃玄が最近から履き始めた靴下を捉えていた。

「ねぇ、桃玄さん」

海星に名前を呼ばれてふいと桃玄が振り返る。
不思議そうな顔をする彼女へ視線を向けながら海星は微笑んだ。

「靴下、似合ってるね」

海星に褒められた靴下へ視線を落とした桃玄は「そう?」と短く返事をした。
一見素っ気なく聞こえたものの、彼女は何処か嬉しそうな雰囲気を醸し出していたので海星はひそかな喜びを感じた。
その靴下に彼女は、たいへん見覚えがあったからだ。


………

2026 01.08