冬の女神の癇癪玉

「大変だ!母上が倒れた!」

1月末のこと。
夜毎黒服の王子に化けて遊びに出掛けビリヤードついでに学生たちと飲み歩く内、どうやら母は風邪の神に捕まってしまった様だ。
その日は母が長い事楽しみにしていた宝塚の日だった為「風邪ではないです」と頑なに自身の不調を認めず「宝塚に行くのです」と踊りだし、最終的に「風邪の神なんてくたばれ!」と暴れ矢一郎たちを困らせた。


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宝塚を泣く泣く断念したものの2月に入っても母の風邪は治らず、どうしたものかと子供たちは頭を抱えた。
あまりに困ったものだから矢三郎の提案で矢二郎に相談をしに行こうと言う事になった。母の寝る寝床を出来る限り暖かくした後、下鴨家一行は六道珍皇寺へ足を運んでいた。

「母上の風邪は酷く長引いている。俺が思うに、これは凡百な風邪ではない」
「馬鹿言え、凡百の風邪だよ」

矢一郎が真剣な顔をして阿呆な事を言うもんだから、矢三郎が即座に訂正した。
しかし矢一郎はこの数日間蓄えていた不安を口にし出した。

「いや、実を言うとな。俺もここのところ調子が悪いのだ」

そうして矢一郎は自身の喉へ手を添え「なんとなく咳が出る」と言い、その手を目元へ移動させ「なんとなく怠い」と続けた。彼の手は最終的に頭に移動し「なんとなく頭痛がする」「なんとなく熱っぽい」と自身の不調をひたすらに訴えた。
しかしそう考えているのは矢一郎のみである。
その一連の様子を可笑しそう眺めていた桃玄が一言。

「兄上の思い込みの激しさは天下一品ですね」
「戯け!もし母上の風邪が新種の風邪であったらどうする…!俺たちはとっくに感染している!下鴨家は滅亡だ!」

桃玄の茶化しを一喝し、抱えていた不安を吐き出した矢一郎は「嗚呼、どうしよう!」と頭を掻き毟って悶えた。

「落ち着け兄貴」

呆れた面持ちの矢三郎が勝手に不安がる長兄に制止を掛けた。
兄たちのそんないつも通りの掛け合いに全く触れずに、矢四郎は井戸の中を覗き込んで矢二郎へ声を掛けた。

「矢二郎兄さんは風邪は大丈夫なの?」
「風邪の神様が井戸の底まで顔を出すかい。蛙になってから一度も引いてない」
「だいたい、兄さんも俺も昔から風邪を引かないね」

言われてみて思い返してみれば、矢二郎と矢三郎が風邪を引いている記憶が無いなと桃玄は思った。
それを聞き付けるとさっきまで下鴨家の未来に不安を抱え一人で騒いでいた矢一郎がゲホゲホとわざとらしい咳をしてみせた。

「馬鹿は風邪を引かないというしな」

よく聞く迷信である。
矢三郎たちは呆れた風な顔を矢一郎へ向けた。
その後兄妹で相談した結果、母を暖かい場所。つまり薬師坊の部屋で療養させようという決断に至った下鴨家の子供達。
「しかし赤玉先生が許すのか?」という問題は"天狗専門家"である矢三郎が取り計らう事になった。そして同時に"天狗嫌い"である桃玄は勝手に身を引く決断をした。


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薬師坊の部屋で療養する許可を得ることが出来た為、母は暖かく過ごす事が出来ている様だった。
コーポ桝形へ顔を出す事を苦手にしている桃玄は、矢三郎から母の状態を聞いたりして数日を過ごした。
そうして今朝。いつもより寒いと感じながら寝床から出ると、桃玄の視界は真っ白な雪で支配された。
どうやら寝ている間に大雪が降った様だ。

「矢四郎、起きて。雪ですよ」

寝床で未だ寝息を立てていた末っ子を起こすと「寒い寒い」と言いながら起床した。
しかし辺り一面の雪を視界に入れるや否や矢四郎はすぐ嬉しそうに森を駆け回った。
まだ誰も足跡を付けていない綺麗な雪に飛び込んだり、雪をペロリと舐めてみたり。

「圧巻ですね」
「うん!母上も赤玉先生のお家で見ているかな?」
「見ていると思いますよ。母上も雪が好きですからね」

そんな風にして時間を過ごしていると、薬師坊の家へ行って母の様子を診に行くという名目で矢三郎が矢四郎を呼びに来た。
勿論この件に関しては専門外なので桃玄は彼らを見送り、その後雪の積もった洛中を徘徊する予定を立てた。


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雪の積もった街はいつもと雰囲気も異なり、桃玄の散歩も捗った。
「初雪だね」と知人たちと話したりしながら洛中を徘徊していると、聞き覚えのある声が橋の下辺りから聞こえて来た。

「やっちゃえ!やっちゃえ!ドンドン投げちゃえ!」
「やっちゃえ!やっちゃえ!」

金閣銀閣の声であった。
その後矢一郎の「貴様らいい加減にしろ!」という怒声も聞こえて来たので、何事かと桃玄は駆け足で声の聞こえる方へ向かった。

「行くぞ矢四郎!兄貴に続け!」
「おー!」

欄干に両手を掛けて橋の下を覗くと、そこには金閣銀閣と雪合戦を行う矢三郎たちがいた。
薬師坊のところへ母の見舞いに行った筈だが、道中で阿呆兄弟に絡まれでもしたのだろう。しかし夷川陣営には何故か鴨虎に変じた矢一郎もおり、現場は混沌と化していた。

「ゲ…」

すると、そこに予想外の人物が現れた為に桃玄は小さな悲鳴を漏らした。
正月が終わってから一気にご機嫌斜めになってしまった弁天。又の通り名を冬の女神、その人であった。
いつの日か薬師坊から、彼女は冬に飽きてしまうのだと桃玄は聞いた事がある。
なんだそれはと言いたいところであるが、この時期になると弁天の癇癪玉はパツンパツンに膨れ上がっているというのは洛中の狸界では常識となっている。態々「どうして?」と聞く必要性もないし、知りたくも無い。なんだったらその御尊顔も拝見したく無いところである。
そんな破裂寸前の癇癪玉を腹中に抱えた弁天にとんでもない事をした狸が現れた。

「えい!」

桃玄の弟、阿呆を極めし狸である。
彼はあろうことか弁天の顔面に雪玉を叩き付けたのである。
あまりの出来事に、桃玄だけでなくその場にいた狸全員が凍り付いた。


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弁天の癇癪玉を破裂させ、洛中の狸界に平和をもたらす。
という名目の元、節分に弁天から豆を投げ付けられる役割を担う事になった矢三郎。これも阿呆の血のしからしむるところだと彼は言った。

「あだだだだだだだだ!!!」

節分の日。何万発もあるであろう天狗豆の攻撃とも言える豆撒きを直に喰らった矢一郎が悲鳴を上げた。
現在鴨川沿いを全速力で駆けている鬼と赤蛙は桃玄の兄弟である。「一匹で弁天の癇癪玉を破裂させる!」と豪語していた矢三郎を救う為に自らも鬼に変じ、結果この様な状態になっている。
弁天に追いかけ回されるそんな彼らの様子を桃玄は遠巻きから眺めていた。

「よくやりますよ、本当に」

そんな事を言いつつも全力疾走する矢三郎たちを、これまた駆け足で追い掛けている桃玄も桃玄であるが。
二条大橋を超えたところで鬼たちに動きが見られた。

「おーい!そこを退けー!!」

鬼に変じた矢三郎が注意喚起を行ったのは、河川敷で何故かこたつに当たっていた金閣銀閣であった。
こたつの上には何やらお酒やご馳走が準備されていたが、節分真っ只中の御一行が通過する頃には燦々たる事態になってしまっていた。
その様子を遠巻きから眺めていた桃玄は、心の中で良かったと胸を撫で下ろしていた。
何故なら昨晩金閣から連絡があり「雪見酒をしない?」と誘われていたからだ。
大変な誘惑に相当グラついたものの、弁天と矢三郎の節分を遠巻きから見物、と言う名の見守る会をしようと決めていた桃玄はその誘いを断っていたのだ。
良い事はしてみるもんだな、と桃玄は染み染み思った。


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2026 01.08