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昨晩、奈良の知り合いから借りる納涼船が輸送中に墜落したらしい。母からその話を聞き、今朝夷川発電所へクレームを入れに行った桃玄が今し方帰って来た。

「桃玄、どうだった?」

下鴨神社の門を潜った桃玄を母が呼び止める。聞かれた彼女は、先ほどの金閣銀閣の様子を思い浮かべて苦笑するしかなかった。

「用意していた言い訳をたくさん並べて来たので、十中八九彼らの仕業ですね」
「おのれ、金閣銀閣め…」

桃玄からの報告を聞くと矢一郎が心底悔しそうに拳を握り締めた。あまりにも悔しそうなその様子に、母と桃玄はどうしたもんかと目を見合わせてしまう。
矢一郎がこんなにも悔しそうなのには、"夷川にまんまとしてやられた"以外にも理由がある。

「もう矢三郎に頼むしかないのでは?」
「そうだね…」

桃玄の言葉に母が賛同した。
奈良から納涼船を借りる算段になる前から、船のアテがあるぜと矢三郎が口にしていたのだ。しかし彼のその提案を、矢一郎は「碌でも無い」なんて一掃して聞かなかったのである。
矢三郎にあんな大口を叩いておきながらこの有様。仕舞いには碌でも無いなんて押し退けた矢三郎に、自分のケツを拭ってくれ等どの口で言えようか。頭の硬い矢一郎は頭を悩ませるしかない。

「…他に手を考えます」

俯き、絞り出した声でそう言った矢一郎。長兄の様な度を越したプライドなんぞ持ち合わせていない桃玄からすれば、彼のその悔しさ等は理解できなかった。
しかし送り火まで一週間弱である。万が一無理でした、なんてなったら矢三郎にあるアテからも納涼船を借りれないかもしれない。

「けれど五山の送り火まで日が無いじゃない」

母の言葉にしかし、と食い下がる矢一郎であったが、彼ももう手がない事は重々承知していた為にそのまま黙りこくってしまった。
そんな矢一郎の肩にそっと手を添え、母が優しく言った。

「矢一郎、一緒に矢三郎にお願いしに行きましょう?」

それでも浮かない気持ちのままであろう表情を顔に貼り付ける矢一郎に、桃玄は思い出した風に「そういえば」と呟いた。

「矢三郎は"暑いから、瓶ラムネが沢山飲みたい"と言っていましたよ」

それだけ言うと桃玄は、矢一郎と母を残し糺ノ森へ向かって行った。
彼女は父の遺した万福丸でないのなら納涼船に固執する気も、ましてや興味も無かった。五山の送り火なら納涼船などに乗らなくても十分見物できるのだし。
実際桃玄は昨年、納涼船に乗る気分ではないと言って人間の群がる地上で送り火を見物したくらいである。が、万福丸の最後を見届けられなかった事は悔やんではいる。


▪︎


結局矢一郎は、母に促され矢三郎に頭を下げたらしい。きちんと瓶ラムネをバケツいっぱい入れてお願いしに行った話を聞き、桃玄は矢一郎の真面目ぶりを再確認した。

「こんなもので送り火見物するのか」

みっともない、と悪態をつく矢一郎。その横で送り火見物用として矢三郎が拝借して来た物をぼけぇっと見つめていた桃玄も、みっともないとは思わずとも妙だなと思っていた。
矢三郎が如意ヶ岳薬師坊、否、弁天から借りて来たのは、納涼船ではなく天狗の奥座敷であったからだ。

「なかなかいいじゃないの」

矢一郎からは不評であったものの、母は非常に喜んでいた。納涼船だろうが奥座敷だろうが、五山の送り火見物を大変楽しみにしている母からすれば乗り物など関係なく喜ばしいことなのだろう。
奥座敷は床の間つきの四畳半で丸い連子窓が付いた茶室であった。濡れ縁がその茶室を囲む様にくっ付いている。母と矢四郎は奥座敷の畳の上を気持ちよさそうにころころと転がっていた。

「天狗に借りた奥座敷だから、姉さんは今年も乗らないかい?」

四畳半の中にひとつだけある小簞笥。その引き出しを勝手に開け中身を凝視している桃玄を、矢三郎が面白そうに茶化した。
桃玄は気紛れであるので、狸を振り回す天狗とは馬が合わない。
しかし奥座敷が意外とお気に召したらしい桃玄は、小箪笥の引き出しをトンと閉めると口角を上げた。

「天狗様にお借りした有り難い奥座敷ですからね。今年は乗せて頂きますよ」
「またそんな棘のある言い方をする。赤玉先生も呼ぶ事だし、気が変わったら前もって教えてくれよ」

はい、なんて素直に返事する桃玄が当日来るかどうかは、気紛れが故に彼女にすらわからない。


▪︎


矢三郎が奥座敷を借りて来てからというもの、下鴨家の狸たちは毎日奥座敷の清掃を行っていた。畳に雑巾を掛け、濡れ縁の上にはぐるっと行燈を囲むように並べた。
万福丸と比べると豪華さや派手さは無いが、これはこれで風流があるのではなかろうかと母はご機嫌であった。

「夷川の連中は今年も豪勢な船を出してくるの?」

ふと、思い出した様に母が行燈を垂らしながら尋ねたので、その下でいくつかの行燈を両手に抱えた桃玄が答えた。

「そうみたいですよ。自慢を所々に散りばめていましたから」
「金閣と銀閣め。今度火を付けたらタダではおかぬ。どうせ叔父上の指図だろうがな」
「釘は刺しましたが、どうでしょうね」

奈良から借りる予定であった納涼船が墜落した事で夷川家へ足を向けた際、桃玄は言い訳をぶつけられながらも「今年は仲良くしましょうね」と釘を刺した。のだが、矢一郎の言う通り、あの双子は早雲が指示すれば彼の言う通りに従うだろう。

「面倒ごとにならないといいけどねぇ」

母が溢した独り言の様な相槌を残し、桃玄は思想を張り巡らせた。
父が亡くなってからというもの、五山送り火で夷川家の連中にちょっかいをかけられるのは毎年の事である。
きっとこの奥座敷も、五山送り火の日を最後に木屑になってしまうのだろうな。そう考えながら、彼女はそっと奥座敷の土壁を撫でたのだった。


………

2025 11.26