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08

数日経って、ようやく病室から住み慣れた自分の部屋に帰る許可がおりた。しかし長期任務明けの倦怠感はまだまだわたしの体に残っている。まだまだいつも通りに戻ったとは到底言えないだろう。
ユウなんかはとっくに自分の部屋で寝ていたようだけれど、リナリーやミランダさん、アレンくん、ラビたちもまだまだ医務室のベッドの上だ。
怪我をしやすい体ではあるけれど怪我の治りが早いのはわたしも人造使徒であるということの何よりの証である。
任務に行く予定はないから団服こそ着ていないけれど、わたしはイノセンスを手にとって部屋を出た。
行き先は決まっている。
人目につかないようにひっそりとエレベーターに乗り込んで、扉が閉まったところでため息をついた。
今、教団全体がなんだか浮き足立っている。理由は簡単だ。長期任務はたくさんの犠牲と引き換えに、多くの利益を教団にもたらした。その最たる例が、方舟と、あの大きな大きな『卵』だろう。本部だけで対処するには大きすぎる問題にまでなってしまって、中央庁や、様々な支部からたくさん人が来ているのである。
わたしは結構人見知りをするから、何かと縁のあるアジア支部からならばともかく、全く面識のない人達がたくさん訪れるとなれば気分が下がるのも仕方ないことだろう。
特に今、わたしはあまり人には聞かれたくない話をしようと、ヘブラスカのもとにむかっている。人目を避けてこそこそと移動していたから余計に気を張ってしまって、気が重くなる。ヘブラスカに用事があることはユウにも伝えていない。いつもいつも自分の行動を何から何まで伝えている訳では無いけれど、基本的にはどんなときも一緒にいるわたしたちである。ユウの目にもつかないようにして行動するなんて、初めてかもしれなかった。
「ナノか?」
「ヘブラスカ。久しぶりね」
「あぁ……お前が一人で来ることは、滅多にないからな」
真っ白に光る細い触手のようなものが、わたしを撫でるようにやわらかく触れる。これが彼女の腕だと知っているから、特に拒むこともなく受け入れて、微笑んだ。
初めて彼女に会った時は大きくて見たことも無いその姿に驚いたし、シンクロテストでわたしたちが触れたイノセンスによく似たヘブラスカの体が心底恐ろしかった。
リナリーは彼女に懐いて、結構な頻度で此処を訪れているようだけれど、わたしは何となく此処へ足が向かない。この場所を暗く閉ざされた地下の世界、と思ってしまって無意識に避けているのかもしれない。
「今日は、どうしてここに?」
「これとのシンクロ率を、見てもらおうと思って」
わたしがそっとイノセンスを差し出すと、ヘブラスカは小さくため息をつくような動きをみせた。
シンクロ率を調べることの本当の意味に、ヘブラスカは気がついているのだろう。臨界点を超えたことだって、彼女が気がついていないはずがない。
彼女の体から放たれる淡い光のせいだろうか。それとも、過去に触れていたイノセンスによく似た姿を見ていたからだろうか。彼女と居ると、酷く感傷的な気分になる。もしかしたらわたしがヘブラスカのいる此処を避けているのは、そういう理由からなのだろうか。
「……お前と、お前のイノセンスのシンクロ率は、九十五パーセントだ。ただ、臨界点を超えたであろう形跡は残っている」
「うん」
「臨界者が現れると、私の中のキューブがざわめく。最近二度、キューブが暴れたことがあった。一度は、アレン。一度は、ナノ、お前が臨界点を超えた影響をうけたのだ」
ヘブラスカの触手が優しくゆっくりと離れて、わたしの体も地面に向かって降りていく。
アレンくんも、この長期任務中に臨界点を超えたんだ。
そんなことをぼんやり考えながら、とん、と地面に足がついた。薄々勘づいてはいたけれど、今こうしてヘブラスカから直接、臨界者になったのだと告げられると忘れ去っていた実感が、わたしの中に舞い戻ってきて、じくじくと胸が傷んだ。
最悪の気分だ。
「これ、なかったことに、できない?」
「コムイ達には、臨界者が現れたということだけ伝えてある。具体的な人数や、誰が臨界者になったのかということまでは特定できていないだろう」
それでも、ナノが臨界点を超えた、ということは事実だ。
ヘブラスカのやわらかくて優しい声が、広い空間に響きわたる。わたしは下を向いて、じっとイノセンスを見つめていた。透明なガラスにぼんやりと映るわたしの顔は、くしゃくしゃに歪んで、今にも泣き出しそうだ。
「ねぇ、ヘブラスカ。このことは秘密にして、誰にも言わないで」
「何故……?」
「これ以上、ユウを縛りたくないの」
わたしはただでさえ彼を縛りつけている。ユウが大嫌いな教団にいるのはわたしの為だ。もちろん、「あの人」を探すためという理由もあるだろう。けれど、ユウ一人なら教団にいる必要なんてない。元帥たちのようにあちこちを巡りながら「あの人」を探すほうが余程効率が良いし、教団の存在を意識しなくて済む。
にもかかわらず、ユウがここに留まり続けているのはわたしというお荷物を抱えているからだ。
臨界者になってしまったら、教団の中でのナノというエクソシストの存在感は強くなるだろう。臨界者になるということは、元帥候補になることだ。教団からの拘束がより強くなるのは目に見えている。
「……わかった。ナノが臨界者になったことを、私は報告しない……」
「ありがとう、ごめんね。ヘブラスカ」
再びそっと伸ばされた光の触手を抱きしめた。
わたしのどうしようもない我儘に彼女を巻き込んでしまうことが心底申し訳なくもあったが、それ以上に、わたしにとっては、ユウが大切だ。彼以上に大冊なものなんて、もう何もない。