誘惑の唇

「お兄様ぁー!」

 石造りの廊下をヒールの高そうな音が忙しなく響き、艶っぽい女性特有のソプラノトーンがその先にある無駄に広い部屋まで聞こえた。

「……落ち着きのねェやつ」

 その部屋のソファーでやっと仕事が一段落ついたのか、ゆったりと珈琲を飲んでいた人物が、自分のことは棚にあげて、こちらに向かって来る人物に言った。

「ちょっとお兄様ぁ!」

 バタンと喧しい音をたて綺麗な艶のある栗色の髪を乱れさせた女が、鼻息荒く大理石の床を踏み締めるようにして入ってきた。

「うるせェなァ、名前。お前、もうそろ落ち着いたらどうだ?」
「お兄様がこの世で一番落ち着きがないわよ!」
「アホか! おれ以上に落ち着きのあるやつはいねェぞ!」
「ごまんといるわ! って違う! お兄様、どうしてまた私の婚約を破棄したの?!」

 ソファーに座るスパンダムに対し名前は彼の目の前で仁王立ちし、普段はくりくりとした愛らしい瞳を鋭くつり上がらせ、形のいいぷくりとした男を誘惑するような唇をへの字に曲げ、むすりとした子供のような表情をしてせっかくの婚約を台無しにされた怒りを兄である男にぶつけた。

「あったり前だろ! アイツは名前の金と地位が目当てなんだ!」
「はぁ?! 一回も会ったことないのにどうして分かるのよ?!」
「い、いんだ! 名前はおれの許可なく結婚なんてすンじゃねェ!!」

 まるで子供の兄に名前は溜め息しか出なかった。
 先ほどまで仁王立ちでスパンダムを睨み付けていた名前は疲れたというように一気に肩の力を抜き頭痛でもするのか頭を押さえた。

「だけどお兄様。私、さっきお兄様が言ってたようにもうそろそろ落ち着いてもいい年齢なのよ? 勿論意味分かっていて?」
「……ンなことくらい分かってる。だが……」

 そこまできてスパンダムは口をつぐんだ。不思議に思った名前は「お兄様?」と少し先を急がすように呼び掛けた。だが彼はそれに応えずただ名前の腰辺りか、彼女を通り越した冷たい壁を見ていた。

「お兄様ぁ? いい加減にっ……!」

 痺れを切らした彼女が帰ろうとしたのか靴先を扉の方へ向けカツリとヒールを鳴らした途端、スパンダムは名前の華奢な腕を掴みそのまま自分の膝に乗せた。そして彼女の予想を越えた行動に出た。

「っん!!」

 彼女の唇に当たったその感触に瞳が落ちるほど見開かれ、棒のように身体を硬くし、ショートしそうな頭で今の現状を理解しようとした。

「っ……ちょっ!」

 パチリと見開かれた目を覚ますように瞬くと、すらりとした腕で彼の胸を押した。だが、それを阻止するようにガチリと腰を掴まれまた引き戻され鼻先が一瞬触れ合った。

「別にいいだろ。兄妹っていっても血が繋がってる訳じゃねェんだ」
「そうだけど……。それとこれとは……」

 二人は所謂義兄妹だ。名前はスパンダムの父親の愛人の子供で、彼女が十歳になる頃に父親に引き取られた。彼女はあまりその当時の事は語りたがらないが、ある日名前が近所の公園から帰ってきたら母親が居なくなっていたらしい。その時テーブルに自分の本当の父親は誰か、そしてその人の現住所が書かれたメモ用紙がポツリと置かれていたらしい。(だが父親曰く名前の母親は色んな男性と関係を持っていたらしく本当に名前の父親が自分なのか分からないらしい。自分に名前を引き取らせたのも単にパッと自分の名前が出たからだろうということらしい。)

「……それにおれが我慢出来ねェ」
「は? なにそ、れ……っ!」

 意味の分からないことを言われた名前は馬鹿にするような口調で意味を問おうとしたが、予想以上に彼が傷付いたようなそして切ないような表情をしていて言葉を詰まらせた。

「名前……っ好きだ」
「っ!」

 短距離で見つめ合う二人の間だけがの時間がカチリと止まった。一瞬また鼻先が触れ合った時名前がピクリと肩を震わした。
 重なりあった視線が自然と互いの唇にいった。ゆっくりと近づいた時。

「失礼します。コーヒーをお持ち……」

 淡々とした声で名前の為のコーヒーを持ってきた給士が目の前の光景に口をあんぐりと開け、一瞬「あ、う」などと意味のない声を出した後見てはいけないものを見たという顔をした。

「ッ! ノックをせんかァ! 貴様はァ!」
「し、失礼しましたァァ!」

 やや赤面気味のスパンダムに怒鳴られた給士は慌てて回れ右してバタバタと出ていった。
 給士が出た後の二人にはなんともぎこちない雰囲気が流れた。それが可笑しかったのか二人して「ふっ」と微笑みあった。そんな二人の唇が重なりあうのに今度は時間がかからなかった。


-END-

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