甘く痺れるかなしばり
羊皮紙の香りと少し色が抜けたインクの香りがこの海軍本部資料室を満たしていた。
部屋の雰囲気に押されてか、いつもなら自分の居場所を分からせるように立場も忘れてカツンと踵の音を鳴らして歩くのだが、しんとそれでもペラペラと乾いた音を静かに立てるここでは、何故かそんな足音をさせる気を無くさせ極力音を出さずに目的の人物へ会いに男は歩いていた。
「……。ん……これ」
着いた先はこの部屋の出入り口近くで、ほとんど歩かずそこに着いたのに何故か長く感じる。
カサりと紙切れを突き出し、それと同時に少し掠れて出た声は、男が探していた人物の耳へすぐには届かず、おそらく人の影がさしたのか辞書ほどある分厚い資料集にあった視線を上へ動かし、自分の目の前に人がいる事に気がついた。
男が探していた人物はこの海軍本部資料室で司書官を担当する女で、名を名前という。だがこれを本人から男は聞いていない。
名前はふわりとした髪を肩口で右へ垂らすように結び、その髪の下に柔らかそうなジョーゼット素材のベージュピンク色をしたブラウスをチラつかせ、仕事がしやすいようにかパンツスタイルだ。
男が彼女の名前を見たのは、いつも出入り口近くに室内を見渡せる場所でテーブルに何かを読み上品なそして静かに座っている彼女がふいに立ち上がり、紙切れを持って室内を歩き出した時だ。
いつもは隠れているパンツスーツがせかせかと揺れる中、丁度ベルトあたりにネームプレートらしき物が挟まっているのを確認して、失礼にも凝視してしまいなんとか名前を読み取ることに成功した。
何故男がここまでするかと言うのは。
「……。……」
「……おい」
男の顔を一瞬見た彼女は、突出された紙切れをするりと受け取るとそのまま紙切れを見つめ停止したようにピタリと動かなくなった。
一体どうしたのかと思い、男がもう1度声をかけようと息を吸い込むと、スッと動きを再生させた彼女は、木造りの椅子を小さく音をたて立ち上がるとすたすたと男を通り過ぎた部屋の奥へと歩いて行った。
「はぁ……」
彼女の行動にため息をついた男は、その場で先ほどまで目の前にいた人物の帰りを待っていると、ものの数十秒でその人物は帰って来た。
「……」
彼女はまた自身が先ほどまでいた席へ戻ると、紙切れと一緒に背表紙が少し擦り切れた色褪せが目立つ本を男に差し出し、無言で見つめる。
「はぁ……」
またか。と男は思ったが一切言葉を発する事もせずにこちらを見つめる彼女が持ってる本は、その上に重ねてる紙切れに書いたタイトルと同じで、つまり彼女は、名前はそれをものの数十秒で探し当てこちらへ寄越したのだ。
だが、別に男は、スパンダムはその本が必要だった訳ではなかった。ただ声を聞きたかったのだ。
ため息をついて動きを止めた男は、不審そうに見つめる彼女の声が聞きたくて、こんな手のかかるめんどくさいことをしている。
「……あ、ありがとう」
今日も駄目だった。といつからか始めたこの読みもしない本を借りる、という回りくどいやり方で彼女からたった一言いや、一文字でも聴きたかったそれは今日も失敗に終わろうとしていた。
「……いえ仕事ですので」
「え……」
聞き間違いかと思えたそれは、小さくまるで口の中で音が取り除かれたようで。だが、きっちりと男の耳にするりと入ると、柔らかく子猫が鳴くような音たちは心地よく男の鼓膜を刺激する。
「お、ま……いま……」
「……」
まじまじとこちらを見つめる男の視線に居心地が悪くなったのか、ずっと差し出したままにしている本を持ったそれを男に押し付けるようにズイっと男の目の前に出した。
「っ! あ、ああ……」
「……」
出された本を見てハッとなったのか反射的にそれを受け取りまた呆然としていると、目の前の彼女は何事も無かったかのように木造りの椅子をまた小さく音を立て座ると、中断していた読書を続ける。
「え?! ……」
「……」
既に本を世界に入り込んでいる彼女を見つめる男は、今まで回りくどい事をして聞きたいと願っていたものが突然自分の耳に入り、そしてそれが予想外に心地よく響いたら為か先ほどのが自身が見出した幻聴なのではないかと疑うほどに驚き呆然とする。
幻聴ではないと思いたいのだろう男は少し深呼吸を静かにすると彼女にまた話しかけた。
「……。っそ、それ……おもしろいか?」
「……」
ここが資料室である事を忘れているのか普段と変わらぬ声を出してしまった。そしてそれにいつものように反応してもらえずやはり先ほどのは幻聴だったのだろと思いはじめ、小さくため息をつき読みもしない本を持ち直し来た道を戻りかけた時だ。
「……おもしろいですよ、これ」
「っ?!」
ドクリと男を響かせた心臓と同時にまた、幻聴かと思っていたそれが真後ろから聞こえ急いで振り返ると、一瞬だけ目線をこちらへやった彼女と目があい、またドクリと打ったそれは痛く全身に熱を持たせるには充分だ。
顔を赤くさせ、全身を硬直させてる男は不格好にも出入り口付近で彼女を見つめていた。
男が再び動きだしたのは本を返却に来た海兵に「スパンダム長官殿? こんなところで何をなさっているのですか?」という問いかけだったようで。
「あ?! いやッ、べ、べつにぃ!」
そう言うとくるりと向きを変えやや早歩きで出口から資料室を出た。その時上手い具合に頭を扉で打ったのか「ッ痛ったァァ! 頭打ったッ!」と叫んでいた。
「ふふふ……」
そんな彼の行動に本の世界にいた彼女が可笑しそうに笑うのであった。
ただ彼女の手元にある分厚い本は、彼が目の前にいた時と少しもページが変わっておらず、いつの間にかパンツスーツのベルトに挟まっていたネームプレートが机のペン立てに挟まっている。
「……おもしろいですよ、あなたが」
ぽつりと囁いた音は彼の耳には入らず本に吸収され、彼女はそれ以降また喋らなくなった。
-END-
確かに恋だった様お題