動揺
___いや、無理。
その言葉が耳の奥にこびりついて離れなかった。
五条悟は人生で一度も拒まれたことがなかった。何をしても人は寄ってきて、どんな態度でも誰も文句を言わない。求めれば手に入り、近づけば拒まれない、それが当たり前の世界で生きてきた。だからこそ昨日の「いや、無理」は彼にとって生まれて初めての否定だった。
「……チッ」
昼の光が薄く滲む窓際で五条は小さく舌打ちを落とした。胸の奥がざわつく。自分でも驚くほど落ち着かない。理屈で処理する頭が今日はやけに鈍い。
ただ連絡先が欲しかっただけ。任務で連携をとるため。連絡先を交換すれば都合が良いから。
そう言い聞かせるたび、内側から冷笑が返る。便利だから、は言い訳だ。本当は、自分だけ拒まれたことが気に食わない。
「……ずっと仏頂面だね」
後ろから傑の退屈そうな声が聞こえる。五条は頬杖をついたまま、気怠げに返す。
「べつ。」
「嘘つけ。"べつに"の顔じゃない」
傑はペン先で机をとん、と叩き、口の端だけで笑った。
「昨日のこと、まだ気にしてるんだろ?」
「……は?何の話だよ」
「"いや、無理"って言われた件」
的確すぎて五条は顔をしかめた。舌打ちがもう一度、今度は傑に跳ねる。
「……あー、ムカつく」
「だろうな。あの五条悟が"拒絶"されるなんて、なかなかレアだ」
傑はおかしそうに水を一口飲み、軽く首を傾げた。
「で、悟はどうしたいんだ?」
「……どうって」
「引くのか?それとも、まだ知りたいのか?心音の連絡先。」
五条は視線を外へ投げ、校庭の陽炎の端をぼんやりと追った。言葉はなかなか形にならない。やがて喉の奥で引っかかったものを押し出すように、ぽつりと漏らす。
「……知りてぇ。連絡先」
口にした瞬間、胸が少し熱くなった。ただの興味とは違う、名前の付けづらい違和感が膨らんでいく。
「素直でよろしい」
「うっせー」
傑は笑いを飲み込み、指先で空を切るみたいに言った。
「まずはアプローチの仕方を変えることだな」
「アプローチ?」
「悟、今までずっと圧で押してきただろ。俺は強い、賢い、すごいって。」
図星に眉が寄る。喉が少し渇いた。
「圧じゃ落ちないタイプだよ、心音は。そういう風に対等に扱ってくれない相手は門前払い。だから、」
「だから?」
「謝るんだよ。"悪かった。もう一回チャンスをくれ"って」
「は?俺が?謝る?」
「うん。"あの悟が"だ」
机上で組んだ傑の指が、くい、と前へ押し出される。五条は目を細め、しばし黙してから、低く吐いた。
「……やってみる価値は、あるかもな」
それは敗北宣言ではない。けれど、確かに"やり方を変える"という決意の音だった。
***
砂塵を孕んだ風がチョークのような匂いを運んでくる。心音は1人で木人へ打ち込んでいた。尾を伏せた獣のように呼吸は静かだ。
「……また来たの」
彼女がこちらに気づいた瞬間、五条はいつもより半歩手前で立ち止まった。距離を詰めすぎない。視線を無闇に絡めない。傑の言葉を頭で反芻しながら、短く切り出す。
「悪かった。昨日の、態度」
心音の眉が僅かに揺れる。その揺れが収束する前に言い添える。
「連絡先。任務の時だけでいい。必要な連絡しかしない。……余計なことは、言わない」
息を1つだけ飲む音が砂の擦れる音に紛れて消えた。心音は視線を逸らさないまま、しばらく五条の顔色を見ていた。そこに虚勢がないかを測るみたいに、ゆっくりと。
「本当に?」
「ああ」
「余計なことは言わない?」
「言わない。……努力する」
最後の4文字に、かすかな自嘲が混ざった。心音の肩がわずかに落ちる。溜息ではない、緊張をほどくための微かな弛緩。
「条件、つけていい?」
「…うん」
「いっても1つだけなんだけどね、夜中の連絡は基本しないこと」
五条は即答した。
「分かった」
心音はポケットから携帯を取り出し、画面を五条へ向ける。無言で並ぶ、ローマ字と数字の列。五条は自分の端末を開き、メアドを打ち込む。画面には新規追加の文字とともに名前が現れる。
心音はすぐに携帯をしまい、五条に背を向ける。それで終わり、の合図のように見えた。しかし去り際に彼女はほんの少しだけ振り返って言った。
「…さっきの謝罪。受け取っておく」
「……おう」
それ以上の言葉は要らなかった。
***
夜。寮の部屋。天井の薄い灯りの下、五条はベッドに仰向けになり、手の中の端末を掲げる。親指が画面を弾くと連絡先の一覧に、見慣れない行が静かに差し込まれている。
___京本心音
ただ名前が一つ増えただけなのに胸の内側で説明のつかない微かな熱が立ちのぼる。
(なんで??)
自分に問いかける。答えは出ない。出ないのに勝手に口角が上がりそうになるのを咳払いで誤魔化した。
"余計なことは言わない"
約束したばかりだ。ここで何か送るのは違う。分かっていても、指は無意識に入力欄へ降りていく。
"明日の任務の詳細教えて"
それだけを打ち、送る前に消す。一拍置いて、今度はもっと短い文に変えた。
"連絡先交換してくれてありがとな。"
1秒、2秒。
送信ボタンは押さなかった。画面の明滅だけが静かな部屋の息づかいを数えている。結局、五条は何も送らずにアプリを閉じた。
「___馬鹿みてぇ」
悪態をつきながら電源を落とす。しかし、暗闇の中でも脳裏に黒く浮かぶ文字は消えない。
嬉しい、のかもしれない。なぜかは分からない。分かりたくもない。
胸のざわめきは、昼間の苛立ちとは違う方向へ静かに形を変えつつあった。
枕元の端末が小さく震える。通知ではない、気のせいだ。それなのに、五条は反射で画面を点け___自分でも呆れる。
もちろんなにも来ていなかった。
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