ぴぴ


夜の底


五条悟が謝った。
たったそれだけの出来事なのに、思っていた以上に心の奥に残っていた。その余韻は舌の上に残る苦味みたいにいつまでも消えなかった。
べつに期待なんてしていなかった。いや、正確に言えば期待すらしていなかったという方が正しい。あの男が謝るなんてことはありえないと思っていた。
歩み寄る必要など感じていないような男。常に他人より一歩上に立っているという自負を隠しもしない男。生まれたときから何もかもが手に入って、努力や妥協を知らずに生きてきたような、ある種、世界の中心で息をしているような男。
そんな彼がわざわざ自分の非を認めるような言葉を私に向けて口にするとは想像したこともなかった。
だから驚いた。それだけだと思っていたがどうやら違うらしい。驚きだけで済むならこんなにも夜になってまで胸の奥がざわつくことはない。
静かな部屋の空気の中に何かがずっと沈殿している。それは小さな違和感のようなもの。言葉にするには曖昧すぎて説明する気にもならない"何か"。けれど確かにそれは心のどこかに残っていた。

「……謝られると思ってなかった」

あのとき口をついて出た言葉はまったくの本音だった。驚きすぎて他の言葉が出てこなかった。
謝罪は自分の非を認める行為だ。「自分が間違っていた」と頭を下げるということ。
五条悟のような人種がそれを選ぶなんて___少なくとも、これまでの彼の生き方を想像すれば断言できる。
けれど実際は謝ってきた。軽口でも皮肉でもない、真正面からの言葉だった。普段のふざけた調子も、飄々とした笑みもなかった。ただ、まっすぐな声で、「悪かった」と言った。あの一言が嘘じゃないことはわざわざ確認しなくても分かる。

「……めんどくさいやつ」

その夜、自室のベッドに腰を下ろしてからも私はつい口の中でそう呟いてしまった。
めんどくさい。本当にそれに尽きる。
腹が立つほど傲慢で、どこまでも自分勝手で、他人を振り回すことに一切の罪悪感を持たない男。自信に満ちた瞳で、いつだって何もかもを見下ろしてくる。出会うたびに神経を逆なでされ、隣に立つだけで自分が小さく見える気がして、どうしようもなく苛立つ。
ふとした瞬間、あの夕暮れの廊下で見た横顔が頭をよぎる。サングラス越しではない、真っ直ぐな瞳。何かを伝えたそうに、けれど言葉が見つからないような、少しだけ不器用な表情。

「……らしくなかったなぁ、あれ」

ぽつりと漏れた声が静かな部屋の空気を震わせた。そう、"らしくない"のだ。あの五条悟が自分の言葉で真っ直ぐに向き合おうとしていた。それが事実であるというだけで胸のどこかに小さな引っかかりができる。
普段なら彼の言葉など一笑に付して終わりだ。
最強という言葉の鎧を着込んで、近づいてくる者を遠ざけ、手を差し伸べる者にすら軽口を返すような彼が、なぜかそのときだけは違った。
それが何なのか、まだ答えは出せない。ただ、今まで見たどんな顔とも違っていたということだけは、はっきりと覚えている。
___だけど言ってしまえばそれだけ。
「謝った=信頼できる」なんてそんな単純な話じゃない。今までの態度が消えるわけでもないし、一度の言葉で信頼が築けるほど私はお人好しじゃない。それは一瞬で手に入るものじゃないし、一度壊れたら二度と元には戻らない。それを知っているからこそ、私は「はいそうですか」と素直に受け入れることができなかった。
机の上に置いたスマートフォンに手を伸ばす。連絡先一覧に"五条悟"という文字がある。まだ一度も使っていない名前。その文字列を私はしばらく無言で見つめた。親しいわけでもない。信頼しているわけでもない。なのになぜか指先がその文字の上で止まる。

「…なにか送るつもりもないけど。」

そう呟いた声がどこか曖昧に響いた。つもりはないと強く言い切れない。それは心のどこかで「もしかしたら」を考えている証拠だ。
ほんの一言、送ってみるのもいいかもしれない。"任務おつかれ"でも"今日は暑いね"でも、なんでもない言葉を送ってみてもいいかもしれない。
いや、送らない。送れない。自分の中の"何か"が変わってしまいそうな気がして怖かったから。

「はあ……」

ため息がひとつ、宙へ溶けていく。静まり返った部屋の中で自分の吐息だけがやけに大きく響いた。何度も言うが、信用したわけでも信用したいわけでもない。けれど同時に"どうでもいい"とも思えなくなっていたの事実だった。
その変化が何を意味するのか自分でもよく分からない。嫌いとも好きとも言い切れない何かが、今の私の中に存在しているのはたしかだろう。それらが言葉にならないまま、ゆっくりと形を変えていく。

「……めんどくさい」

もう一度、同じ言葉を口の中で転がしてみる。
やっぱりそれが1番しっくりくる。
五条悟はどうしようもなくめんどくさい男だ。その存在そのものが煩わしくて、癪に障って、できることなら関わりたくない。
あのとき突き放したはずなのに、その名前が一覧にあるだけでなんとなく安心している自分がいる。
まだ答えは出せない。静かな夜がゆっくりと更けていく中、私はただそのわずかなひっかかりを抱えたまま、目を閉じた。
明日の自分は今日と同じ気持ちでいられるだろうか。そんなことをふと考えてしまうほど、五条悟という存在は、もう"どうでもいい"では済まない場所に立っていた。

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