視線
連絡先を交換してからも目に見える変化はほとんどなかった。心音からメッセージが届くこともないし、こちらから送る理由も見つからない。そもそも心音から提示された条件は"任務のことに関する内容以外は基本送らない"だ。
すれ違えば挨拶くらいは交わすが、それ以上距離を詰めることはできなかった。それでもどこか意識の奥で、以前とは違う“何か”が芽を出しているのを五条は感じていた。
たった一度、謝って、連絡先を交換しただけ。それだけのことなのに、その小さな出来事が何か決定的な境界線を越えさせたような気がしてならなかった。
彼女を見るたび、ほんの一瞬、言葉にできない感情が胸を掠める。その感情が何なのか、自分でもまだ分からない。
「……また1人で来てんのかよ」
ある日の放課後。訓練場に足を運んだ五条は、つい声をかけていた。口に出した瞬間、自分でも驚く。別に用があったわけでもないのに、気付けばここに足を運んでいた。
振り返った彼女の瞳が桃色の光を帯びて揺れる。俺と同じ六眼を持っている彼女は、特有の深みと透明さが同居するその眼差しだった。それはどこか冷たくもあり、凛とした強さを宿していた。
まっすぐ射抜かれるようなその目に一瞬だけ全てを奪われる。
「暇だったから」
肩で息をしながらも、その声には疲れの色がなかった。淡々とした口調。その奥にあるのは確固たる目的と意志だけだ。
「特級候補って言われてるのにそんなにやる必要ある?」
軽口のつもりで言った言葉に彼女は一瞬だけ眉を動かして答える。
「いや…、候補ってのは未到達って意味でしょ。到達するまでやらないと。」
その言葉には驚くほどの迷いがなかった。口だけじゃない。本気で上を見ている人間の声だった。
五条はそれ以上何も言わず、結界の外からただその動きを見つめた。少し前までなら、頑張ってるな程度の感想しか持たなかっただろう。
だが、今の彼女の姿はそれとはまるで違って見えた。
そして、気付いてしまった。
九尾の尾を顕現させ、身軽な動きで結界の中を舞う彼女は、以前の特級候補というラベルだけで語れる存在ではなかった。
桃色の髪が風に跳ねるたび、六眼が淡く光り、空気の粒まで見透かしているようだった。集中しているときのその瞳は、まるで何かを貫くように真っ直ぐで視線を離せなくなる。重心の移動ひとつ、手の角度ひとつが洗練されていて、戦いというよりも舞に近い。九尾の尾が靡くたびに空気が震え、術式の余波が細やかな波紋を描く。
その光景は圧倒的な緊張と美しさが同居する、一種の芸術のようだった。
頬を伝う一筋の汗が顎先で光って消えた。細い体が空を切り、靴底が地を蹴るたびに砂塵が舞い上がる。
なぜか目に焼き付いて離れなかった。
今まで、ただ優秀な術師としてしか見ていなかった。俺と同じただの特級候補だと思っていた。けれど今は違う。目の前の彼女の存在そのものが視線を引き寄せて離さない。
「……なに」
じっと見つめすぎたのか、彼女が訝しげな顔でこちらを振り返った。
「いや?べつに?」
「めっちゃ見てたじゃん。なんか変?」
「……意外と、絵になるなと思って」
「はあ?」
「…褒めてんだよ、珍しく」
「べつにありがたくないよ」
即座に切り捨てられても、なぜか胸の奥が少しだけ温かくなる。彼女の口調は相変わらず辛辣で態度もぶっきらぼうだ。それでもほんのひと欠片だけ、以前よりも距離が近づいたような錯覚を覚えた。
練習を再開した彼女は、再び軽やかな動きで呪霊を殲滅していく。細い指先が術式を操り、目に見えない力が空気を裂いていく。
「……綺麗だな」
思わず口から零れた言葉は風にかき消されたのか、誰にも届かない。それでもいい。言葉にしてしまえば壊れてしまいそうな、そんな感情だったから。
強いだけじゃない。気になるのは、たぶん"それ"だけじゃない。今まで知らなかった心音という存在が少しずつ輪郭を持ち始めている。特級候補、京本家の娘などの誇らしい肩書きの向こう側に、ひとりの人間としての彼女がいる。
もしかしたら、ただの興味かもしれない。あるいは負けず嫌いとしての意識かもしれない。
その答えはまだ分からない。分からないままでいいとも思った。
彼女が術式を放つたび、九尾の尾がなびくたび、六眼がこちらを向くたびにどこかが静かにざわめいているのは明らかだった。
そのざわめきは日を追うごとに知らない感情へと姿を変わっていく。
夕暮れが訓練場を金色に染める。光を背にした彼女の輪郭が、ひどく遠くて、けれど手を伸ばせば届きそうなほど近く感じた。
気になる。もっと知りたい。
でも今はこの距離のままでいい。
五条は結界の外から動きを止めない彼女の姿を最後まで黙って見つめ続けていた。
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