いざゆかん

時間は止まらない。そんなの高校三年にもなってファンタジーなことを考えないでも分かることだが、誰しも思ったことはあるだろう。

思わぬエンカウントに放課後が余計に気まずくなってしまっていたが、今は六時限目、さらに時計を見るとチャイムが鳴るまで数分とない。

丁度キリ良く単元を終えたばかりの授業はもう切り上げられていて、この僅かな時間も自習に設けられたのだが、さすがは進学校というか、空気が重い。

普通であればこんなカップラーメンの待ち時間、話すか駄弁るか談笑するかだ。
一単語でも多く、一分一秒も無駄にせずになんて精神、尊敬はするがそこに恐怖心は間違いなくある。

つらつらと考えながら、二列挟んだ斜め後ろ方面をちらりと向くと、一応教科書を開いている大平と目が合う。

彼は優しく微笑んだ。
大平はバレー部随一の無害な人物だ。
少し安堵しつつ前を向くと、それを狙ったかのようにチャイムが鳴り響く。
全身が強ばった。

もう時間など関係のないはずなのにゆっくりゆっくり帰り支度をした。必要もないのに教科書を開いてみた。




分かってた。彼はそんな人間じゃないと。

それが席を立ったタイミングで教室に入ってきた瀬見の姿を見たときに思った事だ。

思わず動きを固める。
彼は大平を連れて、机だらけの隙間を塗って目の前に立ちはだかる。

「…行くぞ。」

やはり目も合わせてくれないが、昼の事は何も言ってこない。
ちらりと大平を見る。また微笑んだ。こうなったらもう知らないと、自力でどうにか無事に終わらせていくしかないと瀬見の後ろを追っかける。


「…お昼のこと、なんか言ってた?」

「ん?少し話しただけだな。」

「…なんか、ごめん。」

「俺は別にな。それより苗字こそ。
あんま気にしすぎず無理しなさんなね。」

ずんずんと容赦なく歩みを進める背中の後ろで、大平とそんな会話を交わす。
相も変わらず母性に溢れているというか、あたたかい言葉を送ってくれる。思わず笑いが溢れる。

頑張ろう、ここまできたらやってやろうじゃないか、そんな意気込みは大会以来だ。憂鬱な不安から一転できた訳ではない。が、少なくとも体育館に向かう足取りは軽くなった。



「合宿に助っ人で臨時マネージャーをしてくれる3年の苗字だ。」

「苗字名前です。バレー素人ですが遠慮なくこき使ってください。宜しくお願いします。」

「今日からとりあえずマネージャーのこと覚えてもらうから、はい、挨拶。」

初めて、という訳では無いが牛島ともちゃんと話し、弧を描くように並んだ彼らからも揃った声で挨拶をいただく。その背の高さには流石に圧倒されるが、三年という立場が仰け反りそうな背中を支えた。

一年生に教えて貰いながら、必要最低限の雑務を頭に叩き入れる。スコアのメモなど専門的な仕事はコーチを中心に承ってくださるようで、タオルやドリンクなど、ほとんどが覚える必要のないことだ。

初日だから楽だと感じるかもしれないが、頼まれた仕事の一覧表を見るだけで疲れそうだ。作ったドリンクを片手に、もう少しで始まるであろう休憩を待つ。

確かにしんどい。部員の多いこともあって一つの仕事にあたる量が多く、これが合宿となるときっと目が回る忙しさなのだろう。少しだけ憂いの影を心に落としながら、けれど、コートを見る心境は甘いもので満ちていた。

試合は何度か見たことがあっても、上からじゃなく、すぐ横から見るのは初めてだ。牛島のスパイクも、天童のブロックも、山形のレシーブも、普段の姿からは想像もできないその凄まじさ。
一度コートに入ってしまえば五体満足では済みそうもないほどの威力だ。

ただ、その中で一番目を惹かれるのは瀬見だった。
サーブの構え、緊張した面持ち、目いっぱいに打ち込む瞬間を気兼ねなく見ることが出来そうなのだが、あまりにも眩しすぎて逆に見ていられない。

存在感を膨らませる胸の痛みは、もう無視ができない。
例えば叶わないそれだとしても、ぽろりと出さない限り構わないだろう。
何も望まず、一人だけで想うだけならば、彼に対して何も気負うことはない。倍率だとか、しがらみなんて関係ない。

軽くなった心に軋む痛みに、また、涙をぽとりと落とす。

ごしごしと乱暴に拭って、今度はちゃんとバレーボールを見た。



日も傾き、名前が概要を覚えた頃には日はとっぷり暮れていて、全体の練習は終わりを告げた。ただそれなのに賑やかな体育館の雰囲気が変わらないのは、殆ど全員がそのまま引き続き自主練習を開始したのだが、そろそろ帰らなければいけない時間帯だ。

そばにいた牛島に声をかける。帰宅の旨を伝え、すんなりと了承を得たのはいいが、その後の牛島が視線を放してくれない。

圧倒に似た貫禄にそれを逸らせずただ棒立ちするしかない。全国レベルの選手というのはこんなにもオーラを放つものなのだろうか。
スカートの裾に縋るようにそれを握る。

「若利、見すぎだ。」

「どうかしたの?若利くん。」

「あぁ、苗字が帰宅するのだが、こんな夜道、危なくはないかと思った。ロードワークのついでに送るのに、住所がどこか考えていた。」

「聞こ!?若利くんそれ当てちゃったらこわいヨ!?」

「む…男が住所を聞いては意味が無いだろう。」

山形、天童の二人がコートの方から助け舟を出してくれたは良いが、愕然とするしかない事態に騒ぐ彼らに、名前の遠慮する声は存在できない。声を張り上げることも出来ず、ただ成り行きを申し訳なさそうに流すことしか出来ない。

「あっ!そうだ〜!英太クンでいいんじゃな〜い!?名案ー!!!」

両手でヴィクトリーのブイをつくっては高く掲げ、誰の意見を聞くことも無くさっそく瀬見の元へ歩みを進めた。それを急いで制止したのはもはや反射で、女子とは言えど両手で思いっきり引っ張れば動きをぐっと止める。

ただ、振り向いてくれると思ったのか彼にとって止められることは想定内だったのか、それに抗うかたいで尚も前に進もうと踏ん張っている。

「ちょっと!別に大丈夫だから!一人で帰れるから!」

「そうか。瀬見なら安心だな。」

「牛島くんも納得しないで…!山形!こいつ止めて!」

「隼人クン止めたらウニ丼一生奢らないから!!!」

「それは困るな…!」

ちょっと、とようやく叫ぶ形になった私の主張はもはや意味を成さない。いくらひょろっこいとはいえ流石にスポーツ男子の力に敵うはずもなく、手を緩めてしまうと彼は反動にまかせた勢いで走って行ってしまった。


「英太クーン!名前ちゃん送らないの?」

「はぁ?」

「あの、俺送ります。今日ははやく上がる予定だったので。」

「…ハァ!?」

ドリンクを飲んでいた瀬見に天童が提案してしまい、もう駄目だと思った状況に助け舟、いや、まさしくワンタッチしたのは紛れもなく白布だった。

何か変なことを言ったか、なんて白けた顔のまま、確かに私物を纏めて手に持っていた。


いいですよね、異論はありませんよね、と言いたげな目は名前の意見さえも許可してくれなさそうだ。
それを感じたのは天童も一緒だったのか、しぶしぶとだが白布の意見を了承した。

彼が着替えたのは数分だったが、その間に母親に連絡をすませると、ひと一人分の距離を開けながらも帰路につくことにした。


まさか今日出会ったばかりの元彼の後輩に家まで送ってもらう展開になるとは思わなかったが、部活の時に見せたつんけんした態度は無く、お昼の時の第一印象と同様にとても丁寧な男子だった。

「まさか白布くんが送るって言い出すとは思わなかった。」

「…まあ、少しお話があったのも、あります。…けどさすがにキツいでしょう。」

「助かりました…お昼のことがあって、いや、あれは吃驚しただけで避けたとかじゃないんだけど…。」

白い電灯に照らされる彼はちっとも笑いやしないが、垣間見える柔らかさと幼さにこころは朗らかになる。

こうして彼と会話していると、今までとはまったく違う後輩ができた気分に浸って足取りを軽くしていると、彼は閉じていた口をふと開いた。

「…あの、苗字さんって、瀬見さんのこと好きですよね。」

落ち着いていた心臓が、意識する間もなく飛び出た感覚。やっと彼の言葉を理解した私は、それでもなお、やっぱり驚く以外のことはできずにいた。
足を止めた私の顔を、やっぱり、どうかしたのかと言いたげに見る彼は至極真面目だ。

話したいことがある、と言っていたのもだいたい瀬見関連のことだとも、察する他に無いというか、寧ろそれ以外に心当たりは無かった。


「今日、すごい見ていらっしゃってましたよね。たぶん牛島さんと…五色と、瀬見さんですかね、それ以外は皆さん気付いてらっしゃると思いますけど。」

「…恐れ多いですねバレー部。」

「はあ。そうですかね。」

たしかにいま思い返せば、今日は彼の姿ばかりがぱっと思い出せる。帰り際の天童の言動は、それに気が付いていたからか、と頭を抱えた。

「いや、でも…それだけでなんで分かったの?」

「分かったの、って認めるんですね。なんでもなにもその視線が物語ってると思いますよ。
…俺は恋愛云々とかそんなの詳しくはないですし、最初は、見てるなって思っただけなんですけど。」

「そ、それがなぜ…」

「太一が、あ、俺と同じ二年のでかい茶髪です。…あいつが、やっぱまだ好きなんだとか言ってたから聞いてみたら、お昼のこととかで、疑わしかったのが視線で確証に変わったって言ってたんで。」

しまった、と息を詰まらせる。二年生の二人に気付かれてしまったというのはつまり、さっき彼が挙げた視線について気が付かなかった三人以外もまた然りということだろう。
疑わしかった、というのも昼の態度のことで、とんだ失敗をしたものだと胃を痛めた。


知らずうちに認めてしまった事に気が付いてからは、もう白布くんの顔はみれなかった。

そんなこんなで無事に(とは言いきれないが)家まで辿り着き、頭を下げて走り去っていく彼を見送った。

するとふと、あの、告白された日を思い出した。

心音が煩く、閉じた玄関の扉に背を預けながら座り込んだ。
苦しさに耐えかねたため息が玄関に虚しく溶ける。
好きだと気付いてしまって、それを心にしまうどころか彼の部員に知られてしまった。

非常にまずい事態で、これからはもっと気を付けなければならない。膨らんでいく感情をもっともっと隠さなければ、最悪のことになる。ならば心を強く持たなければ。

決意したように、膝に手をついて立ち上がった。



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