逃げ出したくなるほどに

「理由は、あるんですか?」

どことなく申し訳なさそうな彼は彼らしくなく、答えられない申し訳なさに胸は潰れそうになる。
言ってしまえば、楽だろうか。
瀬見が今でも好きで、また付き合いたいと。彼らはもう気付いてしまっているし、からかいこそするが言いふらしたりはしないだろう。

ただ、ほんとうにそれでいいのかと手綱を引かれる。

正直、助けは欲しい。右も左もわからない恋心の渦中でできるのは動かないか後退だけで、前に進むことで彼らをその渦に巻き込んで彼らの時間を少しでも壊してしまうのが、とても恐ろしく感じられたのだ。

「……理由、というか。…いいんだよ、わたしのことなんて。みんながただ部活に打ち込んでいられるならそれでいいんだよ。」

「苗字さんは忙しかったんですね、瀬見さんと付き合っているとき。だから、俺たちが他人の恋愛事情に首を突っ込む時間もないって、思ってるんですよね。」

「…間違えじゃ、ないかな。」

隣からため息が聞こえた。申し訳ない気持ちがまた募る痛みに何も言えずにいた。馬鹿じゃないですか、棘のない声色が飛び込んできた。思わず彼の方を見ると、いつもと変わらない凛とした眼差しに身を固める。

視線を横に流した彼はなぜか向こうに視線を寄越し、また合わせて今度は前を向いた。

「そんな余裕もなくはないです。」

「…嘘だあ。」

「嘘じゃないですよ。」

柔らかく笑った。突発的な意外性に心臓は跳ねながらも、この子はこんなふうに笑うんだな、と和む。そしてなんの脈絡もなく瀬見のことを思い出した。彼とは違う、明るい笑顔だ。心臓がきゅっと締め付けられた。

そんな最中に呼ばれ、振り向くと、今度はまったく逸らされない白布くんの視線とかち合った。


「付き合ってみますか?」


「…は?」

耳を疑う。あんなに楽しそうに踊っていた心が急速に嫌な音を立て、嫌な汗が背中を、いや、全身からじっとり溢れる。この子は今、付き合うと言っただろうか。
強気の視線に捕らわれて離せない。心臓はばくばくと激しく、もう動揺を隠すことなんて意識にも登らない。

「瀬見さんとのこと、塗りつぶしてあげましょうか。」

「…あ、え、いや、ちょっと…え?」

「動揺する名前さんも、可愛らしいですよ。」

膝に置かれた手を、指を絡ませるようにするりと握られる。待って、の声が辛うじて口から弾け出た。白布くんは動きを止めたものの、何かを宿した鋭い眼差しで刺してくる。
意味わからない、弱々しくなった声は彼に届いただろうか。


「付き合う余裕くらい、ありますよ。彼女作ったからって弱くなる訳じゃありません。」

「好きな人がいるの、知って、」

「ますよ。それがどうかしましたか。」

目眩にも似たそれに思わず視線を下げた。
彼は馬鹿じゃないだろう。だからその意図がどうしても読めくて分からなくて、もうなにがなんだかわからない。目頭の熱くなる感覚の直後、視界が滲む。

「…なんで泣くんですか。」

「…ごめ、わかりません…」

吃音は詰まりに詰まって、抑えられた嗚咽と共に涙がぽたりと落ちた。絡んでいた指を解き、こんなんですいません、と首にかけていたタオルを押し付けられた。彼も少しでも動揺しているのか、それはちっとも優しくない。


「…すいません、まさか泣くとは。」

「………好きなんだよ…」

「…はい。」

余裕もなく、瀬見が、の部分が抜け落ちてしまったがきっと彼も分かるだろう。そんな雰囲気の声に、申し訳なさに、タオルを握りしめる。

もう寝ましょうか、と言われ頷いた。
部屋の方向が逆の彼に手を振り、未だ動揺に震える足を引きずって部屋に辿り着く。

部屋の襖を閉めては、予め敷いていた布団に力なく倒れ込む。身体が安らぐと、また涙が零れる。

自分はこんな泣き虫ではなかったはずだし、そもそも理由がわからない。それでも痛すぎるほどに彼への恋心は膨らみすぎた。彼もそれを知って、少しだけ、安心したように見えた。




苗字さんと別れた後、なんとなくぼーっとするする頭で部屋に戻ると、布団に寝て携帯をいじっている太一に遅いと声をかけられた。
それに返事をしてやる気分になぜかなれなくて、けれどこのごちゃごちゃを誰かに吐き出したくて。

その少し間を開けた隣に敷かれた布団に胡座をかき、さっきの出来事を話した。

何も、好きだから付き合おうと言った訳では無い。彼女もきっとそれは知っているだろうし、その上で瀬見さんが好きだと泣いたのだろう。
フラれる感覚を体験版で感じながらも、しつこいずくずくとした痛みがとてつもなく鬱陶しい。

「くっついたら、いいのにな。」

「…そうだな。」

「なに?賢二郎まさか本気だったとか?」

「は?」

冗談を言ったつもりだったのだろう。そんな顔で言ってきたのを、思わず睨んだ。いつもであればすかさず上がってただろう手も大人しく膝の上に置かれている。
それ以上何も言えなかった自分に、太一はかなり驚いた様子だった。表情こそ変わらないが、その目はいつもより大きく開かれている。

「…なんだよ。」

「え、いや、沈黙は肯定、でいいのかよ。」

「…否定したい。」

そう呟くと、大げさに口を両手で覆った彼をやっぱり一発殴ることにした。
そうか、そうなるか、とぼやく彼には同意だ。彼女の事に関しては、すべて予想を超えられてしまう。


ただ、苗字さんと瀬見さんのハッピーエンドを願う姿勢だけは変えないと、今この瞬間に誓おう。
反逆をもしてしまいそうなこの心情をバレーで、殺せれば、それでいい。

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