別れを切り出したときのことは、よく覚えている。
今までの短いが人生の間で一番の苦渋の決断を下したものだ。苦しくて苦しくて、今思えばなんで好きで仕方ない恋人になんで別れを告げたのか、本当に馬鹿な事をしたと思う。
「正セッター取られたの、すっげえ悔しくて。もっともっと練習しなきゃって思って。でも名前のこと待たせるのも嫌で。…今更だけど、本当に悪かった。…ごめんな…」
「…うん。」
ただ静かに話を聞く彼女に、またひとつ、胸を締め付ける感情が積み上げられる。本来ならば罵倒されても、はっ倒されてもおかしくはない。彼女がそうしたいならば甘んじて受けよう。でも何故だか優しすぎる目を向けるのだ。
「…ずっと馬鹿みたいに引き摺って……俺から誘った癖にあいつらと仲良くしてるの嫌だし…ほんと、クソだな。」
なにか言いたげに黙り込む名前を無視した。今何かしらの言葉を、例えばそれがどんなに素敵な言葉だろうと、自分が惨めな気持ちに苛まれそうでもう何も聞きたくはなかった。
「…でもさ、今も何もかわってねえよ。1年のあの夏から、お前に対する気持ちはずっと変わってない。」
「…、…うん。……うん。」
「さっきは白布とどうのこうのだとか、うるさく言ったけどさ……普通に新しい恋をして名前が幸せなら、俺はそれでいい。
…夜遅くに、ごめんな。じゃあ、また明日ー…」
恥ずかしくて、いたたまれない。こそばさに身体の動きは逸る。待ってと声が聞こえる。聞こえない筈なんてないのに、何故か聞こえないふりをしてしまった。彼女からすればそんなの見え透いた演技だろう、悲痛に変わった声に腕を捕えられてしまえば、さすがに足を止めない訳には行かなかった。
敷布団をきつく握って、そんな風に表情も歪ませて。
「…言い逃げするの?」
「今更、そんなこと言われても、じゃあ、今までずっと片思いだと思って何もしなかったのが馬鹿みたいじゃん。
もう私、部活無いんだよ。もう英太が部活終わるまで、待てない。
元彼だから、って何もできなかった……」
涙をぼろぼろ溢す様に。溺れるような呼吸の仕方に。こんな所で泣いてたまるもんかと一生懸命眉間を寄せる。それでも滲んでしまった視界の中、彼女の像を見つめられやしないのに見つめる。
「なあ。」
「常識って、なんだろうな。」
私は、声の震えるその切実さにもう涙が止まらない。
どれだけぐちゃぐちゃどろどろに腐ってお世辞にも綺麗とは言えなくとも、皿の溶けきったアイスクリームを舐めないのと同じで救いようがなくとも。
好き、の形は依然として変わらない。腐ってもくれないし溶けてもくれない。
「私、瀬見のことが、ずっと、」
どうしようもないとしか言えない諦観にのまれ、口は無意識に動いていた。言った方が楽だろうから。
「春高!!」なんて勇ましい怒声が全てを遮った。こんな時でさえも意識の全部を彼に持ってかれてしまって、私を見下ろすその彼の全てに心臓を掴まれる。
「春高で全国制覇したら、全部言うからな!それまで待ってろ!」
そう言うやいなや、幼すぎる笑顔を向けて手を振った。
はぐらかされたと言われれば、そうかもしれない。逃げたと表現されれば、そういう見方もあるかもしれない。
けれど彼の拙い誓いの言葉に、そう捉えてはまた迷うなんて馬鹿じゃないか。
背中を押そう、そう決めてから明けた次の練習、彼は本当によく打ち込んでいる。武器という刃物を研ぐのにもう雑念もないようで、バレーが楽しくて仕方がないといった目で話しかける瀬見に昨日とは違う愛しさを感じる。
もう合宿も終わりだ。身体も溶かされそうな体育館の暑さを身をもって知れたのも、いい経験だっただろう。彼らの血の滲む努力を目の当たりにし、バレーとは殆ど無関係だった私にも良い刺激だった。今度部活に顔も出してみようか。
三年生ということもあり、その他には取って言って楽しいイベントの無かった夏休みが閉幕し、今年は焼けることの無かった腕を半袖のシャツに再び通す頃には校内で既に始まった春高、そして次の代表決定戦のことが囁かに噂されていた。
応援に行こうという声が日増しに多くなり、来る10月暮れに向け、校内には熱が迸っていた。高校最後の行事でもある体育祭も終わってしまい、残るは受験と卒業だと過ぎるのが早すぎる月日に、生徒達のプレッシャーは重くのしかかる。
それでも依然として強気の姿勢を崩さない我が校のバレー部は流石というか、気負いすぎない集中の仕方だ。調子が良いからなんて言葉も擦り切れるほどに言われていた。
だから誰も、勝利への懸念なんてしていなかった。