つたない

また真っ黒な瞳を向けといて、この人は冗談を言ったのだろうか。冗談だと思って、笑ってしまった。「それは罰ゲームだよ。」と言ったら「じゃあ16時に間に合わない様にするから。」とピクリとも笑わずに言い放った。

「赤葦くんは…マゾなの?」

「それは言われたことないけど。苗字さんと付き合う罰ゲームなら、喜んで受ける。…喜んだら、罰ゲームにならないか。」

「…16時に間に合ったら?」

「付き合う。」

私は困惑しながらも、拒否を口に出す事はしなかった。吃驚して言葉が出ないだとか、言い訳は出てくるけどきっとそう言っても言い訳だってバレるのだろう。赤葦京治だからだ。

「理由は?」

「OKしてくれてから言う。」

「はは、赤葦くん意味わからない…
あー、もう16時になっちゃうね。」

「…確信犯。」

「え?」

「それはOKってとっていいの?」

ほんの少しだけ首を傾げて言うものだから、確信犯はどちらだろう。こんな男にこう言われてはっきりNOと言える女性がいるならぜひ心境をインタビューしてみたい。

「返品不可でお願いします。」

「金積まれても返品は断るけどね。」

攻防戦になりつつある筈なのに、私が一方的に攻撃を受けている。

鮮やかな橙が廊下を光る道へと変えていた。眩しくて俯きながら教室へ戻る歩みを進める。
人差し指を、ほとんど分からないほど柔く包まれる。親指で私の手の甲を一撫ですると彼の指たちは私の指の隙間たちに入った。

「な、に、やっ…誰かに見られたら…」

「大丈夫。」

「女の子の噂怖いんですけど……」

「大丈夫。」

大丈夫。彼がそう言って微笑む。瞬間、心の中にあった不安がすっと落っこちてどこかへ行ってしまった。手汗どうしようとか視線とか、まるで遮蔽型のイヤホンを付けた時のようにぷつんとシャットアウトする。
彼らしい手の冷たさに、それでも人間としての温かさに全てが馬鹿馬鹿しく思えてきてしまった。

彼はちらりと辺りを一瞥した。既にそれを遮断した私は何のことかも分からずぼけっと彼の方を向いていた。

あ、キスされた、と思うまでのことは何も覚えていない。
彼の目はしっかり私を見ていて、私も案外冷静で、この人は意外にもこんなところでするんだ、とか、ファーストキスだったはず、だとか余裕を見せていた。

そもそもさっきまで、職員用の玄関にいたはずなのに、いつの間にか暗く人気のないところの壁に張り付けられてるし、キスはさっきから繰り返されているし。

なんで世間一般はキスをする時に目を閉じるのかな、と試してみるとなるほど心地いい。


「苗字さんって…」

「…ん?」

「いや、なんでも。」

真っ黒な瞳を少し細めて、顎の骨をなぞってまた唇を押し付ける。この短時間で、赤葦くんには意外性で驚かされてばかりだ。ブレザーのポケットに入れていた携帯から空気を読まない安っぽい音が鳴る。
くぐもっていてもしっかり耳に届いたそれを、最初は無視した。
それよりも目の前に夢中だったから。

「…凄い鳴ってるね。」

「…ごめん。」

しかしあまりにも連続で通知がくるものだから水を差されてしまって彼も口を離して苦笑いする。
なんだと乱暴に手を差し込んでそれを取り出すと、既に画面に送信者の名前が出ている。普段一緒にいるクラスメイトだった。
私達の事とポスターの事を尋ねる内容に現実に強引に引き戻される。

「戻ろっか。」

「…うん。」

帰りは隣の手には少し皺の寄ったポスターが握られていて、手が触れ合うことを期待することしかできない。さっきまでの熱はすっかり遠くに行ってしまっていて、本当に恋人同士なのか、夢だったのでは、と疑ってしまうもどかしい距離だ。

「今日すぐ帰る?」

「うん、まあ、解散したら。急がないけど。」

「日誌書くから待ってて。」

それだけ言うと、驚く私を置いて返事を遮るように教室の扉を開ける。黒板の隅に赤葦京治の名前があるのがふいに目に飛び込む。
赤葦くんは確かに日直で、その後に部活がなくて、私は待たされる。想像できてしまった結末に、それだけなのに顔が真っ赤になってしまった。

「すごーい!ポスターの印刷遅くなっちゃったからあんまり貼れないかなって思ったんだけど、殆ど貼れてる!ありがとう苗字ちゃん!」

「あ、うん、赤葦くんが…」

「あ、やっぱり?この残りのポスターがぐしゃぐしゃなの、苗字ちゃんでしょー!」

意味もなく皺を伸ばして、机に置く。本当の犯人は赤葦くんだけれども言ってしまうのも億劫で面倒臭くて、勿体なくて。ごめーん、と笑っておく。こういうのは得意だ。

私達のクラスは、シンプルに喫茶店として出店することにした。ただそれだけではつまらないからとメニューの豊富を少し珍しくしている。私は当日は宣伝を頼まれているが、メニューの一つである皿うどんは私のチョイスだ。

そんな文化祭の準備も私が教室外で赤葦くんと何をしていたかも知らないまま着々と完成に向かっていた。
「塗りたて注意」の紙に守られた看板のせいで教室はペンキくさい。道具の乾燥を待ち、朝に完成させる事に決定した今、帰った人、帰る人、帰る準備をしている人しかいない。

明日が楽しみで仕方ないという空気の隅っこで赤葦くんは日誌を淡々と書いている。
もう帰ることしか頭にない人だらけの中で待つのは不自然な感じがして、鞄も持って飲み物を買いに行く事にする。


道中、クラスのメッセージグループの中から赤葦くんを選択して個人ルームで話しかける。どんな飲み物がいいか、だ。
友達追加もしていないし、彼の好みを考えたりとかもしていない。それは確かに私の中の迷いだった。

迷いと言ったら違うかもしれない。
このもやつきは、今の状況が本当のそれであるか夢でないかと問うてるものなんだ。

返信は直後、手の中の端末を震わせた。「もうすぐ終わるからいいよ」「皆帰った」絵文字もなければ句読点もない。良くいえばシンプルだし、悪くいえばそっけない。
あれ、どうしよう、どちらも好きだ。






ALICE+