- 03 -
鏡の前でひたすらに家のことを考えた。しっかりと脳裏に思い浮かべないと、闇の鏡とやらは元いた場所に帰してくれないらしい。面倒な夢だ。やけにリアルで、それに長い。
なんて、とっくに夢でないことは気がついていたのに、ユウはそう現実逃避をせざるを得なかった。
少し離れた先で大人たちが難しい顔を突き合わせている。自分たちをどう扱えばいいのが相談しているのだろうとはすぐに分かった。
「……日本、東京、」
闇の鏡は真一文字に口を閉ざしたままだ。ユウは途方に暮れてしまって、思わず、故郷の名を呟いた。
「貴方、日本から来たの?」
国名が口を付いて出たのは明らかにこの場所が外国であるからだった。
装飾は全て英語だし、日本語を喋ってはいるが皆彫りが深い顔立ちで髪や瞳の色は日本人離れしている。
それだけの理由で、ユウも無意識のうちに呟いていた故郷は、どうやら血塗れの少女の気を引いたらしかった。
「う、うん」
「そうなんだ。日本のどこ?」
「えっと、東京」
「とうきょう? 聞いたことない、すっごく田舎とか?」
「いや、すっごく都会……」
というか、日本の首都。
日本を知っていて東京を知らないなんてことはあるのだろうか。海外から京都や別の地域に旅行することがあっても、ほとんどが都内の空港に降りるはずだ。
少女の不思議な物言いに、しかしユウは疑問を口にすることはなかった。
だって、血塗れなのだ。普通に話しかけられたが、頭から爪先まで真っ赤なのだ。
恐ろしくて堪らない。会話の最中、声が震えていたような気がする。
魔法で嗅覚を鈍らせてもらっていなければ失神していただろう。
ユウは口を閉ざし、闇の鏡に視線を向けた。好んで視界にいれようとは思わなかった。
警戒心と恐怖心は、全くの別物なのだ。
「貴方たちは私と一緒に来てください」
大人の話がひと段落着いたらしいクロウリーがそう声をかけてきてユウはホッとした。これ以上イトに話しかけられる心配がなくなったからだ。
ユウは大人しく頷く。イトも異論はないようで、特に口を開かない。
どこへ連れて行かれるのか。クロウリーの口ぶりからしてまさか牢屋なんてことはないだろうと彼の側に寄ると、此方の様子を窺っていたクルーウェルが不意にイトに向けて指示棒を振った。
「わっ、ん? なに? なんですか?」
「汚れを落としただけだ」
「流石にその格好はまずいですからね。まだ匂いますが校内を歩く分には大丈夫でしょう」
淡い光が降り注ぐ。そして瞬きの合間にイトの身体中にこびりついていた血は消えていた。
魔法を使ったのだろう。ユウはすぐに悟る。
しかしイトは、おそらく多分、魔法を見たことがない。ユウが初めて魔法を見た時──先程までここで暴れていた獣と、それを収めるために放たれた光──と同じような反応をしていた。
血がなくなりすっかり綺麗になったイトの姿はそれでも怪しく見えた。
黒髪黒目とユウにとっては馴染みのある容姿だが、身体中は大きな黒いマントに覆われている。
彼女にある唯一の色は、片耳にだけ付けられた赤い派手な耳飾りだけだった。
「どうやって、」
「ささ、早く行きますよ。教師の皆さんは、先程お伝えした通りにお願いします」
イトの戸惑った声がクロウリーに掻き消される。フン、とクルーウェルが鼻を鳴らしそれに応えた。
先を急ぐクロウリーを、ユウは慌てて追った。少し遅れてからイトも歩き出し、鏡の間を後にする。
考えることは多々あれど、とにかくユウは彼らの言う通りにするしかない。部屋から出る直前に見えてしまった件の棺は、やっぱり宙に浮かぶことはなく血塗れで横たわっていた。
「今から図書館に行きお二人の故郷を調べます。闇の鏡が帰せなくとも、飛行機や船や電車や車や……とにかく様々な方法がまだ残っていますからね」
「はあ、ありがとうございます?」
薄暗い廊下は圧巻の広さだった。ユウは一度歩いていたが、イトはやはり初めてらしい。首を忙しなく動かして周囲を見渡している。
彼女にも魔力がないと鏡は言っていた。自分と同じく、魔法にも驚いていた。
血塗れでなくなっただけで緊張感は多少緩んだし、ユウの故郷である日本を知っている風だったし、状況を飲み込めていないのは同じようだし。
「さっきのは多分、魔法だよ。この世界は魔法が使えて、ここは魔法の学校らしいんだ」
ユウが知っている情報を伝えてみた。とはいってもほんの少ししか知らないのだが。ユウだって何も分かっていない。
仲間意識が働いたのかもしれない。ユウの言葉にイトは目を丸くさせた。
「魔法? ……そっか、魔法かあ」
教えてくれてありがとう、とイトが微笑んだ。無垢で可愛らしい、女の子の笑みだった。
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