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番傘に当たって弾けて消える、雨音だけがイトの耳に入ってきている。雨足は強いがちらりと見上げた曇天の向こう、星がキラリとひとつ輝いてみせていたから、直に止むことだろう。深く息を吸う。知らないにおい。異世界。
突拍子もない話であるが、この世界に魔法が存在して、元いた世界にターミナルがあったのだから、あり得ないとは言い切れない。
イトは宇宙にまで届きそうなほど高く聳え立つ、あの塔を思い出す。
しかしまた随分と平和そうな、学舎に飛ばされたのは不運の他あるまい。同じく別の世界からやって来たらしいユウという少年にとっては、教育者のもとというのは心強いのかもしれないが。
「、──♩」
全く息苦しいったらありゃしない。それでもイトの口角は上がり、歌を口ずさむ。
イトは様々な歌を知っているが、そのほとんどがタイトルの分からない、サビしか知らない歌だ。
船乗り達が好んで歌っていたから覚えてしまった、曖昧な歌が雨音に掻き消えた。
突如現れたモンスター──ユウは知っていて、グリムと呼んでいた──に血の匂いを指摘され、掃除にも飽きてきたところだったから寮を飛び出したすぐ隣、黒々と広がる森に足は吸い寄せられた。
夜目が効くのは大変便利である。生い茂る木々を掻き分けながらズンズンとイトは進んだ。奥へ奥へと、誘われるように。
魔法が存在するファンタジーな世界なら、喋るモンスターがいるのなら、エイリアンだっているのかも。
「イトさん」
音もなく目の前に現れたクロウリーに名を呼ばれ、イトは足を止め思考も止めた。傘をさしていないのに濡れた様子もないのは、魔法のおかげなのだろうか。
「この森には迷い込んだものを惑わし、閉じ込めてしまう魔法がかかっています。私と一緒でなければ出ることはできません」
へぇ、とイトは片眉を上げる。また魔法か、と。
なんとも便利で、それでいて恐ろしい。
クロウリーが差し出した手を一瞥してから、仕方なく握った。森の奥は気になるが、今彼を振り切るのは得策ではないだろう。
どういう訳だかこの暗闇の中でイトの目の前に焦った様子もなく現れたのだから、撒いたところでまたすぐ見つかり、そして警戒の色を濃くされるだけだろう。
ま、匂うらしいからそのせいかな。
イトはほくそ笑んだ。
「少し歩きますよ」
鉤爪が引っかからないようにゆっくりと握り返された手は、やはり濡れていない。
クロウリーの言う通り、森を出るまでには時間がかかった。
イトが森へ入ってからよりも、帰りはその倍以上は歩いている気がする。ふらふらと歩いていただけだがどうやら魔法にかけられていたらしく、かなり奥まで入り込んでいた。
魔法ですぐに出口まで運べばいいのに。イトは思ったが口には出さず、二人は終始無言で森の中を歩き続けた。
木々の隙間からオンボロ寮の灯りがチラつく頃には、既に雨は止んでいた。
「はぁ、ようやく出れましたね。雨も降っていましたしかなり疲れたことでしょう。これに懲りたら、もう森へは入ってはいけませんよ」
「ごめんなさい、学園長先生」
「素直で結構。さあ、持ってきたご飯が冷めてしまいます」
イトはオンボロ寮を見上げた。古臭い建物。一つの部屋だけ、窓から灯りが漏れている。
気配を辿らなくともそこにユウとグリムがいるのは明白で、だからこそ立ち止まった。
「匂いますか?」
困ったように笑って問いかける。あの動物を怖がらせてまでここに居座るのは本意ではない。
クロウリーは少しだけ考える素振りをしてから、徐に仮面に手をかけた。鼻先が空気に触れるように、けれど決して外さないようにずらす。
そしてイトの首元に顔を近づけ、すん、とひとつ鼻を鳴らした。
「女性にこういうのもなんですが、まぁ、端的に言えば匂います」
「あちゃー」
ぽり、と人差し指で頬をかく。グリムのためを思うならやはり、帰らない方がいいのでは。
そんなイトの考えはお見通しなのか、クロウリーは杖をひとつ、くるりと回した。
「匂いを消しました。これで大丈夫でしょう」
「おお、魔法ってすごい」
「便利なものではありますね」
袖の辺りをくんくんと嗅いでみるが、そもそも自分の匂いなど最初から分からないもので。
効果があるかどうか、確かめるにはまず寮へ入ってみるべきだと促されたイトがドアを開けた。
すると無事でよかった、とイトの姿を見て安堵するユウと、耳をへたりと下げて謝罪してくるグリムの姿が見えたので、どうやら効果はテキメンらしいとイトは思った。
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