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3.1940年某日、ドイツ空軍基地にて
空軍で2ヶ月間みっちりとした訓練を受けた後、名前は戦闘機に乗ってドーヴァー海峡を渡り英国に向かうことにした。 誰から命令を受けたわけでもない。これは、名前の我侭だ。ルートヴィッヒはもちろんのこと、ギルベルトも親戚たちも皆が反対した。しかし、名前は頑なに意思を変えようとはしなかった。 今名前がいるのは、作戦のために第2航空艦隊が展開しているネーデルラントのドイツ空軍基地だ。そして、特別に誂えさせた狭い控室の中で、名前は時間を待っていた。 これから、彼のところに行くのだ。名前は、己が酷く緊張しているのがわかった。ベンチに座りながら、身体を丸め、その時が来るのを時計の音を聞きながら待つ。握り締めた手が震える。背中に嫌な汗が伝う。目の前がちかちかと光る。これではいけないと、息を吐いて落ちつかせようとした時だった。 「大丈夫か?」 名前が声のした方を見ると、訓練を付けてくれた男が立っていた。名前の見た目より二十は上に見える男。空軍のエクスペルテンの中でも上位の腕前を誇っている。これだけはさせてくれと、ルートヴィッヒが無理を押し通して、男を名前の教官兼副官にし、出撃させるように仕組んだのはちゃんと名前の預かり知る事である。その上、男は名前が人ではないことを、女だと言うことを知る数少ない人間でもある。 「平気だ」 「初の出撃なのだから無理は言わんが、リラックスを心掛けろ」 名前は肩に置かれた手の重さが心地よいと思った。 「すまない」 「いいや、これも仕事のうちだ」 男は名前の肩から手を外した。 「それにしても、なぜあんたみたいなのが英国の爆撃に向かう」 「ライヒを、守るためだ」 「そうか」 「ライヒのために……」 名前は鉄十時を握り締め、何度も祈るようにキスをした。 必ず、必ず、必ず、彼への思いを犠牲にしてでも、ルートヴィッヒを勝たせるのだと願って。 そんな名前を見て、男はそれ以上何も言わなかった。 名前は心の中で自分を罵倒する。何がライヒのためだ。実際は、己のためじゃないか。彼を攻撃して、未だ消えることの無い彼への思いを断ち切ろうとしているだけだ。 「あいつの国を炎の海で埋め尽くす……」 そうだ! それしかない! ぐずぐずとしていては、いつまでも、進めないままだ。 ぶつぶつと呟きだした名前を見て、男はふうっとため息を吐いた。 「お前さん、ちょっと深呼吸した方がいいんじゃないか?そんなんじゃ、すぐに墜とされちまうぞ」 男の言葉はとても当たり前のことだった。しかし、目の前の細い道を通る事に必死になっている名前には、それさえも難しい。 「墜とされちゃ、ライヒを守れなくなるぞ……まずは、落ち着け」 男は、鉄十時を握り締める名前の指を慎重に一本一本解していく。すべての指を鉄十時から解き放つ頃には、名前も己を取り戻していた。一瞬でも、自分を無くしていたことを見られ、その恥ずかしさに名前は頬を染めた。 「い、今のは、その、戯事だ……忘れてくれ!」 「ああ」 名前は出撃の時間になる頃には、とても落ち着いていた。 出撃の時間になり、名前と男は格納庫に向かった。格納庫の中には、出撃をいまかいまかと待っている戦闘機が並べられていた。 「お待ちしておりました」 名前と男に気付いた整備員が近づいてきた。整備兵は名前に対し、背筋を伸ばして、踵を揃え、きっちりとした敬礼をした。 「本時刻をもって、御二方にはイギリスの偵察任務に赴いてもらいます。搭乗予定のBf109E4はイギリス南東部までしか航続することができません。イギリス本土到達時間は0420頃と予想されます。あちらでの滞空時間は20分程度ですので、偵察終了後は速やかなる撤退を望む、とのこと!詳細はこちらです」 名前は差しだされたバインダーに挟まっている紙を無機質な目で見た。どうやら、今日搭乗する機体は名前専用にロールアウトさせたものらしい。まるで、立派に育ち過ぎた弟の神妙な声がここまで聞こえてくるようだった。作戦を承認する欄には、ルートヴィッヒの名前が記入されていた。名前は心優しい弟に感謝した。 「ロンドンには行けるか?」 「……本日のロンドンは曇りのようでして、直接ロンドンが見えるかどうかはわかりません」 「そうか」 「もうしわけございません」 「いや、いい。ありがとう」 整備兵が敬礼をしたので、名前も返礼をした。 見上げる空はどこまでも蒼く、美しかった。名前はあの空に旅立つのかと思うと、自然と空気が肺に入り込むのを感じた。 名前は戦闘機に乗り込んで、キャノピーを下げた。コンコンと音がしたので、見ると先ほどの整備兵が微笑んでいた。口をパクパクと動かし、何かを伝えようとしていた。とりあえず、聞こえていないとジェスチャーをすると、整備兵は「幸運を祈ります」と大きな声で言った。呆気にとられた名前がそれでも微笑み返すと、整備兵は満足したようで、名前の視界から消えた。 ドーヴァー海峡の上を飛ぶフライトはとても順調だった。 「ハロ、飛行は順調か?」 名前が空と海の境界線を眺めていると男から通信が入った。まるで、ピクニックにでも行くかのような呑気な、重さを感じさせない声だった。男が搭乗している僚機を見ると、男が名前に向けて手を振っていた。男ほどの余裕は名前にはまだ無い。取りあえず、返事をすることにした。 「問題ない、オーバー」 名前は無駄なお喋りなど必要ないと思い、すぐに通信を終了した。しかし、男はすぐにまた通信を入れてきた。 「……ロンドンには、行くのか?」 答えておいた方がいいと思ったので、名前はすぐに返答をした。なんせ、たった2機で早朝とは言えイギリスに偵察に行くのだ。それくらい教えておかなければ、心にも準備が必要だろう。 「……ああ」 「そうか。俺は出来る限りお前さんの護衛をさせてもらう」 「自分の身くらい守れる」 「元帥閣下からの特命だ。何に変えてもお前さんを守れ、だとさ」 「余計なことを」 名前の脳裏には、肥満体の男が満足そうに笑っているところが浮かんだ。きっと今頃憎たらしい顔を浮かべているのだ。それでも、彼は腐ってもエクスペルテン。きっと名前ンの未熟な腕を見越してのことなので、善意は素直に受け取っておいた方がいいだろう。 「感謝する、オーバー」 「任せろ」 基地からイギリスまでは、運のいいことに、スピットファイアにもハリケーンにも遭遇しなかった。これには、男も「運が良い」とわざわざ通信を入れてきた。夜間での戦闘は行ったことが無く、酷く心もとなかったので、本当に幸運だったと言わざるを得ない。 名前は長い飛行の末、ようやく、大陸が見える位置まで飛ぶことができた。 名前は目を細めて前を見た。朝焼けに輝く、彼の国! ああ、あれがイギリス。懐かしきイギリスの土地なのだ。あの土地の先に、愛しい彼が居るのだ。名前はやって来た。ついにイギリスに、あのイギリスにやって来たのだ! |