細く、繊細に作られた芸術品のようなすらりと長い指が、艶やかに流れる絹糸のような黒髪に触れる。する、と髪が持ち上がると同時に形の良い、小振りな耳が現れた。薄い耳たぶをきらりと飾るのは、彼のかつての同級生が開けた穴と、もう1人の同級生が贈った値段が張るらしいピアスだ。
正直、恋人が自分以外の贈ったアクセサリーを肌身離さず着けている、というのは思うところがないわけでもない。が、ここに踏み込むのは、さすがに憚れた。
髪を耳に掛ける、という動作をじっくり見つめられていることに気付いたのか、美しい人は不思議そうにこちらを見る。なんでもないように耳たぶに触れると、もう、と恥ずかしそうに笑った表情が愛らしくて、外にいることも忘れて唇を奪ってしまいたくなった。
笑ってくれると、何もかもを許された気分になる。伊地知と名前を呼ばれると、どこかホッとする。柔らかな雰囲気を纏うその人は、呪いなどと名のつくこの世界から誰よりも程遠い存在に思えた。
学生の頃から変わらず、疲れていると不意に現れて、こちらが気負わない程度に気遣って、そして去っていく。冷えた指先を温める缶コーヒーは、一度だけ伝えたことのある好みの物だ。ふぅ、と小さく息を吐いて、伸びをする。プルタブを開けて温かいコーヒーを口に含むと、彼の優しさで心まで暖かくなる気分だった。今日ももう少し、頑張ろう。
今日はなんだか気分が悪い。些細なことで腹が立つし、小さな事でひどく気持ちが落ち込む。睫毛がうまく上がらなかったせいかもしれないし、明日にはネイルを塗ろうと思っていた爪が割れたせいかもしれない。フゥ、とため息を溢しながら、訓練終わり、1人廊下を歩いていると、名前を呼ばれた。俯けていた顔をあげると、白衣を着た綺麗な男が微笑む。
蒸し暑い廊下に立っていると言うのにどうにも涼しげな男は手に持った箱を揺らしながら「今からお茶するんだけど、一緒にどう?」と笑った。吸い寄せられるように近付き、空調の程よく効いた医務室に入る。長机の上に箱菓子を置いて、おしゃれなグラスに氷と飲み物が注がれた。恐らくアイスティー。多分、前に紅茶の方が好きだと言ったから。促されるままにソファに腰を下ろすと、心の棘が和らぐ気がした。
机の隣に置いた椅子に、部屋の主人も腰を下ろす。箱からお菓子をひとつ、手に取ってから「恵くんには内緒ね」とその人は悪戯っぽく笑った。
グラスの中でカラン、と氷が音を立てる。「そうね」と思わず呟いた自分の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
任務を終えて帰宅する。今日は日中暑かったこともあり、たくさん汗をかいた自覚があった。ので「おかえり」と声をかける彼から少し距離を取って、荷物を置いて風呂場へ向かおうとした。けれどそれを不思議に思ったのか、どうしたの?と近付いてくるものだから、率直に汗をかいたので、と伝えると更に距離を詰められて思わずのけぞった。
彼は胸元に顔を寄せると、あろうことかすん、とその形の良い鼻を鳴らした。そして胡乱げに目を細めると「ほんとだ、あせのにおい」と言いながらふふ、と笑う。思わず誘ってるんですかと口走ると、彼はまたふふ、と笑った。
釘崎さん危ない、の声と共に引き寄せられて、気付けば腕の中にいた。遠くでパリンと何かが割れる音がしたような気がしたけれど、そんなことよりも正直、はっきり言うと頼りない印象を抱いていた細身の男が、存外しっかりした力で腕を引いたことに驚いた。ていうかめちゃくちゃいいにおいするな、と思っている間に気付けば体は離れていて、ついで顔を覗き込まれる。不思議そうな顔をしているあたり、何か話しかけられていたのかもしれない。大丈夫?引っ張ったの痛かった?なんて、心の底から心配した表情を浮かべるその大人の善性を、担任にほんの少しでも分けてやってほしいと思う。大丈夫よ、と告げると、普段よりは未だに近い距離で長い睫毛が伏せられて笑顔を作る。顔がいいってこういうことを言うんだろう、眩しげに顔を顰めると目の前の男はまた不思議そうな顔をして、夜蛾先生に文句言わないとなあと床に散らばる蛍光灯に視線を落とした。
ちゅ、と可愛らしいリップ音と共に柔らかな何かが頬に触れる感覚。何が起きたのか理解するのに時間が掛かって、固まった体をゆっくりと無理やりに横に向ける。彼は今日、酒を飲んでいたんだったか。ほんの少しの量で気持ちよく酔っ払ってしまうコスパの良すぎる彼は、酔うと大変にスキンシップが増えて、こちらを試すような行為が増える。酔っている人に手を出すわけにもいかず、いつも歯痒い思いをさせられるのだ。しかしなんとか彼を振り返るとどうだろう、自分たちが腰掛けるソファの前のローテーブルに置かれているのは飲みかけのオレンジジュース。炭酸がしゅわしゅわと弾けては消えている。こんな酒は冷蔵庫にあった記憶がないので、おそらくアルコールの含まれていない正真正銘のソフトドリンクだ。どういうことだと頭を悩ませていると、彼のすらりと長い指が己の手に絡んだ。さらりと流れた風呂上がりの少し湿気た髪の隙間から、赤く染まった耳が見える。あれ、と思っている間にななみ、と名前が呼ばれて、そっと顔を持ち上げた彼の、潤んだ瞳と視線が絡む。熱を孕んだその瞳に射抜かれて、つられたように心臓が大きく跳ねた。思わず喉が鳴る。もう一度、念を押すように呼ばれた名前の最後の音が聞こえる前に、自身の唇を彼の唇に押し付けた。
自身の手が大きいのか、彼の顔が小さいのか。多分両者であろう、と思いながら両手ですっぽり包めそうな、綺麗な顔の頬を包む。なあに、とふにゃふにゃ笑う彼は、幸せの形をしているな、と思う。親指ですべらかな頬を撫でると、ゆったりと瞬きをする様子がスローモーションに見えた。瞼の際からくるりと伸びる長いまつ毛が揺れる様子まで見える距離。ふふ、と笑いながら、頬に添えた手に暖かな彼の手が重なる。相変わらず、春の陽気のようなひとだ。たまらなくなって、額にそっと口付けると、彼はくすぐったそうに笑った。
たまたまその日は任務がなくて、灰原も隣に居なくて、高専内に担ぎ込まれた彼に滴る赤が、恐ろしいほどに白い肌に映えていたことを鮮明に覚えている。心臓が壊れそうなほどに鳴っていて、家入さんが焦った表情で医務室へ向かう姿を見て、やっとその場から動くことができた。
のろのろと向かった医務室では既に家入さんによる処置が済んでいて、無言で振り返り、頷いたその表情に、心中でホッと胸を撫で下ろす。同時にいつの間にやらやってきていた夏油さんに背を叩かれて、露骨に驚いてしまった。怪我したんだ。と言うからそのようです。と返すと、あいつ、白いから血流すと怖いよな。なんて、もっと白い頭をした五条さんがひょっこり顔を出して言うので、夏油さんと並んで少し笑ってしまった。
一緒に行った任務の帰りの車内。隣で窓際に頭を擡げて眠りに落ちる彼の艶やかな黒髪が、重力に従って流れている。詰まった襟をした制服を着ているものだから、普段はほとんど見えていない首元が髪の隙間から覗いていることに気付いて、思わず喉が鳴った。真っ白な首は滑らかで、新雪のようだ、と思う。無意識に、そこを踏み荒らすように跡をつけるところを想像して、心臓が大袈裟な音を立てた。体に妙な熱が絡んで、居心地が悪い。それでも"白"から目が離せなくて、静かに走行音を立てる車内に自分の心音が広がってやしないかと心配になった。
冬が近付くといつも、共に入った布団の中で細い足がこちらの足に絡んでくる。彼の細い体はどうにも肉が少ないので寒がりなのだ。布団の中なので見ることは叶わないが、白く薄い足の甲がまずすりすりと寄せられて、そのままほっそりとしたふくらはぎが絡みつく。気付いて視線をやると、大抵彼はほとんど眠りに落ちているので無意識なのだろう。けれど、正直なところ、そうやって無防備に甘えられるとほんの少しムラッとするものだから、自制が大変なのも事実なのである。