そして王子は恋をした

「おはよう。お姫様」

シャッとカーテンを開ける音と同時に、閉じていた視界がまぶた越しにぱっと明るくなる。徐々に温かくなる感覚と眩しい光に、おぼろげながらも朝日を浴びせかけられていることに気がついて、私はむむむと身動ぎした。そんな私の前髪を払って、カーテンを開けた張本人がちゅっと音をたてて額に唇を寄せる。しっとりとした唇は、中性的な香りと共に離れていった。
そんなことをされたら、起きるしかないじゃないと、ゆっくりとまぶたを開いていく。ぼやける視界の向こう、優しく微笑むミクリが私の頬をするりと撫でた。

「休日のお姫様は寝坊助だね」
「……その、お姫様ってさ……冗談じゃなく、素で言ってる?」
「わたしが冗談を言ったことがあるかな」

ミクリと会話するたびに出てくる、なんとも耽美的な言葉の数々に冗談でしょうと思ったことがないとは言いきれないので、その言葉に対しては寝起きを理由に無言を貫くことにした。本気ではあるだろうけれど、ものの例えとして言っていると思っていたので、いざこうして真剣な顔で言われてしまうと何も言い返せない。冗談じゃなかったんだね、なんて言おうものなら、少なくとも半日は口をきいてくれそうにない雰囲気だった。
とりあえずミクリの視線をごまかしながら起き上がって、ウンと伸びをする。私の頬を撫でていたミクリのすらりとした綺麗な手が、私に向けられた。

ミクリと付き合い始めたくらいのとき、友人に彼の一挙一動が王子様みたいなんだよね、なんて相談したことが昨日のように思い出される。水のプリンスって言われてるくらいだから王子様で合ってるんじゃない?と苦笑いしながらコーヒーを飲んでいた友人は、ある種有名人なミクリと私がお付き合いを始めたことについてもあまり驚くことなく、ただ一言「きっかけが謎」と言っていた。
それは正直、今でも思うところがあるわけだけど、真っ直ぐ聞いてしまう勇気もなく、なんだかんだでうまくいってる私たちはもう何回こうやって一緒の朝を迎えただろうか。1度もミクリより早く起きれたことがないので、ねぼすけと言われてもあながち間違ってはいない。引かれた手が、洗面所へと導いていく。「顔を洗っておいで。くれぐれも、化粧水とクリームを付け忘れないようにね」「……はあい」洗面所に押し込んだと思ったら、念を押すように顔を出したミクリがピッと私専用の化粧水を指差す。言わなくても分かってるのにと子供じみた反論を飲み込んで、ぬるま湯の温度を手のひらで確かめた。

「……朝から完璧だねミクリ」
「ありがとう。気を許せるきみの前とはいえ、美しく在りたいからね」
「朝も早いもんね」

私を起こしに来てくれたミクリは既に準備完了と言った感じで、外に出掛けるときの衣装のような、スケスケ感のある防御力が低そうな格好ではないにせよ、朝から完璧に綺麗目な私服を身に纏っていた。本当に隙がないというか、完璧主義というか、自分が美しく在るならばどんな手間も惜しまないという姿勢がもう美しいわけで。
少なくとも、部屋着のままでクリームをつけながら、ダイニングでミクリの淹れてくれた紅茶を飲もうとする私とは大違いの姿勢だった。その姿勢には尊敬すらするけど、逆になぜ横着なことを平気でする私を、と思わなくもない。景色の良いルネの高台で「わたしの傍にいてほしい」と真剣な顔で言われたことは、夢だったかのようにも思う。夢じゃないから、こうして一晩過ごしたわけだけれど。今朝も洗面所で赤い痕を見つけてギャッといってしまったところだし。

フウフウと紅茶を冷ましながら、慣れた手付きでサラダボウルをテーブルに置くミクリを見上げる。今日は上機嫌なようで、鼻歌混じりにフォークを差し出されて「ありがとう」と受け取った。
ふと、そのつるりとした肌が目に入る。さすがに休みだからか、ファンデーションまではしていないようだけれど。

「見たことないけどさ、ミクリもお髭生えるの?」
「生えないよ」
「えー、まさかぁ」
「生えないよ」

低めのトーンで全く同じ言葉を繰り返されて、思わず口に含んだ紅茶を空気ごとごくりと飲み込んでしまった。ミクリにお髭は生えない、生えないって言うからきっと生えない。そう思うしかない口調に、視線を逸らしながら「そっか」と呟いた。これ以上突っ込めば、何が返ってくるか分からない予感がした。

「男性であると言うことに不満はないけれど」
「?」
「これは不要だな、と思うものがあるから困ってしまうね」
「不要……」
「昔は不要なものばかりで、不満しかなかったよ。肩幅も喉仏も、美しくなかった」

お髭のくだりでそれ以上深く追求されることはなかったものの、どこか独り言のような言葉を口にするミクリに、サラダを口にしながら耳を傾けた。
ミクリは普段から男性であることを特段嫌っているようではなかったので、そうやって過去の話でも不満に思っていたことを聞くと、少しだけ驚く。なんでも前向きに捉えるキラキラしたミクリになる前のことかと思うと逆に新鮮ではあったけれど、その時はきっとだいぶ落ち込んだんだろうなとは思う。もちろん男性になったことがないので声高には言えないけど、ミクリは今でも時々私の身体を眺めては「羨ましいよ」と微笑むことがあったので、なるほどその事かと合点がいった。

「でもその頃に、初めてきみと出会った」
「うん……私がルネに引っ越してきたときだよね。初めて見たミクリ、すごく綺麗だった。あっ、もちろん今もだけど」
「フフ、ありがとう」

お礼を言いながら私に口付けるのは、もはやミクリのクセのようなものじゃないかと思う。横に流れた髪を耳にかけて、恭しく耳のフチにキスを落としたミクリが、くすぐったがる私の正面の椅子にゆっくりと座る。自分の紅茶を片手に、目を伏せるミクリが楽しげに口角を上げた。
そもそもの話をすると、私とミクリは知り合ってからだいぶ時が経っていたけれど、かといって幼馴染みとも言いがたい距離感で長年生活してきた。ただの同い年の、同じ街に住む男の子、というイメージでいたミクリと関係が発展したのもここ数年の話であって、かの友人がきっかけが謎だと言っていたのも間違いなくこのことがあったからだった。

ふと、紅茶を手にしていたミクリの視線が私に向けられる。最後の葉っぱを口に放り込んだ私がその視線に動揺してごくりと喉を鳴らすのを、彼はものすごく優しい瞳で見つめてくれる。そしてさっきの低めのトーンはどこへやら、とびきり甘い声で私の名前を呼んだ。

「あの時、きみはわたしのことを素敵だと言ってくれた。体つきが変わってきて、声変わりをして、出てきた喉仏も嫌で……変わりゆくすべてが気になっていたわたしに、今でも変わらず言ってくれる」
「で、でも、昔からミクリのこと素敵だって言ってる人はたくさんいるよ」
「『ミクリくんはいつもキレイだね。男の人になってもステキだよ』」
「!!」
「きみから貰った初めての口説き文句だよ。忘れたとは言わせない」

あの頃はシンプルに、男の子なのに綺麗なミクリにひたすら驚いていた。初めて出会ったときは少年で可愛らしかった彼が、見るたびに背が伸びて声色も変わっていく姿に、今度は驚きと感動を覚えた。ミクリの元気がないことは共通の友人伝いで聞いてはいたけれど、実際に再会した彼はアンニュイな雰囲気をまとっていて、これまた彼の魅力に拍車をかけていた、ような記憶はうっすらとある。
そして、彼曰く初めての口説き文句というやつを思わず口にした、らしい。そんなような言葉だったかどうかは、思わず出た言葉ゆえに正直記憶にない。もちろんそんなつもりも無かったし、そんな風に捉えられているとも思わなかったけれど。

「あの時のきみの言葉に救われたわたしは、同時にきみに恋をした。それこそ、何年も温めるくらいのね」
「し、知らなかった……」

完全に初耳だった。なんなら、私自身その時の言葉に確証が持てないくらい、ミクリは昔から私のことを。
空になった紅茶のカップが私の手のひらの中でかちゃりと音をたてる。恋をしたときの楽しさを思い出しているのか、口元に笑みを浮かべた上機嫌なミクリが、片手で特徴的なもみ上げをゆるゆると指先でいじりながら「紅茶のおかわりはいかがかな」と囁く。頷く私に、ミクリも「うん」と言って頷いた。

私に恋をしていたわりにはあまり会わなかったよねと、温かい紅茶を口にしながら尋ねてみる。ミクリは当然といった顔で「完璧な姿できみの隣に並びたいと思っていたからね」と言いきった。どうやら昔から、ミクリは私の傍では完璧で在りたいと思っていたらしい。それは今でも変わっていない。

「きみがいくら横着でも、美しさに重きを置いていないとしても、わたしはきみが良かった」

するりと伸びてきた細長い指先が、テーブルに置いていた私の手に触れる。ゆっくりと重ねられて、優しく握りこまれた。華奢に見えて大きな男の人の手のひらが、私の手を包む。思わず、声が震えそうになった。

「……私で良かったんだ」
「ん?」
「なんで私なんだろうって思ってたけど、まさかミクリがそんな長い間私を想っててくれてたなんて、思ってもみなかった」
「……本当に、長い間だったよ。その間にきみが他の誰かと付き合う話を聞くたびに、気が触れるかと思った」

早く気持ちを伝えなかったわたし自身が悪いのだけれどねと笑うミクリは、今日一番幸せそうな顔をしていて。結果的に今はこうしてミクリとの日々を過ごせているのだから、思いを貫くのは大事なことだと思わされる。しかも何十年単位なんて、ものすごいことだ。私がのんびり暮らしていた年月を、ミクリはずっと。しかも私が他の人と恋愛していたにも関わらず。
切ない気持ちと嬉しい気持ちと、溢れんばかりの愛しい気持ちがない交ぜになって、それに申し訳なさまでもが入り交じって、私は思わず立ち上がっていた。離れそうになった片手が、離すまいと絡められる。

「ミクリ、ありがとう。ずっと私のこと好きでいてくれて」
「こちらこそ。わたしをきみの恋人にしてくれてありがとう」

ゆるりと手を引かれて、同じように立ち上がったミクリに優しく抱きしめられた。背も高く、身体も大きいミクリにすっぽりと包まれると、心地よい温もりと心音に包まれると、次はその中性的な香りが私の涙腺を刺激した。すんすんと鼻を鳴らす私に、ミクリが困ったように笑う。「お姫様は寝坊助で、泣き虫だね」「……お姫様がそんな姿を見せるのは、王子様の前でだけです」「うん。そうでなくては困る」腕に力が込められて、私もその背中に腕を回す。昔よりも男の人になっていたミクリは、昔も今も変わらず綺麗なままでいてくれた。