恋だったもの

「お前のことが好き、かもしれねえ」

そう言ったときの彼女は一体どんな顔をしていたか。あの時、絶望と同時に苦い記憶として植え付けられた顔も今やおぼろげで、何かの拍子にその記憶を引っ張り出しそうになるたび、心にひっかかりを覚えた。そして同時にざわつく心は、あんな女のことは思い出すなという深層心理からの警告だろうか。

あの時の表情は覚えていないものの、時々すれ違うときに浮かべている柔和な表情は、絶対にオレに見せたものではなく。その顔を見るたびに、オレはこの女が大嫌いだと思い始めるようになったのは、すれ違った彼女が誰かを『好き』だというような話をしていたときのように思う。それが誰か知らない男のことなのか、友人のことなのか、はたまた有名人なのかは知らない。だけどオレに対して吐き捨てられたあの日の言葉とは正反対の言葉に、声にならない怒りとやるせなさに意味もなく近くのゴミ箱を蹴り飛ばしたりした。

「ありがとう。でも私はあなたのことが嫌いだから」

あの時の冷たい声と、笑顔ひとつ浮かべなかった彼女。自分で言うのもみっともないが、そこそこ女にモテるオレからの告白を嫌いだと切り捨てた彼女。プライドもなにもない、淡い恋心は見るも無惨に砕かれてぐちゃぐちゃに潰された。むかつくから、お前が大嫌いになったから、お前も同じような目にあえばいい。

そう思えば気持ちが楽になった。だけど、あの日を思い出そうとすると心になにかがひっかかった。そして、その時の彼女の表情が思い出せない。あの冷たい視線を浴びながらその顔を見れば、思い出すだろうか。

「面、貸せよ」
「ごめん、急いでる」

普段ならすれ違うだけのオレが、目の前に立ちはだかったからだろうか。すれ違うときにいつも浮かべていたむかつくほど柔和な表情が固まる。無表情になる。視線はぶつからない。その顎を掴んで無理矢理自分の方へ向けると、「お前の都合は聞いてないんでな」とその細い腕を無理矢理掴んで強引に引きずっていく。抵抗しようと腕を引く華奢な女の腕は、折れそうだなとどこか他人事のように思った。

改めてその生意気な顔を掴んで、生意気に睨み付けてくる瞳を覗き込む。怒りか絶望か、思えばいつもこの女の瞳は黒く淀んでいたように思う。その色と淀みが逆に人間らしくていいと、オレは好き好んでじっと見つめていたこともあった。
カチリと、心のどこかでなにかが動く音がした。今では嫌いで見たくもないその黒く淀んだ瞳を、無性に舐めてみたくなった。くすんだ瞳でオレを見つめる非道い眼差しごと、失くなるまで喰らい尽くしてやりたいと思った。動けなくなるまで抱き潰してやりたいと、

「ああ、そういうことか」

オレはこの女が嫌いだ。大嫌いだった。嫌いで、大嫌いで、顔も見たくなくて、その張り付けたような柔和な薄ら笑いも剥がしてやりたくて、誰かを好きだとのたまう唇ごと噛みついてやりたくて、そしてその暗く淀んだ真っ黒な瞳に見つめられて、行き場のない感情を劣情ごとお前にぶつけてやりたいと、そう思ったんだ。

いや、今もそう思っている。このめちゃくちゃな感情に色が付き始めている。滑稽だ。間抜けで、どうしようもない。呆れてものも言えないが、その代わり大声で笑い飛ばしてやりたい。オレを嫌いだと言ったこの女も、そして、こっぴどくフラれて傷心して、その傷が膿んで腐りきったオレの恋心も。

「やっぱりオレ、お前が可愛くて仕方がねえよ」

腐りきった恋心がボトリと音をたてて落っこちる。新しく出来た恋心は、黒く暗く淀んだ色をしていたが、オレにとってはなんともなかった。
顎を鷲掴みにした間にある桜色の唇に自分のそれを寄せる。ぐっと体重をかけたとき、オレの両手を掴んだ彼女の腕の力強さに、数センチ手前でぴたりと止めた。視界いっぱいに映る瞳は色のない暗い影を落としていて、桜色の唇は色に似合わず真一文字に結ばれていて。思わず顔を引いたオレの胸に、ドンッと力強い拳が叩きつけられた。同時に離れる距離は、彼女の腕1本分。引き寄せようと思えば引き寄せられた。その身体を無理矢理抱き込んでしまえば、なにも見なくて済んだ。だけど彼女の表情に、足りないパーツが音をたててすべてはまりこむ音がしたような気がした。
あの時の表情が、そこにある。深層心理からの警告はこれだったのだ。見たくなかった。思い出したくなかった。なぜならその表情は、いつだってオレを苦しめたものだ。だから、まさか、それをまた見せられるということは。

「キバナ、教えてあげる」
「……や、めろ、聞きたくない」
「それは恋じゃない」
「言うな!それ以上は……ッ、!」

「憎しみだよ。キバナは私のことが大嫌いなんだよ。それこそ、私が汚れてしまえばいいと思うくらいに」

ぐちゃぐちゃながらも色が付き始めていた感情が音をたてて崩れていく。叩かれた胸が衝撃ではない別の衝動でじくじくと痛む。あの時真っ黒に塗り潰されてしまった心が、色を持った心が、再び真っ黒に塗り潰されていく。
無理矢理抱き込んでしまおうかと伸ばした腕は空を切って、なんとか片手だけは、ずるりと落ちていったオレの胸を叩いた彼女の手を繋ぎ止めた。握ったオレの手は震えていた。彼女の瞳は、淀んでいた。

こぼれる涙は止まることを知らない。みっともなく情けなくぐずぐずと鼻を鳴らすオレを、彼女は真っ黒な瞳で見つめた。
彼女はオレの恋心を何度も踏みにじる。そして同じ場所に、トラウマを植え付けていくのだ。恋をすることが億劫になるくらいの大きな傷跡を、オレの恋心へと。

彼女が憎らしい。嫌いで大嫌いで憎たらしくて、愛しているのだ。