ささやかな期待

「いやいや、明日エキシビジョンじゃないの?なんでこんなところにいるの?」
「オマエが飲んでるって聞いたから」
「誰に」
「ん〜、オマエのロトム」

急なキラーパスにびくりと身体を揺らしたロトムが、見るからかに顔色を変えてスマホごと私の目の前からスルスルと飛んでいこうとする。こらこら待て待てマイスマートフォン。それをがしりと捕まえて、両手でそのボディをきゅっとつまみ上げれば、スマホに入ったままのロトムは「いたいロト!ごめんなさいロト!」と言って私の両手の中で震えた。
ごめんなさいで済んだらジュンサーさんはいらないって、スクールでも聞いたことあるはずだけれど?じとっとした私の目付きに、慌てたロトムが全力で逃げ込んだのは、私の隣に座る縦に長い巨体の向こう側だった。

「こら!ロトム!私の位置情報なんでキバナに伝えてるのよ!」
「設定ロト〜!」
「ロトムの性格でしょうが〜!」

伸ばした手のひらをひらりふわりとかわし続けるロトムが、いつの間にかごめんなさいフェイスからニヤニヤフェイスに変わって浮遊する。イタズラ好きにも程があるぞと、上下左右に移動するロトムに手を伸ばし続けても、掴むどころか触れることすらできなくて。
ぜえはあと、肩で息をする頃には、なぜかニコニコと嬉しそうなキバナに腰を抱かれ始める始末。え、なんで?

「ちょ、近い。椅子から落ちる」
「オレの膝なら空いてるからいいだろ」
「なにがいいか分からない」
「落ちる前にオレさまが拾ってやる。オレに何度も抱きつくくらい、オマエはオレが好きだものな!」
「……ロトムがキバナの背中にばっかり隠れるから、手を伸ばすと身体に当たるだけでは?」
「言い訳ロト」
「ロトム!今日は家にいれてあげないから!」

ロトムがわざとらしくヒャーという声を上げて空中を浮遊する。本来ならばこういう飲食店内にポケモンの連れ込みは禁止なのだろうけれど、店内に人も少なければここのオーナーともそこそこな知り合いというおかげで、目をつむって貰ってる部分は大きい。私とロトムの喧嘩を眺めていた馴染みのマスターは、いつの間にか遠くでのんびりとグラスを拭いていた。

ぴたりと、私の隣で身体を寄せてくるキバナ。カウンターの椅子でそんなことをされようものなら転がり落ちてしまうかと思いきや、身体の大きなキバナはそんな心配もないようで、なかなか上機嫌に上機嫌そうなお酒を流し込んでいた。「エキシビジョンマッチの前日にいいの?
」ロトムとのやり取りで忘れかけていた会話にようやく戻ってこれたと、私もグラス片手に尋ねてみる。腰に回された腕は、振りほどいてもあっという間に戻ってきた。

「いいんだよ。たまには息抜きもいるだろ」
「まあ、やるのはキバナだから勝手だけど……こんなとこ誰かに撮られたら秒速で炎上じゃない?『ジムリーダーのキバナ、エキシビジョンマッチ前日に飲み会!』」
「『隣にいる小柄な女性は恋人か?!』ってか?ハハハ、記事出たら肯定しとこ」
「やめなさいよ、ほんとに燃えるよ」
「今さらだろ?オレさまのアカウントは日々大炎上、ファンとアンチのバトルが毎秒繰り広げられてるんだぜ?」
「それで平然としてられるキバナ、ほんと尊敬するわ」
「フフ、サンキューな」

冗談に冗談で返して、話半分にお酒を飲み込む。ギュッと込められた腰を抱く腕の力に、意味が分からないととぼけられるほどキバナとの付き合いは短くない。キバナだって、平然としていられるようになるまで時間がかかったに違いないのだ。誰だって肯定的な意見は嬉しいし、否定的な意見はつらい。それらを全部なんともないと表面上は言うけれど、心の底では気にしてる。なんだかんだで図体はデカくても繊細なままのキバナは、こうして笑いながら、その手で私に甘えてくれるのだ。
キバナから向けられる圧倒的な好意が、それ相応のものだとはなんとなく分かっている。だけど、それを受け入れて彼をひたすら甘やかす存在にはなりたくない。あまのじゃくだと、ダンデくんには言われたっけ。人のこと言えないよねと言ったら、不敵な笑みで返された。

「存分に甘えたまえ。だけど私はキバナを甘やかさないよ」
「……ん。今はそれでいーよ」
「だから、私がひとりでしっぽり飲もうとした場所に乗り込んできたキバナは許さない」
「男といたらヤダなーって思って、オレの面倒見てもらおうと思って来た」
「なんで?エキシビジョン前にメンタルボロボロなの?」
「オマエに会えたら明日頑張れる気がしてよ」

バトルの時とは大違いな、いつも通りののんびりとした口調でキバナは私の肩に頭を預けた。肩を貸した覚えはないけれど、いつの間にか腰ごと借りられていたからもはや関係ないかと、今度は振り払わないで受け入れながら、持ち上げたグラスに口をつける。なんだか今日のキバナはちょっとだけ大人しい気がした。普段はエキシビジョン前に私に会いに来ることなんてなかったし、それどころか会えれば明日頑張れるなんて、それこそ私に好意をぶつけ始めてきた頃しか聞いたことがない。いや、別に聞きたいというわけではないけれども、珍しいなと。どうしたんだろうとは思うけれど、深くは聞かない。何度もいうけど、私はキバナを甘やかすだけの女にはなりたくないからだ。意地悪かな?キバナの生涯のライバルであるダンデくんよりは意地悪じゃないと思うよと、自問自答しておいた。

カラリと鳴ったグラスを軽く持ち上げれば、マスターは小さく頷いて奥に消えていく。カウンターにグラスを置いたら、突然伸びてきた指先に唇をぬるりと拭われてしまった。犯人は誰かなんて分かっている。少人数だったここのバーも、今やまるであつらえたかのように私たちふたりだけになっていたので。

「なに!」
「なんの酒飲んでるのかなって」
「普通のウィスキーよ」
「甘いもんじゃないの、オマエらしい」

べろり。お酒で濡れた私の唇を撫でたキバナの節くれた指先が、キバナのピンクの舌が舐めとる。なんとまあ、色っぽい技を覚えてきたものか。びっくりする私の面前で、キバナのシアンの瞳が鋭く揺れて、それからその犬歯がぐあ、と私の鼻先を。

「こら!」
「ん……なんでだよ」
「鼻を噛まない!」
「鼻じゃなくて、オマエの唇がほしかったんだけど?」
「大丈夫?明日のエキシビジョンまでにお酒抜ける?」
「……別に、そんなに酔ってねえよ」

向かってきた大口を手のひらで制したら、はぐ、という音と共に手のひらにキバナの熱い吐息がかかった。そのままイタズラついでか人の手をべろりと舐めるものだから、思わず噛まないでと叱ったんだけれど、返されたのはまさかの私の唇狙いだったというもので。
今までそんな方向のアプローチをされたことがなかったから、思わず泥酔したのかと心配してしまった。ふて腐れたようにもう一度私の肩に頭を乗せる姿を見て、多少お酒は入っていても通常通りでちょっと安心。たぶんキバナは色々と不服だろうけれど。

コトリと、マスターが新しいコースターと一緒に同じお酒を置いてくれる。私たちに気を遣ってか、何かあればと一言置いて私たちの前から音もなく裏に入っていった。
キバナの腕の力がこもる。私の名前が小さく呼ばれた。

「応援してくれよ。そしたらオレ、いつもより絶好調なすなあらし呼べそう」
「それはそれは。楽しみだなあ」
「勝ったらオレ、オマエに結婚の申し込みしてもいいか?」
「すっ飛んだね……」
「オレのショージキな気持ち。こんなに人気者のオレさまから愛されてんのに、オマエ見向きもしねえもんな」
「自覚あるよ?」
「ウソつけ。ならキスさせろ」
「やーだ」

肩に乗せられていた頭がぐっと私の唇に寄る。またまたぁ、そう2度も同じ手は食らわんぞと差し出した手のひらは、今度はあっという間に絡め取られて。自分よりもふたまわりは大きい手のひらが、私の手のひらを優しく握った。もうひとつの手は、気付いたら首の後ろにあって。
いつの間にこんなことができるようになったんだろう。いつの間に、キバナは大きすぎる感情を私に抱いてしまったのだろう。どうして私はあれほど頑なにキバナの想いを拒んできたのに、この向けられた底無しの感情に喜んでしまうんだろう。向かってきた唇が、スローモーションに見える。逃げることはできたのに、逃げられないと思い込んでしまう。

「……っ」
「あのさぁ、オマエほんとズルいのな」
「あ、れ?」
「キス、期待しただろ。オレも期待するんだけど」

柔らかい感触が額からして、目をぱちくりさせた私の前にキバナが頬を染めたまま顔を出す。ずるいずるいと、何度も私のことを言うけれど、キバナだって十分ズルい。私のなけなしのプライドが、キバナに傾くものかという負けず嫌いが、ボロボロにされてしまった。

「ちょっと……いや結構、グッと来たよ。この勢いならプロポーズ受けちゃうかも」
「は?マジ?!」
「半分くらいマジ」
「っしゃあ、より一層負けられないな!明日は絶対勝ってやるぜ!」
「勝っても負けてもキバナのアカウントは大炎上するね」
「勝つしかないっての!『エキシビジョンマッチ、チャンピオンダンデに勝利したキバナがプロポーズ!』」
「『お相手は小柄な女性!』ってか。うるせえやい」
「ハハハ!そのまま記者会見決定だな!」

まだ勝ってもいなければ、私にプロポーズをしたわけでもないキバナが上機嫌にお酒を飲み干して、それから私の追加注文をしたお酒をグビリと飲み込む。いやそれ私のお酒だからとか、ロックをそんな一気に飲むんじゃありませんとか、色々言いたかったことはあるけれど。
ほらやっぱり。そんなに一気にあおるから。ぐたりと、突然カウンターに突っ伏し始めたキバナからお酒をとりあげて、マスターに声をかけた。アーマーガアタクシーの手配と、それからお勘定と、それから。

「キバナ、明日エキシビジョンでしょ。家まで送るよ」
「……送り狼になるぞ」
「ならない。ほら!シャキッとする!」
「うー」
「……今日は死ぬほどお水飲ませて、明日の朝ごはんも用意してあげよ」

キバナの家に行ったら、とりあえず買い出しにいかないとと、あっという間にきてくれたアーマーガアタクシーにキバナの巨体をねじ込んだ。
さっきから勝手に色々写真を撮りまくっていたロトムを呼び寄せて、せーので写真を撮らせる。明日これを見てびっくりするがいいわ。そしてやれるだけ、エキシビジョンマッチを楽しむがいいわ。私もこっそり、チケット取ったりしてるんだから。

「キバナだらしない顔ロトねー」
「そんなだらしないキバナのほっぺにチューのお返しだよ」
「送っとくロト。だから今日は家にいれてほしいロト」
「仕方がないなあ」

フヨフヨと浮くロトムごとタクシーに乗り込んで、お願いしますと声をかける。バーの入り口に立っていたマスターにひらりと手を振ると、タクシーのゴンドラがゴトリと揺れた。

遠くに明日のステージであるシュートスタジアムが見える。花が開いたかのように、ピンク色に浮かぶあのスタジアムで、隣のこの人はまた叫ぶのだろうか。絶好調なすなあらしの中で、相棒のドラゴンたちと共に。

「がんばれ、キバナ」

手の甲で撫でた褐色肌のドラゴンつかいは、くすぐったそうにその唇を緩めた。