キスだけじゃ奪えない

ふわふわとする意識の中、髪の毛が優しく払われる気配がする。そのくすぐったい感覚に、無意識のうちに身をよじれば、今度は優しい声が聞こえてきた。その声には聞き覚えがあって、覚醒しない頭で懸命に思い浮かぶのは、昨夜の一件。
頭は覚醒しなくても、このままでは夢で見てしまいそうな数々の記憶に、ゆったりと目蓋を上げる。視界に入ってきた肌色は、私がふるりと目蓋を揺らした途端に、私の身体を優しく抱きしめてくれた。

「おはよう」
「……おは、よう」
「よく眠っていたな」
「……ワタルさんのせい、だよ」
「はは、そうかもしれないね」

ちょっと歯止めがきかなかったから。と付け足して微笑んだワタルさんは、抱きしめたままの私の額に口付けた。そのくすぐったさに俯けば、見えるのはふたりして何も身に付けていない事実であったりして。瞬時に顔を上げれば、その動きは当然読めてたとばかりに唇を塞がれた。
まるで言おうとしてることを飲み込むようなキスに、朝からくらくらしてしまう。受け身でいた私がさすがに苦しいと、その胸を押し返して呼吸のために唇を離そうとしたとき。ぬるりと入ってきた舌に、驚きのあまり私はその鍛え上げた立派な胸板に力いっぱい拳を叩きつけてしまった。

「ん、グッ……!」
「……ご、ごめんなさい」

熱っぽい、鼻から抜ける吐息があっという間に苦痛でくぐもる。眉を潜めて胸を押さえてしまったワタルさんに慌てて謝りながらその顔を覗くと、眉を下げて苦笑いを浮かべた彼の視線とぶつかった。

「いや、はは。大丈夫、今のはおれが悪かった」
「でも、私も結構強く叩いちゃったよ?」
「それくらい抵抗してくれた方が助かるよ」
「キス、やり直す?」

思わず出た言葉に、ワタルさんが下げていた眉を驚きにつり上げて、ぱちくりと何度かまばたきをする。私自身も、こぼしてしまった言葉がとんでもないもので、ついでに言えばさっきの私の抵抗(厳密に言えば驚いて咄嗟に手が出てしまったのだけど)が完全に無に帰すものだと思い至ってしまったけれど、今さら冗談ですとごまかすわけにもいかず。
とはいえ、別に嫌なわけでもないし、たださっきは驚いただけで、このまま続けてもいっか、なんて思ってしまった部分もある。ただ、今日1日ふたりで取った休みの日がこんな堕落した日で終わらせてしまうのは少しもったいないとは感じる。少なくとも、この先に進んでしまったら、経験上しばらく解放されることはない、と思う。

「……きみはその言葉が何を意味するか分かってて言ってるのかい?」
「えーっと、多少は」
「本当に?」
「……わかってる、けど、休みの日くらい一緒に外に出掛けたいなー、とも思ってます」
「そうだね。それは午後からでも構わない?」
「……構わない、です」
「それなら良かった」

満足げなワタルさんの呟きと同時に、ベッドのスプリングがギシッと音をたてる。身体を包んでいたワタルさんのぬくもりが離れて、私の視界には天井を背景にしたワタルさんが優しく微笑む。その優しい笑顔が好きだなと、ベッドに投げ出していた手のひらをワタルさんの頬に滑らせた。くすぐったいと目を細めながら、まるで小さなミニリュウを撫でているときのように、手のひらにすり寄ってくるワタルさん。
愛しさでいっぱいになる気持ちをそのままに、するりと両手を彼の首の後ろに回したら、嬉しそうなワタルさんの顔が降りてきて、再び唇を重ねられた。
さっきの一件があるからか、遠慮がちな熱が私の唇をつつく。先ほど彼の胸板を強く叩いた腕をさらに引き寄せると、ワタルさんは熱っぽい吐息をもらした。

「は、っ……午後までになんとかなればいい、な」
「ま、ッて!な、なんとかならないかもしれないの?」
「善処しよう」
「ちょっ、んッ、」

私の抵抗の声はあっという間に飲み込まれて、塞がれた唇からは吐息しかこぼれない。朝一番にされたキスよりももっと深くて熱いそれに、結局なす術もなく、私は口腔内から何から何まで蹂躙されてしまうのだった。

気が付けば西日がベランダから差し込んでおり、重だるい身体は腰を中心に鈍く痛む。
どうやらあのあとぐったりとしてしまった私は最終的に夕方まで眠ってしまったようで、沈んでいく夕日をベランダから遠目に眺めて頭を抱えた。結局は堕落しきってしまった後悔、せっかくの休みを無下にしてしまった後悔、だけど、心の奥底に残る幸せは否定できない。
夕日を眺めてああでもないこうでもないと後悔を口にする私を、満足そうに眺めていたワタルさんの朗らかな声が、ちょっとだけ憎らしかった。

200323