憧れのその先は

「あ、キミってもしかして!」
「……? あの、どなたですか?」

道端で突然私に声をかけてきた相手は、いわゆるキラキラ男子というもので。
もちろんそんな人が私の友人にいる覚えはまったくなく、かといってここで無視するのもさすがに外聞が悪い。
職場からのおつかい途中で抱えた書類を持ち直して、私はその声に足を止めた。

声をかけてきた男の人を例えるなら、ファッション雑誌のモデルさんをやっているような、どこかのメディアの広告塔をやっているような、そんな感じの見目の整った若い男の人というのだろうか。といっても、私と同じくらいに見えるから、若いと思ったら失礼かもしれない。
男の人は、私がまったく記憶にないというような表情を見せたからか、ちょっとだけ眉を下げて笑った。その笑顔は、確かにどこかで見たような、見たことがないような。

「はは、やっぱり覚えてないか」
「えーと……すみません」
「いや、いいよ。だいぶ前の話だし、俺も結構雰囲気変わったって言われるから」
「雰囲気……」

つまり、彼はかつて今みたいなキラキラ男子ではなかったということだろうか。現在ではだいぶキラキラ系が板についてるみたいだから意外……という話は今は置いておいて。
実際雰囲気が変わったと言われても、年月の経った異性なんて気が付ける自信はない。実際、思い付く限りの異性の友人を思い返してみても、彼と同じ顔をした人に心当たりはなかった。
申し訳ない、という気持ちのまま、もう一度謝罪の言葉を述べる。男の人は、「気にしないで!」と言ってからりと笑った。

実を言えば、こんな風に仕事のお使いで外回りをしている最中に声をかけられることは、特段珍しいことでもなかった。
この職場に入って間もない頃、不思議に思った私が先輩にその話をしたところ、きっと職種上だろうという言葉を貰ったことがある。この地方のジムや四天王などなどの決定権を持ち、すべてを取りまとめるポケモンリーグ本部の事務員として雇われている私は、つまるところポケモントレーナー憧れの場所のふところで働いているというわけで。
もちろん純粋に懐かしい顔に声をかけた人や疑問を尋ねに来たもいれば、その懐に潜り込もうという魂胆の不届き者もいたりして、総じて声をかけられやすいと言うのが、その先輩のいうところの職種上の理由らしかった。

事務員としての仕事中は、外部に出向くにせよ内部で事務仕事をするにせよ、基本的に決められた制服で行動するのが通例なので、この制服イコールポケモンリーグ本部のスタッフという認識がかなり広まっているに違いない。毎日の服装を考える手間は増えるが、制服なんてやめてしまえばいいのに、とは思わなくもない。

「ところでさ、このあと時間ある?」
「え?」
「久々に会ったし、ご飯でも行かない?」

最近声かけられるなとぼんやりと考えながら飛ばしていた意識を引き戻すように、声をかけてきた男の人がぐっと私との距離を詰めてそう囁く。声が小さいのは、私の外聞を気にしてくれているのか、それとも彼がキラキラ男子らしい職種にでも就いているからか。
理由は分からないが、距離が近いのと、それから結局のところ私とどういった関係で?という部分が解明されていないのが大変腑に落ちないので、私はさりげなく彼から距離を取る。この格好で即答は角が立つと色々面倒なので、ちょっと悩むふりをしてから答える。「すみません、今日の仕事がまだ終わってなくて」にこりと微笑んだら、彼はなぜか嬉しそうにした。

「じゃあ終わってからで!」
「いつ終わるか分からないので……」
「いつでもいいよ。また連絡したいから、ポケギアの番号教えて?」

ちょっとだけピンときたような気がする。この言い方になんとなく覚えがある。見つけたどうぐをあげたいから、ポケモンの大量発生の情報を教えたいから、またバトルしたいから、ポケギアの番号教えてくれないか?もう何年も前にそういった人たちの連絡先はすべて消してしまったので確認のしようはないけれど、手慣れた動きからきっと彼はかつてそういったことをしていた人に違いない。
たぶん私を見つけたのも、過去に私と番号を交換していて、私のことが記憶にあったから。記憶は曖昧なのに、可能性がなんとなく確信に変わる。ポケギアを向ける彼に視線を向けたら、ばちりと彼の瞳と目があった。

「思い出してくれた?」
「……もしかして、」

確証はない。何番どうろにいた誰なのかも思い出せない。だけど、なんとなく昔の話を引っ張ってこられて、強く言えない自分が「いつか私と番号交換しましたか?」と彼に尋ねようとしたとき。ふわりと、肩に誰かの手が置かれた。

「やあ、おつかいご苦労さま」

私の背後にある気配の姿を見た目の前の彼が、その正体に目を見開いているのが分かる。彼は、声にならない声を漏らしながら、震える指先を私の後ろに向けた。
そこに誰がいるか。確認する間も与えてくれずに、肩に置かれた温もりが私の身体をぐっと引き寄せた。加えられた力に逆うことができず、反対側の肩がトンと誰かにぶつかる。
私はそのときようやく、その温もりが手のひらで、そしてそれが肩に回すように置かれていたことに気が付いた。

慌てて彼に向けていた視線を斜め後ろへと向ける。その瞬間、悪いことはしてないものの、さっと血の気が引く気がした。
それもそのはず。私の隣で私の肩を抱いて、余裕たっぷりな微笑みを浮かべているその人は、この地方の四天王かつチャンピオンをつとめている張本人。

「わ、ワタルさん!」
「用事は済ませたかい? リーグ本部に戻るならお供させてもらおうかな」

普段からそんなにしょっちゅうお近づきになれる人ではない。お膝元で仕事はさせてもらってるけど、それこそ企業からしたら社長みたいな人なのだ。
にこりと優しく微笑まれる。お供なんてとんでもない、むしろ私がお供しますという声は心の中だけで消えて、溢れていくのは目の前の彼と同じく声にならない声だけで。

突然の彼の登場に周りはなんとも言わないのかと思えば、周りのざわつきはどうやら最初からあったらしく、それがようやく私の耳に届きはじめたのは、目の前にいた彼が我にかえって慌てはじめたときだった。

「え、チャンピオン?! 知り合い……って、そっか。その制服、キミはポケモンリーグで働いているんだね」
「そう、ですけど……あれ? 働いてるから声をかけたんじゃないんですか?」
「いや、違うよ。キミだから声をかけたんだ」

ふと、肩に乗せられたワタルさんの手のひらに力がこもる。突然どうしたんだろうと視線を向けると、表情の変わらないワタルさんがじっと彼を見つめていて。顔色は変わらないけれど、その瞳はどこかほの暗い。声をかけるタイミングを見失って、私は再び目の前の彼に視線を戻した。
それこそ最初は面食らっていたものの、チャンピオンを目の前にしても動じるそぶりを見せない彼は、私だから声をかけたという純粋な言葉をくれた。キラキラしていて軽い人かと思ったけど、案外そうでもないかもしれない。

私の横にいるワタルさんを気にしてか、少しだけ言葉を濁した彼は、ニコニコと屈託のない笑顔で手に持っていたポケギアを再び差し出した。

「えっと……今日は取り込んでるみたいだから、また今度改めて誘わせてもらうよ。番号だけ教えてくれれば、連絡す」
「駄目だよ」

交換するまでここを動かないというような彼の雰囲気に、まあ番号くらいなら減るものじゃないしと、ポケットに入ったままのポケギアを取り出そうと手を伸ばす。しかしそれはポケットに届く前に、彼のせりふを遮る言葉と同時に制された。

肩に置かれていた手がするりと降りてきて、ポケットの前で固まっていた私の手を、それ以上はさせまいというように握りしめる。
大きな手のひらはごつごつとしていて、そしてほんの少しだけ冷たくて。すっぽりと私の手のひらを包み込み握りしめる様子に、驚いたのは目の前の彼も私も同じだった。

今日だけでもう何度目か。最低限の言葉しか口にしないワタルさんを見上げる。目の前の彼を見つめていたその視線がスッと細められると、ワタルさんを纏う空気ががらりと変わった。

「悪いけど、彼女の連絡先は教えられない」
「……なぜですか?」
「彼女はまだおつかいの最中らしいからね」
「じゃあ、仕事が終わればいいんですね」
「いつ終わるかは分からないと、さっき彼女からも言われたはずだよ」
「分かってます。だけど、終わりを待つためにも連絡先を聞こうとしたんですよ。俺は」
「……どうやら、簡単には諦めてくれないようだ」

ああ言えばこう言う、とはこのことだろうか。お互いに一歩も引かない睨み合いに、見ているこちらまではらはらしてしまう。
目の前の彼がほんの少し口角を上げたのを見て、なぜかワタルさんも嬉しそうに口角をつり上げた。

「諦めるくらいなら最初から声はかけません」
「……ふ、いい心意気だ」

彼を見つめていたワタルさんの目が、彼の放ったセリフに一瞬見開かれる。かと思えば、その目はあっという間にいつも通りに戻っていて。
そのかわり、ワタルさんの瞳は先程よりも輝いていた。手応えのある挑戦者を前にしたときのような、抑えきれない高揚感がにじみ出ているような。

「だけど、おれも引き下がれないな」
「……受けて立ちますよ、チャンピオン」

そんなチャンピオンのワタルさんを目の前にして、怯むどころか言い返し、なんならこのままバトルに発展してしまっても構わないというような気概すら感じる目の前の彼は、どうやらただのキラキラ男子ではなさそうだった。

握られた手が離される気配はなく、それどころか一層力を込められる。まるで私を渡さないといわれているような気がして、自分の勝手な妄想で頬が熱くなった。
かつてポケモンリーグにおいて、いち挑戦者として現役チャンピオンであるワタルさんに敗北したあの日から、ずっとほのかな想いを抱いていた私。そんな私が、そんな想像するなんて、なんと図々しいんだろうか。

「下がって」

ワタルさんへの想いを粛々と受け止めていた私の手が、ぐいと引かれる。まるで目の前の彼から遠ざけるように、ワタルさんは自慢のマントの背に私を隠した。視界いっぱいにうつるのはワタルさん、ひいてはドラゴン使いのトレードマークである漆黒のマントで。

「きみがそこにいてくれれば、負ける気がしないよ」

振り返ったワタルさんの優しい笑顔にくらりとする。そんな風に微笑まれたら、そんなこと言われたら、私が貴方の特別になったような勘違いをしてしまうじゃないですか。

「1対1でどうかな。きみもトレーナーなら、常にポケモンは持っているだろう?」
「……残念ながら、エースのポケモンじゃないですけどね」
「出直すかい?」
「まさか。ここで帰ったら"次"はないと思いますし」
「ははっ! 察しがいいな。さすが、諦めずに彼女に声をかけ続けていただけある」

バサリとマントがなびく。ワタルさんが腰から取り出したモンスターボールには、間違いなくカイリューが入っているだろう。たとえ相手が抜群の状態じゃなくても、ワタルさんなら相手を尊重して全身全霊でかかるはずだ。
そして彼の片手にも、どこから取り出したかモンスターボールがある。何を繰り出すかは分からないが、彼の表情からするに自信はありそうだった。

……だからといって、このバトルを黙って見ているというわけにはいかなかった。私の存在が原因だということは棚に上げて、そもそも現役のチャンピオンがこんなところでバトルなど、ポケモンリーグ事務員として許すわけもなく、私に声をかけてくれた彼も、こんなところでむやみやたらに目立たせてはいけないはずだ。
昔とは違って、今や情報が目まぐるしいスピードでやり取りされてしまう時代だからこそ、炎上という結果にだけは、するわけにはいかない。

風になびくたびに、ピシピシとちょっとだけ私の身体にぶつかっていたその自慢のマントの裾を控えめに引いてみる。「ワタルさん、ここでバトルは駄目ですよ!」上げた声は、周りからの声も相まってかきけされたようで、すぐ近くにいるワタルさんにも聞こえていないようだった。
ぐっと奥歯を噛み締めて、それから思いきり息を吸う。大声でその背中を呼び止めようとしたとき、聞こえた言葉に思わずその息を詰めてしまった。

「そろそろ始めよう。それとも、今からしっぽまいて帰るかい?」

私がかつて、トレーナーとしてワタルさんと対峙したときと同じような言葉。思わず、その圧倒的王者の目の前にいる年若の彼を応援してしまいそうになる。きっとそれは、当時死ぬほど悔しい思いをした私の小さな対抗心からだと思う。私の代わりに、なんて思いが微塵も無い、とは言いきれなかった。

ワタルさんが、握りしめたモンスターボールを放り投げようと振りかぶったそのとき。

「……」
「……」
「……きみのポケギアが鳴っているようだね」
「す、すみません……」

その振りかぶった腕に思わずしがみついてしまったのと、結局日の目を浴びずにポケットに入れたままだった私のポケギアが甲高い音でけたたましく鳴り響くのは、同じタイミングだった。先ほどの私の大声でも気が付かなかったワタルさんも、こればかりはさすがに気が付いたようで、私に腕を掴まれたまま、モンスターボールを片手に私のポケギアを視線で指し示した。
やれやれ、という言葉が斜め上から聞こえてくる。大慌てでポケギアを取ると、そこから聞こえたのは私におつかいを頼んだ張本人である上司の声で。

『どこで道草くってるんだ? 遅いぞ』
「す、すみません! ちょっと、トラブルで」
『トラブル? 大丈夫なのか?』
「はい、それはもう。大丈夫です。その……いま解決しました!」

ぐっと、掴んだワタルさんの腕を思わず引っ張る。それから聞こえてきたため息に、頭の中で多方面に謝罪をしまくった。ワタルさんにも、勝負を挑んできた彼にも、そしてこの心配してくれたらしい上司にも。
ちらりと彼を見たら、どこか安心したような顔をしていて。きっと彼も、勝負をしたくて始めたわけじゃないだろう。思えば、ワタルさんが妙な挑発を吹っ掛けなければ……。

『ところで、ワタルさんを見掛けてないか?』
「え?」
『秘書室から連絡があってな。どうやらまだ本部に戻ってきてないらしい』

あっ、いま隣にいます。と、言ってもいいものなのだろうか。もし本部に伝わるとまずいような、例えば私的なことをしていたついでにここにいるとしたら、さすがに断りもせず場所を言うのはワタルさんに申し訳ない気もする。
おそるおそるワタルさんに視線を向ければ、相変わらず優しい微笑みを浮かべて、何事かなとでも言うように少しだけ顔を傾けた。
その仕草がまた様になっていて本当にかっこいい。というのは、置いておいて。

『一応チャレンジャーがひとり、四天王との連戦に挑んでるから早く帰ってきてほしいそうなんだがな。まあ、念のためになるだろうが』
「ええ、っと……私いまから戻るので、道中それっぽいマント姿を見掛けたら声をかけておきます」
『そうしてくれ。じゃあ気を付けて戻ってくるように』
「はい、ありがとうございました。それでは」

ぷつりと向こうの電話が切られたのを確認して、こちらのポケギアも切る。しばらくの無言の後、なにかを察したワタルさんがからりと笑った。

「はは! おおかた、おれがいないって秘書室が大慌て、という話だろう?」
「わ、分かってるなら早く戻りましょう!」
「でも彼との勝負が終わっていない」

ニコニコとしていた表情を一変させて、鋭い目付きへと戻ったワタルさんが再び彼を見据える。彼はてっきりお開きになったと思っていたのか、握っていたモンスターボールを腰のホルスターへと戻していたところで。視線を向けられていたことに気が付くと、一瞬目を真ん丸にした。かと思えば、再び臨戦態勢といったかたちで腰のモンスターボールへと手を伸ばす。
その瞳はなにも諦めていないように見えた。私のポケギアの番号も、ワタルさんとの1対1の勝負も。

ワタルさんがそんな目で睨み付けるからですよという、お説教混じりになってしまいそうな言葉をぐっと堪えて、未だ掴んでいたままの腕をくいっと引く。ワタルさんが、ワガママを言う子供をなだめるような視線で私を見ていたことは、少しショックなので見なかったことにした。

「帰りましょう。チャレンジャーが待ってます」
「こっちのチャレンジャーはいいのかい?きみの番号がかかっているんだけどね」
「それはいいんです。減るものでも価値があるものでもないので、番号だけならいくらでも教えますよ」

電話を受けたときのまま握りしめていたポケギアを眺めて、その番号を手元のメモにしたためた。私の番号を教えるよりも、ワタルさんの評判が落ちることや、チャンピオンとしての威厳や格に傷が付くことの方がよっぽど大きいに決まっている。メモをちぎると、私とワタルさんを眺めていた彼に一歩近付いた。

「価値はあるよ。きみが考えている以上にね」

ふっと手元から消えたメモ。紙がくしゃりと握り潰される音と一緒に聞こえてきたのは、ワタルさんの低い声。

「彼女の番号が欲しければ、ポケモンリーグまで来るといい。きみのことだ、かつて彼女と同じようにバッジを集めていたんだろう?」
「!」
「えっ!」

ワタルさんの遠くまで響く大声に、その内容に、驚いたのは彼と私で。こうやってワタルさんにふたり一緒に驚かされることのなんと多いことかと思いつつも、言われた内容にどきりとした。

確かに私はバッジを集めていて、そして彼も私と同じように、かつてバッジを集めていた。さっき彼にポケギアを近付けられたとき、戻りかけてきた微かな記憶が正しければ、私は誰かとポケギアの番号を交換したあとに、その誰かとふたりともバッジを8つ集められたねといったような話を電話越しにしたような気がする。
まさか、それが彼だとは。忘れていたことが申し訳ない反面、だったら最初からそう言ってほしかったと思わないでもなく。だけど話の問題は、そこだけではなかった。

私がバッジを集めていたことを、ワタルさんは知っていた。
私の採用時の履歴書を見れば一目瞭然ではあるので、それを見たという可能性は捨てきれない。しかし、そんな事務処理上のいち書類にチャンピオンのワタルさんが目を通すだろうか。採用の決裁権は間違いなくワタルさんではないはずで、もっと上の、人事関係の事務方がやるもののはず。

とすればもしかして、ワタルさんは、私がかつてチャレンジャーとして目の前に立ったことを覚えている?

「彼女が欲しいなら実力で勝ち取ってみせてくれ。もちろん、おれも負けるつもりはないけどね」

衝撃的なワタルさんの言葉に呆けているうちに、重ねるようなワタルさんの自信たっぷりな声が、間近で響く。抱き寄せられた肩が熱くて、伝わってくる心音がなんだか恥ずかしくて。ポケギアをぎゅっと握りしめていると、肩に回された腕が私を促すようにそっと背を押した。
私がワタルさんに促されながら歩くなか、背中にかけられた彼の声は、聞いてきたなかで一番大きくて、そして懐かしい感じがした。
必死で私の名前を呼ぶ声は、当時ワタルさんに負けて、そして心奪われたあとにも、絶えずにかけてくれたあの声で。

リーグ本部に戻ろう。そう呟いたワタルさんの声のトーンが妙に低いことに、私は気が付かなかった。

遠ざかる喧騒を背に、私はなんで彼のことをすっかり忘れてしまっていたんだろうと考える。
ものすごく仲が良かったわけでもないけれど、話をしないくらいに仲が悪かったわけでもなかった。それこそ、バッジ獲得の近況を報告する程度には、交流があるはずだった。心当たりがあるとすれば、やはりあの日、ワタルさんに挑んで敗北してしまったとき、だろうか。

無意識ではあったものの、彼の声援を無視して、ワタルさんへの再挑戦も諦めた。だけど、チャンピオン戦で魅せてくれたワタルさんの圧倒的なバトルセンスと、それから私を前にして今日のバトルは楽しいよと喜んでくれた嬉々とした表情に心を奪われて、私は目標をリーグ本部への就職に決めた。
勉強を始めたターニングポイントとなったあの日から彼とは会っていないし、そして勉強を頑張ったせいもあってか、トレーナー時代に交流のあった人とは大体サヨウナラした。

きっとそれが、彼を忘れるきっかけになったんだ。自分勝手ゆえの申し訳なさに、ふと心に影が落ちる。彼にはちゃんと謝らないといけない。

「……邪魔をしてすまなかった」
「、え?」

心に落ちた影に完全に気を取られる前、かけられた声に慌てて俯いていた顔をあげる。そこには珍しく眉を下げたワタルさんが、私を見つめながらどこか困ったように微笑んでいる姿があって。

邪魔とは、一体何を指して言っているのだろうか。困ったように謝られたけど、むしろ謝るのは仕事中に絡まれてしまったこちらの方なのに。などと、思いがけない謝罪の言葉に色々な思い浮かんでは消えていく。
先ほど心に落ちた影はどこへやら、しゅんとするワタルさんに頭がいっぱいになってしまった私は、慌てて「とんでもないです!」と声をあげていた。

「むしろ、助けて頂いて……こちらこそ、すみませんでした。ワタルさんにお手間をかけさせてしまいました」
「手間なんかじゃないよ。きみたちの間に割り込んだのは、おれの方だからね」
「……でしたら、お礼を言わせてくだ、」
「おれは勝手な男だ」

謝罪の次は感謝の言葉をと、つむごうとした言葉はワタルさんの強めの語気に遮られる。向けられていた微笑みはゆっくりと消えていき、真剣な表情で視線を正面へと戻したワタルさんは、決して穏やかではない雰囲気を漂わせて、抱いていた私の肩を解放した。
離れたぬくもりに寂しい、と思っている場合でなさそうな雰囲気に、私は視線をワタルさんへと向ける。ワタルさんは、どこか言いづらそうに、ひとつため息をついた。

「自分でも驚いているんだ。おれが、こんなにも自分勝手で器量が狭いやつだったなんて」

ぽつりとこぼされた言葉に私は耳を疑った。
ワタルさんが自分勝手で器量が狭い?私の知っているワタルさんとは正反対の自己評価に、聞いた言葉が信じられない。だけどそれを至極真面目に言うワタルさんが、それを冗談で言っているようには思えなかった。
私の動揺を知ってか知らずか、ワタルさんは再び口を開く。歩幅は私に合わせてくれているようで、置いていかれたりはしない。その優しさに、一層ワタルさんの自己評価が信じられなかった。

「おれも視察の帰りでね。帰り際にきみの姿を見かけたから、一緒にリーグ本部まで戻ろうと思ったんだ。……そうしたら、突然見知らぬ彼がきみに声をかけた。友人かなと思ったよ。……いや、どちらかというと思いたかった、かな。世間話で終われば、おれがそのあとに声をかけて一緒に戻ろうって言うつもりだった」

あのワタルさんが、私を見かけて声をかけようとしてくれていた。ワタルさんに負けたあの日に彼に憧れて恋をして、届くはずもないと思いながらも遠くで見かけるたびにひそかに目で追っていたワタルさんが、私を帰りに誘おうとしてくれていた。
その事実だけで、視界が滲みそうになる。だって、そんなことを言われてしまったら、私は勘違いをしてしまう。

淡々と話をしていたワタルさんが、話に一区切りをつけると、ちらりと隣にいる私を見る。浮かんだ涙を見られたくなくて、目が合う直前に視線を逸らして俯いた。
それに気が付いてしまったのか、気が付かなかったのか、はたまた気が付かないでいてくれたのか。ワタルさんの手のひらが、優しく私の頭に乗せられる。俯いた瞳から涙がこぼれそうになって、ぎゅっと目を閉じた。

「だけど彼が、それだけで終わらなかったから。きみの連絡先を聞いて、食事に誘おうとしていたから。……それを見てしまったおれは、いい人にはなれなかったよ。おれも知らないきみのポケギアの番号を聞こうとした彼に、そして何気なく近付いた距離に、」

「おれは嫉妬したんだ」

ぎゅっと心臓が掴まれる思いがする。頭に乗せられた手のひらが、心地よくも恥ずかしくて、俯いた顔があげられない。ワタルさんのはっきりとした声が、頭のなかでガンガンと反響する。

嫉妬?あのワタルさんが?誰に?なんで?私と彼が仲良くするのが嫌だった?

キャパオーバーでぐるぐると考えがまとまらない。遠目で見ていた手の届かない人に、ぐっと距離を詰められている。ワタルさんの乾いた笑い声が聞こえる。力もなく、元気のない声だった。

「おれはきみの恋人でもなんでもないのに、勝手な男だろう? 子どもじみた挑発までして、ベストの状態じゃない彼をカイリューで叩き潰そうとしたんだ。みっともなく動揺した。……おれは最低だよ。チャンピオンとしても、男としても」

最低じゃないです。そう呟こうとした声が震えた。私にとってワタルさんは、いつも優しくてかっこよくて、そして頼りになる我がポケモンリーグ本部所属のチャンピオンで、それから、私の憧れで、笑顔がすてきな、私の大好きな……。

「だけどおれはどうしても。どうしても、きみの連絡先を、そしてきみを、彼に渡したくなかったんだ。……本音を言えば、こんなこときみに言うつもりはなかったよ。だって格好悪いだろう? ……だけどきみがこうして、おつかいのたびに誰かに声をかけられてるのかと思ったら、いてもたってもいられなくてね」

さらりと、頭に乗せられた手のひらが私の髪を伝って滑り落ちていく。俯いたままのせいで肩から落ちた髪の毛が、ワタルさんの手で耳にかけられた。私とワタルさんの視界を遮っていたものがなくなって、見られまいと隠していた顔の熱さと滲んだ涙が表にさらされてしまう。
ワタルさんが、そんな私の頬に指先を寄せた。ひんやり冷たい手のひらに、改めて自分の頬の熱さを実感させられたような気がして、思わず跳ねるように顔をあげた。
「やっとおれを見てくれた」そんな優しい声が耳を震わせて、ほんの少し冷たい手のひらが私の頬を滑って。

「……はは、結局全部吐いてしまったよ。だけどあとひとつ、これ以上のことを言ったら、きみは困るかい?」

困るはずがないと、ゆるく頭を振る。その瞬間に離れたワタルさんの手のひらは、辿るようにして私の手のひらを掴まえた。さっきから何度も繋がれているはずの手のひらが、ワタルさんの少し冷たかった手のひらが、今度はやけに熱く感じる。
視線をゆっくりとワタルさんに合わせたら、その瞳は熱く濡れていた。ぐっと握りしめられる手のひら。はにかむように、眉を下げて笑うワタルさん。

「ありがとう。……きみが好きだよ」

いつも優しくてかっこよくて、私の憧れで笑顔がすてきな、私の大好きなワタルさんの甘い声に、私はゆっくりとゆっくりと、頷いた。