癒し

「ワタルさん、ぎゅってしていい?」

彼女が仕事から帰ってきた。かと思えば、帰宅の挨拶もそこそこに発せられた彼女の言葉は、普段の彼女の口からはあまり聞かない言葉で。
思わず聞き返しそうになったものの、その疲れきった表情に口を開きかけて、ゆっくりと閉じた。今の彼女の状態からみて、きっと何を言っても返ってくるのは無言で頷くか、無言で首を振るかのどっちかだろう。
それならばと、おれは読んでいた本を閉じて、ゆるりと彼女に向かって両腕を広げた。

「おいで」

おれからしてみれば、彼女が甘えたくなればおれの許可なんて無くても甘えてきてほしい。疲れきったときは、おれがあとのことを全部やるからゆっくりおやすみと言ってやりたい。
だけど律儀な彼女は、たとえおれたちの関係が支え支えられで出来ているものであっても、片方の負担になる可能性のあるものにはちゃんとひとこと断りを入れることができて、ふたりの仕事はふたりでやろうと言ってくれる子だった。
もちろんおれにとっては、彼女のすべては負担なんかじゃない。いっそ、彼女のぜんぶを、逆におれが貰いたいくらいなのに。

仕事用の鞄を玄関口に無造作に置いた彼女が、真っ先におれの胸に飛び込んでくる。ぎゅうっと強い力で抱きしめられ、おれも負けじと抱きしめ返した。
柔らかい彼女の身体からは、同じ洗剤の香りと、それから彼女のシャンプーの香りと、少しだけ知らない匂いがする。きっと会社の匂いだろうと思いながら、そんな匂いをさせている会社を少しだけ恨んだりして。
彼女の匂いが、ぜんぶおれの知ってる匂いだけになればいいのにと、思わないでもなかった。

しばらくおれの腕の中でじっとしていた彼女の呼吸が深くなったのを感じて、ゆっくりと腕の力を弱める。案の定、仕事着のまましっかりとおれの服を握りしめている彼女の目蓋は閉じられていて、すうすうと聞こえるのは深い呼吸。
こぼれる笑みは、おれにとっての幸福の現れで、帰ってきたときのぐったりした表情のあとに見る彼女の穏やかな寝顔は、本当に愛らしくて。

「お疲れさま。ゆっくりと眠るといい」

願わくは、おれが一生、彼女のぜんぶを満たせる男で在り続けることができますように。そう願いながら、おれは彼女の額に唇を寄せた。