今日は遅くなるという連絡がワタルから入るのは、そんなに多いことでは無かった。一緒に暮らすようになってからというものの、私との時間が大切だからといって家には戻るようにしていてくれたようで、今回の遅くなるという連絡も、電話越しにとてもすまなそうに言われたことが印象的だった。
私個人としては、時には家の外でぱーっと飲んでくるのもいいんじゃないかと思うわけで、もちろんワタルが家にいて、部屋着で優しく微笑んでくれる姿もいいんだけれど、なんというか……ワタルも羽を伸ばしに伸ばしてみればいいのに、と思わないでもなく。そんなことを本人に言ったら、寂しそうなハの字眉になってしまいそうなので、心が痛くて言うに言えず。
今日は久々に外でお酒を飲むらしいから、どうせなら心から楽しんでほしい。そう思いながら、私は自分の食事とお風呂をさっさと済ませて、睡眠前に読みかけの本を開いた。
それからものの数分後。玄関方向から物音がして、玄関の鍵を開ける音と、扉を開く音が立て続けに聞こえてくる。もう帰ってきたのかなと思って壁掛けの時計を見たら、そこそこいい時間になっていた。
いつもと違う時間の過ごし方をすると、時が過ぎるのが早いなと、玄関先へと顔を出せば。
「ただいま」
「おかえ……り」
「ん?妙な間があるね」
「ワタル、だいぶ飲んできたなーって」
「はは……ご明察の通りだよ」
「別に責めてないよ?いいこといいこと」
ほんのりと顔色の良いワタルが、玄関までやってきた私を見てどこか嬉しそうにふんわりと微笑んだ。いつも上げている前髪は時間の経過と共に落ちてくるのか、見慣れない前髪が出来ていて。その髪型が普段とは違う雰囲気を出していて、なんとまあかっこいいことか。
ワタルはずるいなと、『いいこといいこと』の声と一緒にその前髪を後ろに撫で付けるようにすいてみる。くすぐったそうなワタルが、お返しとばかりに私の頭も撫でた。
「ちゃんといい子にしてたかい?」
「子供じゃないんだから。もうお風呂にも入りました」
「そうか。じゃあおれも入ろうかな」
「いつもよりお酒飲んだのに平気?」
「平気だよ。もし心配なら一緒にどうだい?」
「ねえ……すごい酔っぱらってるでしょ」
「ははは!」
普段なら絶対に絶対に言わないことをいつものニコニコ笑顔で平気で言ってくるワタルはどう考えてもどっからどう見ても酔っぱらっているはずなのに、ワタルからはいつもよりお酒の匂いがするという程度しか変化がみられない。
本当に酔ってるのか?思わずじとっとした目で睨み付ければ、ワタルはひときわ大きく笑って私の頭をポンポンと軽く叩いた。
ふらつく様子もなくバスタオルを抱えてくるワタルは、玄関先で立ち尽くす私を見てちょいちょいと手招きをした。なんだか妙な予感はしたけど、まあワタルが私に害をなすことなんてしないだろうと、その姿を追いかける。
すぐそばで見上げたワタルの喉元が、なにかを飲み込むように上下したのが見えた。インナーの首もとから覗く首筋と鎖骨がなんだか艶かしい。とは、絶対に口にしないけれど。
「……今日、きみのことがいいって言ってる男の子がいたんだ」
「え?」
「おかげさまでつい飲みすぎてしまってね。残念だけどあの子はいまおれの家にいるよって思ったら、みっともない優越感で溺れそうになった」
「……言わなかったの?その子に」
「あえて言わなかった、かな。人格者だ聖人君子だなんて言われるけど、所詮おれはただの男だ。独占欲と優越感は恐ろしいくらいお酒に合うって初めて知ったよ」
ほの暗い視線がどこか遠くを見つめているその横で、ワタルの黒い部分を垣間見た私はちょっとだけ嬉しい気持ちだった。好きな人にされるやきもちは嬉しいし、私をまるで勝利の杯のように掲げてくれるのもなんだかちょっと嬉しいし。
第三者にはっきり言ってくれないもどかしさはあったけれど、それ以上に人間らしくないと形容されがちなワタルの人間じみた部分を見ることができて、心の奥から込み上げるものの方がはるかに大きかった。
思わず口から笑みがこぼれて、ワタルの物憂げな視線が向けられてしまう。ゆっくりと引き寄せられて、おでこがぽすんとその胸板にぶつかった。背中に回される腕にならうように、自分もその背中に腕を回す。
酔っぱらいから香るお酒の匂いはくさくて嫌なのに、ワタルから香るお酒の匂いは優しくて、そしてどこか上品な気がするのは、きっとワタルの持つ気品みたいなものが影響してるのだろうか。
すり、とその胸板にすり寄ったら、ワタルも笑って私の頭に唇を寄せた。
「ふふ、悪いワタルだ」
「悪いおれ、か。嫌な男だろう?」
「いやじゃないよ。そういうワタル、私は嫌いじゃない。むしろ人間らしくて大好き」
「ほう。それはつまり、普段のおれは人間らしくないって言いたいのかな」
「そ、そうは言ってないよ!」
「ふふ、冗談だよ。……ありがとう」
優しい感謝の言葉が降ってきて、それから大きくて温かい手のひらが私の頬を包む。持っていたはずのバスタオルは、いつのまにか手元から離れていたらしい。
お酒のせいなのか、それとも私とくっついていたせいなのか、いつもよりもポカポカとしたワタルの手のひらがくすぐったくて、思わず笑い声がこぼれた。ワタルが何か面白いことでもあったのかい?と言いたげな瞳で首を傾げている姿を見て、なんでもないとひとりで含み笑い。頬を包んだ手のひらに自分のそれを重ねると、視線がぶつかった。
「おれもきみが大好きだよ。絶対に手放すものか」
「うん……どうせなら今度から見せびらかしてもいいよ」
「それはどうかな。おれは大事な宝物は見せずに隠しておくタイプなんだ」
「さらわれちゃうかも」
「知ってたかい?昔から竜は宝物とお姫さまを守る生き物って言われているんだよ」
「……つまり?」
「きみがほしかったら、力ずくでおれから奪ってもらわないと」
意地悪く笑ったワタルの顔が近づいて、ふわりとお酒の香る唇が、私の唇を食むようにして重ねられる。ちゅ、という軽いリップ音と共に唇が離れても、合わせられた額はぴたりとくっついたままで。至近距離で、ワタルのグレーの瞳が揺らめく。頬にあった手のひらは、いつの間にか降りてきて私の腰をするりと撫でた。
「絶対に渡さないけれどね」
もう一度落ちてきた唇に、私も渡されるつもりはないと、ワタルのインナーをぎゅっと握りしめた。