「わ、ワタルさん」
「ん?」
「また一段と、胸板がたくましくなりましたね……」
「そうかな?ああでも、ハードな仕事になりそうだったからある程度鍛えていたのは確かだね」
「その名残ですかね……このジャケット、着れますか?」
差し出したスリーピースのスーツはワタルさんが長期の仕事で家を空ける前のもので、戻ってきたら早速だけどパーティーがあるんだと言っていたこともあり、鍵を預かっていた私が定期的に家にお伺いしては、ある程度のメンテナンスをしておいた代物だった。
にも関わらず、ワタルさんがシャツに腕を通した辺りからなんとなく嫌な予感があって、差し出したベストを着込んだところで嫌な予感が目前に晒された。ある程度鍛えて、こんなにたくましくなるのかと首をかしげたくなるほどの立派な胸板は、ベストのボタンがどれもこれも苦しそうにパツパツで、見ているこっちが心もとない。弾けたらどうしよう、ソーイングセット持たせてどうなるものでもなさそうだ。
「ん……肩が苦しい気がする。太ったかな」
「鍛えすぎですね」
「そんなに鍛えたつもりはないけれど……見て分かるほどかい?」
「私はワタルさんがシャツを着るところから嫌な予感がしてました。……んー、ジャケットはまあ、前は開けるのでいいとして、このベスト……」
「正直言うと、ベストも少し苦しくてね」
「鍛えすぎですね」
「はは……今日のナマエは手厳しいな」
うんうんと唸る私の心を知ってか知らずか、ワタルさんが私の髪を耳にそっとかける。そんなことをしてどうなるわけでもないので無視を決め込むことにして、そのパツパツとした胸板をなんとかしようととりあえずさすってみるけれど、まあそれで小さくなるならこんなに悩んでないわけで。ワタルさんの手が、私の耳から頭に移動する。優しく撫でられても、申し訳ないけれど私にとってはこの目前にある問題を解決することが最優先なので、それもスルー。「くすぐったい」と笑う声に、そんな場合じゃないんですよと声をあげようとしたとき。
流れるような所作で顎をすくわれて、ちゅっと軽いリップ音。呆然とする私の唇を親指で撫でたワタルさんが、ニッコリと微笑んで「問題ないよ」と言った。
「そんなに長時間いるわけじゃないさ。家で待つ人がいると言って帰ってくればいい」
「……そ、そういう問題じゃなくて!」
「それに、むやみやたらにきみが触るから、おれもなんとなく居心地が悪くてね」
「え?」
「きみがその気にさせた、ってことだよ」
一瞬の間、それから思考回路が止まったことによってフリーズする私の身体。自分の発言がとんでもない爆弾だという自覚がないのか、からりと笑ったワタルさんは、ジャケットの襟元を直すと、近くのテーブルに置いてあったポケットチーフを軽くたたんで胸元のポケットに入れた。その仕草がまあとても、似合うのなんのって。思わず見惚れていた私の頭に、ワタルさんの手のひらが乗せられる。
「待っていてくれるかい?」
セキエイリーグのチャンピオンの、このカントーとジョウトの頂点に立つ男からの有無を言わさない圧倒的な口説き文句に、私はゆっくりと首を縦に振ることしかできなくて。私の答えに満足そうに笑ったワタルさんが玄関から出ていくのを見送りながら、私はその場でへなへなと腰を抜かし、真っ赤になった顔を両手で覆いながら「ふいうち、ずるい」と唸るのだった。