きずあとをかぞえて

「ワタルさん、また傷が増えてる」

ん?という優しい声と一緒に振り返った顔を制して、ゆっくりとその筋肉質な背中に歩み寄る。ぺたぺたと数歩ののち、目の前にあるがっしりした背中にできた比較的新しい傷を撫でてみると、かさぶたになっているからかカサカサとした感触が指先に伝わってきた。すでに痛くも痒くもなくなっているからか、触れられた本人は一瞬声を漏らすも、「くすぐったいよ」と言って柔らかく笑う。笑った声は優しくて、着ようとしていたTシャツを腕に引っかけたままのワタルさんは、その姿のまま少しだけじっとしていてくれた。
少ししてから、傷あとをしげしげと眺めていた私の名前を呼ぶ声が降ってきた。その声は、どこかしっとりとした声色で。

「この前言っていた傷じゃなくてかい?」
「うん。前まではなかったよ」
「……可能性があるとすれば、このあいだ少しヘマしたときかな」
「ねえ……ワタルさんの『少し』は少しなんかじゃないよね?」
「はは、どうだろう」
「すぐそうやってはぐらかす」

ちょうどワタルさん本人からは見えない場所にある傷あとをもう一度撫でる。「傷が増えるたびに心配してる私の気にもなってよね」と、少しだけ咎めるような口調でワタルさんの背中に文句をぶつけると、具体的な言葉は返ってこなかったけれど、その代わりに小さく頷く声がした。
その反応からするに、どうやらワタルさん自身も無茶をしている自覚はあったらしい。でも、だからといって心配させないような傷だけで済む容易な仕事だけをしているわけではないんだと思う。私のワガママに、嘘だとしても「もう心配させないよ」などと言わないところがワタルさんらしいと思った。嘘を付かない人は、ワタルさんは、できない約束は最初からしない。

新しく出来た傷、それから昔につけた古傷。いくつかの傷を撫でていると、ワタルさんのため息が広い背中の向こうから聞こえてきた。その深い深い息に、傷あとを眺めていた顔をゆるりと上げる。
私に背を向けて正面を見ていたワタルさんが何を見つめているかは分からないけれど、その眉が居心地悪そうに下げられているのだけは斜め後ろからでも分かる。ワタルさんの背中に触れていた手のひらをそのままに、私はその顔をあえて覗き込んでみた。
遠くを見ていたワタルさんのグレーの瞳がこちらへ向いて、それからゆっくりと視線がぶつかる。

ふ、と口元を緩めたワタルさんが、私を見て目を細めた。いつの間にか、着かけていたTシャツは下に落とされていて。

「きみに触れられると、落ち着かなくなるな」
「……そんなつもりじゃないのに」
「そんなつもりじゃなくても、そういうつもりにさせてるんだよ。ナマエは」
「ええ……」
「ええ、じゃない。これ以上は駄目だ。おれが許可しない」

ワタルさんが身体を引いて、それからぐるりと反転する。宙ぶらりんになった私の手が優しく取られて、指と指が絡むようにして握りしめられた。許可をしないという完全シャットアウトをほのめかしておきながら、その手は私の指を優しく握って引き留めている。なんだかちぐはぐだなとひとり笑えば、ワタルさんがいつもより低く呟いた。

「なにが可笑しいんだい?」

ぐっと繋がれた手が引かれて、ワタルさんの胸のすぐそこまで引き寄せられる。思わず見上げたら、赤い髪でほんのすこし陰ったワタルさんの瞳がじっと私を見下ろしていて。
基本的にワタルさんは不機嫌にならない。だけど少しだけ、纏う雰囲気が変わる。四天王をしていたときからチャンピオンをしている現在に至るまで、数多くのチャレンジャーを前にして、煽られることにも慣れてしまったワタルさんの自己防衛かもしれないと思ったら少しだけ物悲しい気もする。なんだか、人間離れしてさまったかのような。いや、でも本人も無自覚に時々命を顧みない無茶をするから、人間離れしている感想というのもあながち間違ってはいないんだけれども。

繋がれた手とは反対のワタルさんの腕が、するりと私の腰に回された。鍛えているのか、それとも今までの努力の賜物か、まるで丸太のようにびくともしない腕が私の腰をがっちりと捕らえる。逃げようにも逃げられない状況に、私も握られていない方の手をワタルさんの胸に置いた。押し返してみる。びくともしない。

「う……そういうつもりじゃないから、逃げたい」
「おれから逃げられるとでも」
「……おもって、いました」
「過去形だね。物分かりが良くて助かるよ」

にこにこと、普段通りの笑顔なのに少しだけ背筋が凍える気がする。ワタルさんは決して怒ってはいないし、不機嫌でもない。だけど彼の感情の波に触れるとこうなるということは、このお付き合いの中で身をもって知らされていたことだった。だからこそ、私の思わぬ好奇心が彼の何かを煽ってしまったらしいことは、まさに知らぬ間に地雷を踏み抜いてしまった同一なわけで。
腰を抱き寄せていた腕が、手のひらが、流れるように私の頬に寄せられる。大きくて、ぶあつくて、固くて強い手のひらに宝物のように優しく撫でられると、逃げたいと思っていても、ついつい目を閉じて受け入れてしまう。この様子は、どこかでも見たことがあった。たしか、ワタルさんが心から敬愛しているドラゴンポケモンを撫でているときと同じ。

「……ワタルさんずるい」
「ずるい?」
「そんな風に撫でられたら、そういうつもりになっちゃうよ」
「……そうか」

撫でられている手のひらに自分の手を重ねたら、一瞬面食らったような顔をしたワタルさんが、ふふ、と声を出して笑った。まるでこうなることを見越していたかのように、私の手を握っていたワタルさんの手に力がこもる。大きさの違う、指の太さも違う、重ねた手のひらが熱い。私の腰を抱くときも、頬を撫でるときも、絶対にほどかなかった手は、未だに私を捉えたままで。

「ワタルさんだって、私が何を言っても逃がすつもりはなかったくせに」
「ご想像にお任せするよ」

私の頬を撫でる手の親指が、ゆっくりと私の唇を撫でる。それが合図かのように近付く顔に目を閉じると、優しく降ってきた唇が重ねられた。やんわりと私の唇を食んで、もう一度重ねる。離れることのなさそうなそれに、私は諦めて片手を彼の背中に回した。指先がかさりとかさぶたに触れたような気がするけど、ワタルさんから与えられるのはぬくもりだけで、触れたことに関してくすぐったいよと言われることはなく。
落ちたTシャツを拾うのは、きっとそれがしわくちゃになってからだと、ぼんやりする頭の隅で考えたりした。