ある昼下がり

キッチンに立つ広い背中を見て、それからきゅっと引き締まった腰を見て、やっぱりいつ見ても格好いいなと心の中で呟いた。ユニフォームやらマントやらで普段からあまり見せない彼の後ろ姿は筋肉質なのにすらりとしていて、そのスタイルの良さには惚れ惚れとしてしまう。そしてそれ以上に、その魅惑の腰に抱きつきたいなという欲がムズムズと私をくすぐってくるのだけれど、これはもうある種の癖なので仕方がない。ワタルの腰がセクシーなのが悪い。そんな魅惑の腰に手を当てながら菜箸を動かすワタルは、私のあらぬ欲望も知らずにフライパンを振った。
お昼はおれが作ろうと言って、私をテーブルの前に座らせてからエプロンを片手にキッチンに入っていったワタル。といっても、座らされたテーブルからキッチンは丸見えなので、何を作っているかは分からないけれど、匂いは直に届いてくる。(ついでにそのお背中も丸見えなので、おかげさまで私が余計なことを考えるきっかけとなっているというのは彼には伝えないでおくとして)お醤油の焦げる匂いと、炒めた野菜の匂い。冷蔵庫の中身から察するに、きっと焼きうどんに違いないと推理してみる。なんなら、私が作るとしてもその品しか思い付かない。「焼きうどんでいいかな」頭のなかを読まれたんじゃないかという声に、もしかして私って名探偵になれるんじゃなかろうかと本気で頭をよぎる。「そんな気がしてた。大丈夫だよ」とっさにそんな考えを振り払って、テーブルからそう声をかければ、ちらりとこちらを振り返ったワタルが目を細めて微笑んだ。「よしきた」得意気な声がちょっと可愛いんだよねと、やっぱりこれも本人には言わないことにした。

美味しい美味しい焼きうどんをきれいに平らげて、ごちそうさまでしたと手を合わせる。「お粗末さま」なんて笑うワタルがものすごく幸せそうに見えて、はっきりそう言われたわけではないのに少しだけ照れてしまう。耳にかけていた髪の毛が落ちたのを見たワタルに優しい手付きでもう一度耳にかけられて、触れられた温もりがこれまたくすぐったい。もう、と呟いたら、からりと笑われて空になったお皿を回収された。

「洗い物くらい私がやるよ」
「いいんだ。きみは座っててくれ」
「さすがに申し訳ないよ」
「おれがやりたいんだ。だめか?」
「だめ……じゃないけどさあ」

その言い方はずるいんじゃなかろうか。だめか?なんて、いつものハッキリした声よりも甘えるような声で言われてしまったら、私が首を振るわけがないと、たぶんワタル本人も気付いてるはずなのに。いや、もしかしたら分かってやっているのかもしれない。ワタルはいつも、意図してるのかしていないのか、そうやって私のことを手のひらの上で転がしてしまう人だから。そういうところも含めてずるい。ずるくて、だけど優しくて格好いい。

「けど?」

言いたいことはハッキリ言えという言葉の圧は、いつも通りで。文句もワガママも、全部聞いてくれる伺いの言葉は、お皿を水に付けながら私にかけられる。けど、の先は考えていなかった。でも、その先が許されるのなら。

「……」
「きみは……突然そういうことをするね」
「実は料理をしてる背中を眺めながら、ずっとこうしたいと思っていました」
「おれに抱きつきたい、と?」
「腰に腕を回したい、と」
「おれには同じことのように聞こえるよ」

スポンジを泡立てているワタルの背中にくっつく。ワタルのたくましい背中は広くてがっちりしていて、そして念願叶った腰はいい具合に引き締まっていてあらゆる意味でちょうどいい。お互いの心音がすぐそこで聞こえて、その音がまた心地良くて目を閉じる。「動きづらいだらう」というワタルの声が背中越しに聞こえてきたけれど、適当に相槌を打っておいた。とにかく、この状態でちょっとだけくっつくことを許してほしい。
ワタルのお腹に手を回して、割れた腹筋を触る。突然の感覚にびくりと身体を揺らしたワタルが「こら、」と私の名前を呼ぶ声に小さく笑って、それから腹筋を堪能して、それから。

「甘えてくれるのはすごく嬉しいんだけれど、それ以上は無しだ」
「?」
「……今日の午後をずっと家で過ごすつもりなら、止めはしないが」

ひとりで楽しむ私を制しながら、少しだけ低くなった声。「おれの言いたいことは分かるね?」と続けられた声色が低いだけじゃない色っぽさを含んでいて、私は思わず飛び退くようにワタルから距離を取ってしまった。ははは!と笑うワタルが、泡立てたスポンジを片手にかちゃかちゃと食器を洗う。ドキドキとうるさい心臓はワタルには聞こえなかっただろうけれど、その甘美なお誘いにちょっとだけ揺れそうになっている自分にも赤面してしまったりして。
そんな自堕落な休みにはしませんと、頭を振ってワタルの隣に立つ。洗ってくれたお皿を拭くためだったけど、正直さっきの発言がぐるぐると頭を巡っていて変な汗が出てきそうだった。

「というのは冗談だよ」
「もう……」
「おや。冗談にしない方が良かったかな」
「冗談ってことにしておいてください」

ワタルが今度はくつりと喉の奥で笑う。そんなに面白いこと言ったつもりはないけどと、若干ふてくされながら受け取ったお皿を拭いて重ねていった。しばらく食器のぶつかる音と水の流れていく音しか聞こえなかったキッチンは、使ったお皿の少なさもあってすぐに洗い終えてしんと静まり返る。「さて、」とタオルで手を拭いたワタルが、その腰に手を当ててニコリと私を見下ろした。

「どこか出掛けたいところはあるかい? おれも一緒に行こう」
「うーん、行きたいところかあ……」
「リクエストが無ければ、きみをデパートに連れていってもいいかな」
「デパート? マント新調するの?」

腰に当てていた手を顎にやって、少しだけ首を傾げるワタル。普段から私の意思を尊重して大事にしてくれるワタルが、自分の行きたいところを提案するなんて珍しいなと思いながら、もちろん断る理由もないので頷く。
ワタルがドラゴンつかいの代名詞でもあるマントに並々ならぬこだわりを持っていることは知っていたので、行きつけのデパートに特注のマントをお願いしては、予想以上に買い込んでいる姿はよく見かけることがあった。だから今回も、その受け取りか注文かに行くのだと思っていたのだけれど。

「いや、きみへのプレゼントを見繕いたいなと思ってね」
「……誕生日ならまだだいぶ先だけど」
「はは、何もない日にプレゼントをしてはいけないなんてルールはどこにもないはずだよ」
「でも、もらう理由がないよ」
「理由が必要かい?」

キッチンからリビングへ歩いていくワタルの後ろをついていきながら、首を傾げる。もちろん嫌なわけがないし、嬉しいことではあるのだけれど、なにぶんワタルは常日頃から私を甘やかしに甘やかしては深い愛情を注いでくれるので、その上なにかを貰うとなると少しだけ抵抗があった。与えられ過ぎていることへの申し訳なさだとは思う。ワタルはこんなに私に尽くしてくれているのに、私は具体的には何も返せていないような気がして。
考え込んでいる私を振り返りながら確認したワタルが、音もなく隣に並ぶ。見上げたら、優しく肩を抱き寄せられた。

「理由ならいくらでもつけよう。だけどこれは、おれのワガママだ」
「ワタルの……ワガママ……」
「聞いてくれるかい」
「そんなの、聞くに決まってる……」

今まで言って欲しくてもなかなか言ってくれなかった彼のワガママを、数えるほどしか言ってくれなかったワガママを、私が無下にするわけがないと、きっとワタルは分かっててそう聞いているんだと分かる。アクセサリーをプレゼントするという甘やかしに対して、お願いという体で本人から許可を求めるなんて技術、ワタルにしか出来ないと思う。そしてまんまと頷いてしまう私。もちろんワタルの想定通りで、拒否するわけがなく。
「ありがとう」と優しく囁いたワタルが私のこめかみに唇を寄せる。くすぐったいと笑ったら、嬉しそうに頷かれた。