頑張りすぎないように

「ワタルさん、お帰りなさい」
「うん。ただいま」
「……」
「…………」
「……夕飯できてますよ?」
「うん……もう少しこのままで」

 ぎゅうっと力がこめられて、背中と首もとに回された腕が優しく私を締め付ける。なかなか離してくれそうにない気配に、されるがまま私もワタルさんの胸板に頬を寄せた。どくどくと聞こえる心臓の音と、それから優しい温もりと、ワタルさんの匂いを吸い込んで息を吐く。ああ、幸せだなあとゆるりと口角を上げた。ワタルさんも、同じことを思ってくれていたら嬉しいのだけれど。
 ゆっくりと腕の力が抜けて、それから離れた頬にワタルさんの指先が滑る。するすると撫でる指先は爪がきれいに切り揃えられていて、どんな触れかたをされてもちっとも痛くない。少しだけ冷たい指先が目元の近くを滑ったとき、反射的にきゅっと目を瞑った。それから、布ずれの音と一緒にワタルさんのカサついた唇が私の目元に触れる。耳にワタルさんの吐息が触れた。

「きみに触れていると、穏やかな気持ちになれるな」
「癒せてますか?」
「はは、こうかはばつぐんだね。おれで実証済みだ」

 ポンポンと頭を撫でた手が、落ちた横の髪を耳にかける。顔を上げた私にワタルさんはニコリと笑うと、耳のフチをざらりと撫で上げた。

「っ、」

 ゾリゾリという音に思わず声が出そうになって、私はなんとかぐっと堪えた。ワタルさんの服を掴む手には、少し力が入ってしまったかもしれないけれど、ワタルさんはたぶん気が付いていないと、思う。たぶん。

「わ、ワタルさん。夕飯冷めちゃう、ので」
「そうだね……」
「ワタルさん、あの」

指先から力を抜き、そのぶあつくて逞しい胸板に手のひらを滑らせる。ワタルさんは優しく私の腰を抱き寄せると、甘い声で「ん?」と呟いた。低くて、やさしい、甘い声が耳元をくすぐる。落とした視線を再び上げたら、想像以上の至近距離でどきりと心臓が跳ねた。
 首を傾げながら微笑むワタルさんの胸板を何度も擦る。言いたいことがうまく言えないのが伝わっているのか、ワタルさんはじっと私の言葉を待ってくれている。煤けたグレーの、やさしい瞳で。

「あの……あとで、たくさん甘えて、いいので……ご飯にしましょう?」
「……そうしようか」

 ワタルさんが嬉しそうに微笑む。落ちてきた唇が今度は的確に私の唇に重ねられると、ワタルさんはもう一度やさしい声で呟いた。

「ただいま。きみがいてくれれば、おれはいくらだって頑張れるよ」