ポケモンGメンという仕事は案外難儀なもので、単独任務をすることもあれば、危険度や手間を考えてツーマンセルやらスリーマンセルといったかたちで他の人間と組まされることもあった。
単独任務ならば危険度は増すが、やはり自分の独断で動くことができるので、この仕事を始めて経験さえ積めば、何よりもやりやすいものではあると思う。
いや、やはり個人の力量にもよるだろうか。もっぱら一人で行動したがる人は、かなりの実力者か単なる命知らずかと言われているのもどこかでは聞いたことがある。残念ながら自分の実力には自信がないので、きっと私はその命知らずに該当するのだろう。
今日の任務も、単独行動の方が何倍も楽だったと、すでに思い始めている。握りしめたポケギアはなんの反応もなく、周りから聞こえる音も気がついたら消えていて、はてさて私は一体なんのためにここにいるのだろうとすら思っている。これが単独任務ならば、今頃元締め辺りをぶん殴ったりしていただろうか。
軽い現実逃避に、コンクリート壁の傷を指でなぞったりしていたとき。握りしめていたポケギアが小さく震えた。着信ではないそれは単なるアラームで、今日のツーマンセル相手に指示されたタイミングで動くようにしてあったものだった。
「……結局、音沙汰なかったな」
今日のツーマンセル相手のことだから、ドジを踏むことはないと思うけどと、しゃがみこんでいた身体を持ち上げて、軽く屈伸運動をする。パキポキと関節が鳴る音がやけに響く暗い廊下は、覗き見たところ右も左も誰もいない様子だった。
その光景に、少しだけ首を傾げる。普通なら、潜入されているとも思っていないしたっぱたちが、何人か気を抜いた顔をして歩いているところだけど、このアジトはよっぽど人員がいないのだろうか。悪の世界も人員不足なのだろうかと、やけに静かな道を歩き始めた。
組んだことがないわけではない今日のバディである彼は、初めて組んだ時に己をただのトレーナーだと言った。けれど、その時に名乗った聞き覚えのある名前と、一眼見ただけで分かるほど育成された相棒であるカイリューの姿、高級さの漂う特徴的なマントを見て、彼が我々ポケモントレーナーの頂点に君臨する現役チャンピオンであるということは、きっと誰もが気がつくことであったに違いない。
しかしながら、その彼は自身をチャンピオンという頂点の肩書きではなく、いちトレーナーであると称した。つまりは、彼にとってこの仕事はチャンピオンであるということとは無関係で、言うなれば趣味のようなもの、なのかもしれない。名実ともに強者である人は、やることも大きいんだなと妙に納得したのを覚えている。
そんな彼から、こうして待機命令を出され、道中に置いていかれることは存外よくあることだった。そういう戦略もないことはないので一応納得はしているものの、つまらないなと思ってしまうのも仕方のないことで。要所で待機させられるならば、少しは役に立てているなと思えるのだが、ひどい時には入り口で待機命令を出されることもあった。
これが個人行動できないバディ任務の特徴で、どの時も実力が上の者の指示を聞かないといけないという暗黙のルール。リーダーはあくまで実力者、という世界なのだ。分かりやすいといえば分かりやすい。だけど、軋轢を生みがちといえばそれも否定できない。難儀なものだ。
けれど、実力主義がはっきりしている組織は、軋轢があれどシンプルに統率が取れるので好きだった。文句があれば力でねじ伏せればいいのだから。まあ、そう簡単にできることではないけれども。
つまり私がいくら待機がつまらないからと言って、指示した側に物申すのはあり得ないことだった。トレーナーの頂点に君臨する人に指図をする人なんて、それこそポケモンGメン本部のお偉方だってできるかどうか分からない。非常に理解が遅い人か、脳直で動くような人なら分からないが、そういう人はそもそもこの仕事に任命されていないと思われるので、以下割愛。
話はアラームが鳴る前に遡る。
今回のリーダーである彼の指示する内容を片っ端から頭に叩き込んで、それから私は素直に頷いた。相変わらず隙がなくて容赦がない指示は、自身を顧みないようなもので、到底心から賛成できるようなものではなかったけれど、それでも確かに筋の通った良案ではあったので、文句は言わずに首を縦に振る。きみは要領が良くて助かるよと言われるけれど、別にそんなことはなかった。多分、そもそもの説明が上手だから、理解しやすいだけで。
ただどうしても、今回ばかりは言ってしまいたいことはあった。自身を顧みない良案は今に始まった事ではないが、まあこの際だから言ってしまおうとそっと手を挙げる。この場には私と、そんな私を穏やかに見守るバディしかいないけれど、念のため質問する権利を得ておく。
「指示内容に文句はないですが、ひとつだけ」
「きみが何かを言うなんて珍しいね。なんだい?」
ニコリとした穏やかな微笑みが、私に続きを促す。優しい声色なのに、どこかゾッとする色も孕んでいるような気がした。
「無茶だけは控えてください」
「……ほう」
「ワタルさん、すぐに無茶をするので」
なかなかに失礼なことを言っている自覚はあったものの、これがポケモンGメンの暗黙のルールに抵触するとも思わなかったので素直に提言してみる。案の定、というよりワタルさんだからこそなのか、返ってきたのは穏やかな声で。
顎に手を当てて、きみも結構言うんだねといった表情だろうか。ワタルさんが表情を崩したところを見たことがないので、全部想像でしかないけれども。
「きみに心配されていたとはね」
「……すみません。口が過ぎました」
「いや、構わないよ。そう言われるのはなんだか新鮮で面白い」
「面白いことは言ってないです」
「ははは!」
声をあげて笑うワタルさんは見たことがあっただろうか。前回も、そして前々回も、潜入し解決に導いた事件は総じて気持ちの良いものではなく、ワタルさんも厳しい顔をして連行されていく組織のすがたを見ていたように思う。そう考えると、こちらも新鮮な気持ちだった。目を細めて笑う姿は、なるほど人望の厚いチャンピオンと言われるわけだと、ひどく納得できるものだった。
「うん。これ以上きみに心配をかけるわけにはいかないね。多少の考慮はしよう」
どこか本気に聞こえない言葉に、ムッとして咎めるような口調で言い募る。
「ワタルさんの多少の規模、絶対に多少じゃないって知ってますからね」
「手厳しいな」
クツクツと、笑い声を堪えるようにして喉の奥で笑うワタルさんの姿に思わず眉をひそめた。笑い飛ばされたのが不満というわけではなかったが、ただ私の提言は聞き入れられていないような気がした。
この人はきっとまた無茶をする。それがこの人のやり方であると言われてしまえばそれまでなのだが、そこまでして悪を成敗するという気持ちが、私には少し恐ろしくもあった。
いつの日か、誰かが言っていた。『あの人は誰かを助けるためなら、悪にだってなれる男よ。もっとも、本人はそれを悪だとは思わないだろうけれど』それが他人へ向けた悪なのか、自分の命を削っていく悪なのか。ふんわりしたことしか分からないけれど、少なくとも長生きできなさそうな生き方をしているなとは思う。なんだかんだで、長生きしていそうな気もするが。
チラリとワタルさんを見た時、そのグレーの瞳と視線がぶつかった。いつから私を見ていたのだろうか。じっと私を見つめていた視線が、どこか楽しげにゆっくりと細められた。
「きみと一緒に、生きて帰らないといけないからね」
どこか甘く囁くような言葉にも聞こえるそれは、ただの甘言ではないと察する。いや万が一にも甘い言葉だったら申し訳ないけれど、私にはそれがただの囁きではないという確信があった。悪いことをしているつもりはないが、私は後ろめたさで思わず視線を逸らしてしまった。
私がセキエイ高原の事務方と連絡を取って、ポケモンGメンでもあり、同時にチャンピオンでもあるワタルさんの安否を定期的にご報告申し上げていることを、暗に指摘しているのだろう。
チャンピオンという肩書きを放り投げてまでこの仕事に熱中しているワタルさんのことだから、そういった組織に束縛されるようなことはきっと望まないはずで、そんなワタルさんに、第三者から定期報告してもらっているなどと、セキエイ高原の事務方が白状するわけもなく。そんな状況の手前、報告を行っていることなどもちろん本人に言えるわけはないが、鼻が効きすぎるワタルさんには全てお見通しのように思えた。
ちなみに、そのお役目がどうして私に回ってきたのかは未だ不明のままなので、いっそのことその辺りも嗅ぎつけてほしいと思わないでもない。
ワタルさんが手持ち品を確認しながら立ち上がるのを、しゃがんだまま見上げる。マントがひらりと私の頭を掠めて、くすぐったかった。
「予定時刻から数分経ってもおれが戻らなければ、きみの判断で突入してくれ」
「突入前に連絡入れた方がいいですか?」
「いや。必要ない。その連絡にも応えられるか分からないしね」
「了解です」
ポケギアに予定時刻を入力し、アラームをセットする。別にそこまで厳密じゃなくてもいいとは言われているものの、さすがに感覚で時間が分かるほど玄人でもないので、こういうのはやっておくに越したことはない、というのが私の持論だ。
ポチポチと入力を終えた私が顔を上げるのを見て、隣でストレッチをしていたワタルさんが小さく「よし」と呟いた。
「何かあったら連絡してくれるかい。ツーコールで出なければ察してくれると助かるよ」
「よっぽど連絡はしないので大丈夫です」
「おれのバディは頼もしくて助かるよ」
幸運を祈るよと言って微笑んだワタルさんが、颯爽と廊下を走っていく。マントがひらりひらりと揺れる後ろ姿を見て、私は心の隅でやっぱり待機は暇なんだよなあと、叱られかねないことを考えるのだった。
先に突入していったワタルさんからの音沙汰もなく、そして自分に降りかかってきた事案も特になく、待機中に鳴ったアラームを止めてから数分後、私は敵アジトの廊下をゆっくりと進んでいた。
誰ともすれ違わない、やけに静かな廊下はひどく不気味に思えた。歩いていて思ったけれど、やはりこのアジトはどこかおかしい気がする。人とすれ違わないのは、人が常駐していない施設という可能性もあり得るので、まあ納得はできる。とはいっても、事前調査で間違いなく常駐していると割れているので、そもそも人がいないこと自体おかしくはあるけども。可能性としては無きにしも非ず、と言ったところだろうか。
そしてそういった人間の常駐していない施設は、よっぽど何かしらのポケモンがいて、施設内をうろついたり要所要所で待ち構えたりしているものだが、どうやらこの施設にはそういった類のものがないようにみえた。しかも全くもって誰もいないならば、施設そのものがある程度寂れていたりするものだが、そうでもない。現に、先ほどお邪魔した部屋は仮眠室だったのか、いくつかのベッドと脱ぎ散らかしたような服もあって、これが単独任務だったら変装できたかもしれないと思うほどには衣装が完備されている状態だった。
そういう状況には覚えがある。昔、潜入していた最中のアジトに第三者の介入があり、問答無用で施設にいる全員が召集されたことがあった。確かそのときも、仮眠室で寝ていた人も全員例外なくかき集められていた気がする。ということは、つまり。
つまりこれは、何かがあって私以外の人間やポケモンが全員どこかに集められている、ということだろうか。
廊下を走っていったマント姿が頭をよぎる。ニコリと浮かべられた優しい穏やかな笑顔に、一瞬ぞくりとしたものを感じたことを思い出す。彼がそんな雰囲気を醸し出すのを、私は見たことがあった。確かに、あった。
かつてGメンの仕事において、連行されていく巨大組織の上層部にいた人間、諸悪の根源だと言われていた元締めとされる犯人が連行されてくとき、彼は引き渡した警察に対して笑顔で言っていた。いや、吐き捨てていた、のかもしれない。
『彼のような人間が、二度と過ちを犯さないような世界にしたいものですね』
その時には、そんな理想郷のような世界が訪れることはあるのだろうかと、くたびれた身体でぼんやりと考えていたけれど、もし彼が、あの人が、それを本当に叶えようとしているのならば。理想郷のような世界にするために、己の命も顧みず、己の正義を貫き通し、悪を打ち倒すという気概で生きているとしたら。
「嫌な予感がする……しかも、ものすごく」
あのワタルさんなら暴走しないだろうという楽観視はとうにできなくなっていて、ゆっくりと歩みを進めていた足が自然と早足になる。とはいえ、ワタルさんがやられるとも思っていない私がただ一つ懸念を抱くとすれば、それは相手側の方に対してのことで、こちらから見れば悪と判断される側への懸念、ざっくりいえば心配とも取れるものだった。
はてさて、この感情をワタルさんに伝えたら一体どんな顔をされてしまうだろうか。貼り付けた笑顔を向けられる? それとも無表情で見下ろされる? どれも恐すぎるので、絶対に伝えることはないだろうけれど。
これは私が鈍感だからというわけではないと信じたいが、今更ながら思い返せば、ワタルさんが私を置いてひとりで突入するときに、約束の時間を守って私の元まで戻ってきたことは片手で数えるほどしか無かった。思わずそのワタルさんが私をないがしろにするんです説を同僚にしたとき、自分が組んだときにはちゃんと定刻通りに戻ってきているという話を聞いて、普通に驚いたことも続けて思い出して頭が痛くなる。しかも、何人かの同僚にそれとなく話を聞いてみても、あの人が約束を破ることがあるか? なんて笑うばかりで。
つまりは、なぜかワタルさんは私と組むときだけ約束の時間を破ってくる、ということだ。今まで一度もそんな話を聞いたことがなかったので、それが信頼の証なのか、それをも逆に信頼されていないかは不明の一言に尽きるが、少なくとも私と組んだときは暴走しがち、ということだと思われる。リーグへの当てつけかとも思ったけれど、ワタルさんみたいな聖人君子で品行方正を具現化したような人がそんな狭量なことをするはずはない、とは思う。まあ、悪に対して静かに暴走するようではあるが。予測の域は超えていないが、一応現在進行形で。
自然と早足が駆け足になってきたとき、どこからともなく鈍い音が聞こえたような気がした。どこから聞こえてきたのか、咄嗟に耳をすませる。私としたことが、潜入捜査だということも忘れかけて、潜入捜査の基本である足音を消すことすらしていなかったらしい。思いっきり走ってきたせいで微かな音がうまく聞き取れなかったなんて、後でなんと言われるか。
いけない、落ち着かないと、と一呼吸置いてから、ゆっくり探るように足を進める。走ってきたせいで乱れてしまった息を整えながら、今まで微塵も感じなかった何かの気配を辿るようにして薄暗い廊下を進んでいけば。
「うわあ……ひどい有様」
廊下の角を曲がった瞬間に目前に現れた光景に息を呑んだ。血みどろとか、身体がバラバラとか、そんな凄惨な状況ではなかったものの、少なくともこの場から逃げ出す力が残っている人は一見したところいなさそうだった。
どこもかしこも、倒れ込んだ人やうずくまる人、それから呻き声をあげる人でいっぱいのある意味地獄絵図。長い廊下の中心だけ開けているのが、これまた不気味で、情け容赦がないというか、災い過ぎ去ったあとというか。
見たところ、したっぱのような人たちしかいないけれど、幹部や支部長やら、いつまで経っても姿を現さないワタルさんも含め、他の人たちはもっと奥深くの部屋にいるのだろうか。それに、本来ならば彼らが持っているはずのポケモンたちがモンスターボールごといなくなっていることも気にかかる。想像以上に大暴れをした形跡に引き気味の私が、呻き倒れ込む彼らに同情しながらも、廊下の中心が開けた道を進んでいけば。
「お前……さっきの、マント男の、仲間かっ」
不意に後ろから聞こえてきた声に、咄嗟にその場で身構える。ゼエゼエと喘ぐような呼吸をしているのは、呼吸器官を攻撃されてしまったか、それとも頭を強く打ち付けてしまい昏倒していたからか。どちらにせよ、この道を直前に通った、つまりこの地獄絵図を作り出した張本人が容赦の欠片もなく彼らを吹っ飛ばしていったことは明らかで、少しだけ同情してしまった。
彼らのように自分達のやることに対して誇りを持っている人たちにとっては、同情など侮辱と同じで到底許せるものではないと分かっているので、無論口にはしないけれど。
振り返って相手の情報を把握しないといけないのに、動けない。否、動くことができない。これだけ狭い場所で間合いも取りきれていないのに、安易に振り返って刃物でサクッとやられてしまう可能性もゼロではなく、さすがにそんな最期なんてたまったものじゃない。
「待って、私は丸腰だから」
私は彼と違って加減のできない抵抗はしないという意味も込めて、両手を挙げながら無防備をアピールしてみる。後ろから声をかけてきた姿を未だ把握していないので、同時に振り返ろうと足を一歩引けば、したっぱと思われる男は声を荒らげた。
「うるさい! 動くな!」
どうやら聞き入れる気がなさそうな声は男性のもので、これが女性なら力勝負でなんとかなったかもしれないと心の中で項垂れる。残念ながら生まれ持った体格差はなんともならないので、仕方がなく目くらまし程度の閃光弾を取り出そうと腰の鞄に手を入れる。弁明させてもらうと、攻撃的な武器は持っていないので、これも一応丸腰に該当すると思う。逃走用なので。野生のポケモンに対するピッピにんぎょうと同じものなので。
しかしながら、腰に引っ掛けていた鞄に手を突っ込むわけなので、やっぱりというか案の定とというか、怪しげな動きをする私に向かって後ろからそれ以上は命がないと叫ばれた。その度にむせ返る彼がどうにも不憫でなんとかしてやりたいと思うのに、叫ぶしたっぱの彼は、私が後ろを振り返ることも許してはくれない。
さてどうしたものかと考えているうちに、カチャリと金属のようなものが地面に触れる音がした。いや、これは状況的に、落ちている金属を拾ったといったほうが正しいか。道具か武器か、はたまた刃物のような凶器か。相手も丸腰同然だったということに、もっと早く気づけていれば。今更そんなことを考えても遅いかと、一呼吸置いてから口を開く。一か八か、かまをかけてみることにした。
「……刃物は人に向けて使うものじゃないよ」
「説教するな! いきなり乗り込んで、きやがって!」
「マントの人は確かにやり過ぎたと思う。私からも言っておくから」
最悪の話になってしまうけど、道具も武器も刃物も、あたりどころが悪くなければ命は落とさずに済むので、少しくらいなら無茶をしたって大丈夫という魂胆で言ってみたけれど。人に無茶をするなと言っておきながら、自分もなかなかに大博打うちだなとちょっとだけ笑ってしまう。きっとワタルさんが聞いていたら、人のことを言っている立場かい、なんて言われてしまいそうだ。もちろんワタルさんの無謀さには負けるけれど。
いや、そもそも笑ってる場合なんかじゃない。両手を挙げたまま、俯いていた顔をあげる。一瞬の金属音は聞き逃さなかった。
「その刃物は置いて、話し合いをしよう」
「話し合い? 急に仕掛けてきたのはそっちだろうが!」
ぐうの音も出ない。急に仕掛けてきたのは間違いなく先んじてこのアジトに乗り込んだワタルさんだし、満身創痍の彼がそれを物語っている。思わず謝りそうになって、ぐっと堪える。
「そんなことを言い出したら、ポケモンたちを乱獲して悪さをしようとしたのだって、貴方たちが最初でしょう」
「ぐっ」
ぐうの音が出た。ここで図星を指しても良いことは決してないのだけれど、思わず口にした言葉は結構な勢いで彼に刺さったらしい。しばらく無言が続いてから、次に聞こえた声はうるせえという声と、持っている金属でコンクリート製の壁をガツンと殴りつける音で。
しまったな、刺激してしまったなと自分の迂闊さに眉を寄せながら、後ろの気配と音を探ってみる。頭に血が上っているのか、図星を指されて動揺しているのか、彼の醸し出す気配はやけに揺れていてなんとも掴みにくい。
結局、私に怒鳴り散らす声の主を視界に入れることはできなくて、心もとないけれど全ては音が頼りという状態になってしまった。自分のいる場所も、それから相手がいる場所も、相手の刃物がどんな形状のもので、どの方向から攻撃を繰り出してくるかまで、音だけで把握しなければならない。
しかしながら、ある意味今回はラッキーでもあった。私は比較的壁側にいて、そしてほとんどの雑音は例のマントの人のお陰で消えている。まあ、おかげさまで呻く声は多々聞こえることにはなってしまったけれど。相手の武器も、かまをかけたのが功を奏して、刃物だということまでわかった。いやはや、ポケモン勝負が基本的なバトル方式のこの時代において、一体どこからそんな凶器を取り出したのか。
「お前らみたいな、奴らが」
「……?」
「一番、邪魔、なんだよおっ!!」
「!」
気配が揺れて、彼の感情も大きく揺れて。大声を上げたかと思ったら、同時に足を踏み込む音が聞こえてきた。風を切る音がスローモーションのようにゆっくりと聞こえてきて、彼がとうとう刃物片手に襲いかかってきたことを察する。こうなってしまうことは避けたかったけれど、起きてしまったものは仕方がない。
じっと耳を澄ませて音のみで間合いを確認して、ここだというタイミングで足に力を込める。ぐっと身を引いたら、風を切りながら刃物が目の前を通りすぎていった。ベストタイミングだったなと思わず口角が上がるも、時差のようにやってきた頬に感じるチリッとした痛みは、全くもってベストタイミングなんかじゃなく。スン、と真顔になってから、目の前を通り過ぎていく男の腕をガシリと掴んだ。
刃物のサイズを見誤ったのは誤差の範疇なので、頬を少しだけ切られたくらいではどうってことはない。刃先に毒でも塗り込まれていなければ、だけど。このくらいの傷は、別にポケモンGメンをやっていなくても付くことはある。ただ、かすり傷程度でも痛むものは痛むので、腹が立たないわけもなく。
「痛いでしょうがあ!」
「う、グッ!」
掴んだ男の腕には思った通り刃物が握られていて、そしてその大きさは思った通りをゆうに超えていた。つまり、想定していたよりもリーチが長い。そりゃあ私の頬もさっくりやられるわけだと、眉をひそめて握力でその腕を締め上げた。男は呻き声を上げながら刃物を取りこぼす。私はその落ちた刃物を、ぐっと足の裏で踏みつけた。蹴飛ばしたって良かったけれど、蹴飛ばした先のしたっぱ二号が刃物を拾って起き上がらないという確証もない。
男女の力の差があろうとも、ピンポイントで力を込めれば刃物を落とすことだって造作もなく、そして勢いよく利き腕で彼の鳩尾に一発食らわせることも、不意を突いたり既に幾分かのダメージを食らわせていれば、さほど難しくはないことだった。
どっかりと地面に伏せる男を横目に、鳩尾を殴りつけた手を握ったり開いたりして動作確認をする。どうやらあの状況でもうまくやれていたらしく、まだまだアジトの先はあるので痛みがほとんど無いことは何よりだった。倒れた男に先ほどまでの威勢はすっかりなく、呻き声すら聞こえないところをみるに、多分失神していると思われる。落ちていた刃物を拾い上げて、腰のバッグにしまい込んだ。何かがあっては遅いので、これは私が回収させていただきます。
「うう、地味に痛い……」
ヒリヒリと痛む頬の傷は、想像以上にざっくりやられているのかもしれない。鏡の一つや二つ持ってくるんだったなあと肩を落としながら歩みを進める私の耳に、またひとつ、鈍い音が聞こえた。
男と対峙する直前に聞いた音。しかも先ほどよりも強く、重い音。
頬が痛いという考えでいっぱいだった頭が瞬時に切り替わる。足音を立てないように、だけど素早く、アジトのさらに奥へ奥へを足を踏み入れていく。辿り着いたのは最奥の部屋だろうか。薄暗い廊下の突き当たりにある部屋は、廊下以上に薄暗く、そして機械かなにかの怪しげな光だけがぼんやりと中にいる人物を照らしていた。ボソボソと会話のような声が聞こえてきて、それから聞こえてきた低い声。見えてきた朱色の髪は、私に微笑みかけてくれた人で、だけどその口から発せられた声は、私が聞いたことのないくらいに低く、恐ろしい声で。
「時間切れだ」
なんの時間ですか、なんて気軽に聞ける雰囲気じゃなかった。奥に奥にと踏み込もうとした足が、これ以上は駄目だと寸前で止まる。低く地を這うような声が、問い詰める前に断罪するような言葉が、あの穏やかで優しく微笑むワタルさんから発せられているなど、想像すらつかなかった。しかし踏み込んでしまった部屋の奥、見えた横顔は全くの無表情で、ぐったりした幹部らしき男性に詰め寄った手は心なしか震えているようにも見えて。
ワタルさんが静かに怒っている。いつも穏やかで、ピンチの時だって楽しそうに笑う人が。
感情的になって大声で怒鳴りつけたりしていようものなら、ちょっとやりすぎですよと声をかけられたかもしれない。大きくて何でもできてしまいそうな力強いその手が、人間の服を掴むのではなく、傷付いたポケモンを優しく撫でる手だったのなら、持っているキズぐすりを全部押し付けて、これを使ってくださいと駆け寄ることだってできたのかもしれない、のに。
ワタルさんの佇む部屋は薄暗く、埃くさい。あまり使われていないこの最奥の部屋まで追い詰めて、胸ぐらを掴んで、ぐったりしたその男に、貴方は一体何を。
「やあ。来てくれて助かる」
「……っ」
「おれのバディはやっぱり頼もしいな」
無表情な横顔が、男の身体を壁に預けさせる。身体の力は抜けていたようだけれど、ワタルさんは乱暴に扱うことなく、ひどく優しい手つきでその男を横たえさせた。声色と雰囲気と手つきがどうにもチグハグで、見ているこっちが混乱する。ワタルさんの真意が掴めない。元々、必要以上に自分に関して話す人ではなかったけれど、それがなおさら、不気味にすら思えてくる。
男のくぐもった呻き声がここまで聞こえてくるのに、ワタルさんはそんな彼に見向きもせず、私に向かってニコリと微笑んだ。来てくれて嬉しいと、全員を完膚なきまでに叩きのめして作った自分の道を私に辿らせておいて、やっぱり頼もしいと、何もしていない、何もできなかった私に対して称賛の言葉を述べながら。
この人は恐ろしい人だ。そう思うには十分すぎる要素と時間があった。細められていた目が開かれて、ゆっくりと私を見据える。まっすぐすぎるほどに輝いていたグレーの瞳はどこかくすんでいて、見つめられている無言の間に、私がこの仕事を自身と共にできる存在かどうか、見定められているようだと思った。
ワタルさんの瞳が、ふと私の頬で止まる。すう、と細められた目に、背筋が凍りついた。私が何かをしたわけではない。厳密に言うとされた方なのだけれど、ワタルさんに見つめられると、後ろめたいことをしたわけではないのに後ろめたいような、どうにも居心地が悪い気分になる。
思わず視線を逸らした私の視界の隅に、大きな肌色が映った。それがワタルさんの手だと分かった瞬間、ワタルさんがそんなことをするはずがないと分かっているのに、なぜか殴られるような気がして、私は大袈裟なくらいびくりと肩を揺らしてしまった。
伸ばされたワタルさんの手が、ためらうように一瞬止まる。それから、伸ばされた手とは反対側の手のひらが、ゆっくりと私の頬を撫でた。
「……痛むかい?」
「す、こしだけ。でももう平気、です」
「そうか」
くすんだグレーが伏せられる。ニコリと目が細められて、見上げる私の頬を今度はその手の甲が撫でた。まるでポケモンにでもなったかのようだと、どこか他人事のように考えてしまう。私に触れる熱は、ワタルさんのものなのに。
「きみのことだ。その男に然るべき罰は与えたんだろう?」
「ええと……鳩尾にゴツンと一発」
「ははは! 強い子だなあ!」
そこまで朗らかに笑われてしまうと毒気を抜かれるというか、あのしたっぱの彼に抱いていたほんの少しの罪悪感すら流されてしまうというか。肩を揺らしながら笑うワタルさんの横で苦笑いをこぼす。私の頬に向けられていた視線が、全くもって不穏なことに気がつかずに。
「万が一きみの顔に傷跡が残るようなことになれば、おれはその彼を許してあげられそうにないけどね」
「……恐れ入ります」
朗らかに笑っていたのはどこへやら、目を細めながらこぼした言葉はなんとも不穏で、私は当たり障りのない言葉で場を濁すことしかできなかった。ましてや、今頃地面とごっつんこしているであろう名も知らぬ彼の心配など。
ワタルさんの悪に対する並々ならぬ意思はきっと誰よりも強くて、そして誰よりもその意思を貫くことができる人であると思う。それは彼の強靭な精神力はもとより、トレーナーの頂点としての実力を兼ね揃えているからこそで、このポケモンGメンという仕事をチャンピオンとして行える力を持ちながらも、あえていちトレーナーとしての立場で行っていることからもそれは伺える。ある意味、趣味活動の一環、なのかもしれない。完全に常識から逸脱していると思うけれども。
コツリ、コツリと私から離れていくワタルさんのブーツの音が薄暗く広い部屋に響く。普段は重く聞こえるその靴音が心なしか軽く聞こえるのは、悪をやっつけたことによって、ワタルさんの気持ちが幾分か晴れたからだろうか。それならそれでこれ以上ワタルさんを恐がらなくて済むから助かるんだけどと、私も一歩部屋へ足を踏み入れたら。
ワタルさんが音もなく、指先を私の入ってきた入り口横に向けた。なんだろうと、つられて視線を指先の指す方に向ける。
山積みになったモンスターボールが、ころりと転がった。
「こ、れは」
「彼らが他の人たちから奪ったポケモンの数々と、それからおれがカイリューに指示を出して戦闘不能にした彼らのポケモンたちがいる」
「!」
声は淡々としていた。その瞳には煮えたぎる何かが見えるのに。
「きみは、おれを非道い男だと思うかい」
懇願するような瞳に見えたと言ったら、侮辱になるだろうか。普段からこわいものなど何もないというようなワタルさんの、まるで否定して欲しがるような視線に、私に縋るような声に、ひどく心がざわついた。優しいけれど、どこまでも恐ろしい人だと思っていたのに、その考えすらも滲んでぼやけていく。なーんだ、普通にいい人だったじゃないか、の言葉で片付けられない何かを突きつけられたような感覚。私だけでも味方でいなくてはいけない。おこがましいけれど、そう思わされた。
「そんな風には思いません。ただ……」
「……ただ?」
顎に手を当て、首を傾げるワタルさんに向かってすう、と息を吸う。
「無茶だなとは思います。生き急いでるなって思います」
思わず口に出していた。私だけは味方でいなければならないとも思ったし、ただの恐い人だけじゃあないなと思ったことにも間違いはないけれど、やっぱりどうしてもこのワタルさんって人はどこか生き急いでいて、毎回毎回無茶をする人だということに変わりはなかった。
結局今回も、無茶はしないようにとリーグからのお言葉も重ねて言ったのだけれど、こうしてひとりで敵陣に突撃して、全部蹴散らしてしまったのだから、忠告は残念ながら無為に終わったというわけで。
眉を寄せた私がワタルさんを睨みつける。ワタルさんは一呼吸置いてから、吹き出すようにして笑った。あっはっはと、楽しそうな声が薄暗い部屋に響く。周りには蹴散らされ転がされ呻く幹部たちが倒れているというのに、全く気にする様子もなくからりと明るく笑うマント姿に、なんだか状況が狂ってるなと頭をかいた。
「きみに心配をかけないと言ったのはおれなのに。心配させてしまったか」
「心配というより、引きました」
「引いた?」
「どうするんですか、この人たち。警察でも手に負えませんよ」
「そうだね……そこまでは考えてなかったな」
「ええ?!」
「はは、悪いことをしたね」
まるで子供に言い聞かせるような口ぶりで、爽やかに笑い飛ばすワタルさん。先ほどまで薄暗い奥底の部屋で見せていた無表情が、地を這うような低く冷たい声が、まるで嘘だったかのように思う。だけどこうして足元で倒れている人や廊下でうずくまる人たちは、間違いなくワタルさんが正義の鉄槌を下した人たちで、その方法に関しては、誰かに尋ねられようとも聞かぬ存ぜぬを貫き通すつもりでいる。
いつの間にかワタルさんの相棒のカイリューはその姿を消していた。カイリューなら、何度か聞こえてきた鈍い音を立てることなく、ことごとく粉砕してくれるように思うので、消去法というか真実は一つだけというか。
ゾッとしながら倒れている幹部の様子を遠目で伺う私の前に、ワタルさんが視界を遮るようにして音もなく立つ。ふわりと揺れたマントの端が視界の隅に見えて、そのマントの端が少しほつれているところまで見えた。本来なら、潜入捜査はこのくらい足音を消さないといけないんだと、目の前のお手本に感心しながら、ついでにマントほつれてますよの一言くらい伝えておこうかとその顔を見上げれば。
「でも、悪さをする人間に、ポケモンに危害を加える人間に、慈悲は必要ないと……そうは思わないかい」
低い声。だけど私の髪に触れる手は壊れものを扱うかのように優しくて、思わずごくりと息を呑む。問いかけられているということは分かったものの、安易に頷くわけにもいかなかった。
どうやらご機嫌なように見えて、その実ワタルさんは未だ随分とお怒り申し上げているらしい。私が答えた安易な回答にワタルさんが激怒しない確信なんてなく、それならば何も言わないに越したことはない。ワタルさん相手ではないけれどこれは経験則で、口を滑らせて何かを言って、それがワタルさんの聞いたことも見たこともない深い深い地雷に触れてしまったらと考えると、ゾッとするだけでは済まないくらいに、あとが恐い。ただでさえ、何かをしてしまったあとのワタルさんと、現に一緒にいるのだから。
触らぬワタルさんに祟りなし。私は無言で鞄から拘束用のロープを引っ張り出すと、束になったそれを無言で差し出した。ワタルさんが何も言わずにロープを受け取る。そのとき伸ばされた手に、血が滲むくらいの擦り傷と打撲痕を見つけてしまい、私は思わず眉をひそめた。触れてはいけなかった正義の鉄槌の方法を察してしまった私は、頭を抱えたい気持ちをぐっと我慢して、小さな声で呟くのだった。
「もし痛むのなら、言ってください。ある程度の処置は、出来ますので」
「……助かるよ」
ニコリとワタルさんが微笑む気配がする。だけど私は、その顔を、その己が正しいと信じて正義を全うしようとする姿を、まともに見ることができなかった。