彼女は海が好きだと昔からよく口にしていた。海が好きだから、カントーからこちらにやって来たと。海が好きだから、海と一緒に暮らすこのルネの街に住んでいると。その言葉の数々が嘘だと思ったことはない。けれど、その言葉に対して『それはルネでなくてもいいのでは?』と思ったことは何度もあった。
海が好きだからとはいえ、無論カントーにも海はある。ここルネシティじゃなくても、例えばトクサネシティだって、キナギタウンやムロタウンだっていいはずだ。どちらも海に囲まれて、島となっている地形で……どちらかというとルネは、周りを囲まれているからあまり海という実感はないのではないか。
どれも全部、訊ねてみたい気もしたけれど、口にすることは出来なかった。
「またここにいたのかい?」
「……ミクリ」
「絶壁から海を見下ろすことが好きなのは分かったけれど、いつか落ちてしまうよ」
「落ちないよぉ」
今日も変わらず、同じ場所で海を見下ろす彼女に声をかける。彼女は断崖絶壁ともいえるルネの白い岩場から足をプラプラとさせて、穏やかな海を見下ろしていた。
こんなところまでどうやって、という質問はもう野暮だろう。彼女は毎日毎日、どこからともなくここに現れる。さっきまで買い物をしていたのに、と思った次のときにはこの絶壁の上で座っていたりするし、時々珍しく別の場所で海を眺めていることもあった。もちろん彼女の家も確かに存在するものの、果たして帰っている場面を見たことがある人がいるのかどうか。
それゆえ、彼女を知る人たちは、彼女のことを冗談交じりに『人魚』と称していた。侮蔑の意味などない、純粋に不思議な子に対しての海と共存する町での微笑ましい呼称。だけどわたしには、昔からその呼び名がどこか不安で仕方がなかった。
「……きみは、」
「?」
きみは本当に人魚なのかい? 聞けるわけもない言葉を飲み込んで、わたしはなんでもないと静かに頭を振った。
きみがもし本当に人魚なら、ここにいることにも理由があって、たとえばそれが叶ったとしたら、もうここには来なくなってしまうのか。神出鬼没な理由を訊ねたら、知られたくない部分を知られてしまったと言って、突然わたしの前から消えてしまうのか。そんな気持ちばかりが浮かんでは、消えていく。
彼女を見るたびに、胸が締め付けられる。海を見ているようで、その向こうを見ているような瞳でわたしだけを見つめてくれたら。そう思うようになったのは、果たしていつからだったか。手放したくないと、聞きたいことも聞けずに傍に居続ける憐れなわたしになってしまったのは、果たして。
「……もし、仮にきみがここから去らねばならなくなったとして、きみはそれを誰かに伝えてから去るかい?」
「? そんなことしないと思うけど……」
「仮に、だよ」
「うーん、仮にか……」
仮定の話に逃げてしまったくせに、彼女の断言しない口調に心を痛めている自身がいて情けない。そんなことしないよ、とでも言ってくれたら少しは心が軽くなったかもしれないのにと、彼女に八つ当たりもしたくなる。本当に、小さい男だとつくづく思わされる。
彼女にバレないように小さくため息をついて、絶壁から足を放り出す彼女の隣に座る。不思議そうに首を傾げる彼女の手を取って、その答えを聞く前に自分の胸へと押し付けた。
「きみがもし、どこか遠くに行こうというのなら……黙ってここを去ろうというのなら、」
彼女がきょとんとした表情でわたしを見つめる。握りしめた手は小さくて、細くて、まるで白魚のよう。掴んだ手を引き寄せたら、華奢な彼女の身体はぐらりとこちら側に傾いた。それをしっかりと抱き留めて、彼女の瞳を覗き込む。
「わたしをここから連れ去ってくれ。きみの望むところなら、わたしはどこへだって付いていくよ」
相変わらず彼女はきょとんとしたままだったけれど、そのうち何かに気が付いたかのようにゆるりと微笑んだ。空いている方の手が、わたしの頬を滑る。「ミクリ、」彼女のさくら色の唇が、わたしの名前を呼んだ。
「大丈夫だよ。私はミクリを置いていったりしないから」
なにが、大丈夫なものか。思わず彼女を強く抱きしめた。腕に力をこめたって、何度きみの名前を呼んだって、きみの瞳は、目の前にいるボクを見ていないじゃないか。