「真夜中」

 見たい映画があったからと、いつもより少し夜更かしをした夜。普段よりも遅いお風呂に入って、湿った髪を乾かしているときにその人はやってきた。真夜中と言ってもいい時間帯に差し掛かろうとしているタイミングでの訪問は珍しいことで、出ようかどうか悩んだのはここだけの話。
 彼はいつもと同じような人の良い笑みを浮かべて、私の部屋の玄関口で軽く手を上げる。「やあ、こんばんは」の爽やかな声に、私は髪を拭いていたタオルを肩にかけて「えっ……こんばんは」と間の抜けた声を出した。とりあえず驚いたというのが素直な感想で、別に時間も時間だから帰れなんて無下にするつもりはない。無論、大歓迎できるような時間でもないけれども。
 突然の訪問に呆けている私をよそに、彼……もといワタルさんは優しく微笑むと、扉を押し開けるためにドアノブにかけていた私の手に、その大きな手を重ねた。見上げたら、少しだけ眉を下げたワタルさんが私を胸に押し付けながら、後ろ手でドアノブを引く。がちゃり、という音以外の物音がしない部屋で、私のパジャマとワタルさんのユニフォームの布ずれの音だけが響いた。

「あの……どうしたんですか?」
「ん?」
「訪問がその……だいぶ急、だったので」
「うん……きみの顔が見たくなってね」

 嘘か真か、ワタルさんは穏やかな声でそんなことを言う。ワタルさんが嘘をつくとは思わないけど、何かしらを隠していることは容易に想像がついた。でなければ私のところに、こんな時間に来るものか。日付はとうに変わっているというのに。
 私を抱き寄せるために背中に回された腕に力がこもる。ぬくもりを分け合うように、お互いの心音を共有するように、ぎゅうっと抱き締められた。玄関口で、とは思わないでもない。とりあえず、私もその広い背中に腕を回した。

「事情は分かりませんが……よしよし」
「はは、まるで子ども扱いだな」
「だってワタルさん、なんか寂しそうな顔をしてるから」
「……寂しそうか」

 私のなんてことない言葉に、ワタルさんは少しだけ考えるようなそぶりをみせる。だけど心配するような仕草は一切なく、またからりと笑ってから私の湿った髪を指先ですいた。濡れちゃうよ、なんていう私の言葉が届いたどうかはわからない。
 しばらく玄関口で抱き合ってから、ワタルさんはおもむろに身体を離すと、そっと私の頬に触れる。ゆっくりと目を閉じたら、待っていたかのように唇を重ねられる。少しして唇が離れたとき、ワタルさんは微笑みながら「提案なんだが、」と口を開いた。はて、ワタルさんから提案。

「提案?」
「きみさえよければ、一緒に暮らさないか?」
「……えっ」

 全くもって想定外な言葉に、驚きの声が低くなる。もちろん想定外ではあったけど、一緒に暮らすことが嬉しくないわけがなく、毎日毎日このかっこいい顔を見ることができるなんて最高だし、毎日毎日ワタルさんに甘やかされちゃったら人間生活保てるかななんて思いながらも幸せでいっぱいだろうし、いいことしかない。
 二言返事で頷きたいのに、驚きすぎて二の句が継げない私に、ワタルさんはノーの答えを想像したのか少しだけ眉を下げた。えっ、やだやだ、そんな寂しそうな顔をしないでほしい!

「暮らしたい! ワタルさんと一緒に住みたい!」
「……ふは、そうか」

 なんていうか、ものすごくシンプルかつ恥ずかしげもなく言葉を発してしまったように思う。ものすごく一緒に暮らしたい人みたいになってしまった……その実、同棲という甘美なものなのに。勢いで節操のない女みたいになってしまったのがものすごく恥ずかしい。ワタルさんが吹き出すようにして笑ってくれたのが唯一の救いなのかもしれない。
 あまりにも恥ずかしくて、上げていた顔を再びワタルさんの胸板に寄せる。ぶあつくて、温かくて、力強くて、誰よりも頼りになるその胸に擦り付ける。ワタルさんが笑った声がして、私の身体は再びその腕に包まれた。

「ありがとう。帰ったらきみが家にいる、そんな毎日を想像しなかったことはないよ」
「……そんな想像してたんですか。えっち」
「はは! うん、そうだね。おれはこう見えて結構欲深い男だよ。こときみに関しては、何もかもが欲しくて欲しくて仕方がない」
「うう……ストレートに気持ちぶつけてくる」
「きみもだろう? おれと住みたいと思ってくれて、ありがとう」

 その失言の件は忘れてくださいと言おうとして顔を上げたら、待っていたかのように唇を塞がれた。さっきよりも長くて、熱くて、だけど優しいキスは、いつもよりも幸せの味がしたような気がした。