あの猫が式典をめちゃくちゃにしたことで追い出されるのを見送ると、私だけでなく、他の新入生たちもどこか疲れた様子だった。
「さあ、オクタヴィネルの皆さん。先程の騒動は一度忘れて……今日は新入生歓迎式です! 料理もたくさんありますから、遠慮なく食べてください」
オクタヴィネル寮は海の魔女の慈悲の精神に基づく、というだけあって、鏡舎にある鏡を潜り抜ければそこは海の中、だった。とはいえ、私のような人間でも肺呼吸ができるのを見ると、一体どういう勝手になっているのかは疑問だ。寮、と呼ぶには豪華で、他の寮もそうなのだろうか。流石は名門ナイトレイブンカレッジといったところ。
海は好きだ。こうして海の中に入って海底の様子を窺う、なんて経験はもちろん人間の私が生きているうちにすることはなかった。ダイビングでもしていれば別だっただろうけれど。だからこうして、ポムフィオーレ寮が良かったとはいえオクタヴィネルに選ばれたことを後悔するほどではない。今私たちがいる談話室も、水槽があってランプも海底モチーフだし、まさに海の中にいるみたいでめちゃくちゃかわいい。テーマパークみたい。
なんとか入学式が終わると、鏡の間の扉近くで腕章とマジカルペンを受け取った。マジカルペンは名の通り、ペンにもなるし魔法を使うためのステッキのようにもなる、らしい。魔法はもちろんペンがなくとも使えるのだけれど、ブロットが直接溜まりにくいとかなんとかを目にしたことがある。
「申し遅れました。私はオクタヴィネル寮寮長、二年生のアズール・アーシェングロットと申します」
そうして名乗ってくれたのは、あの眼鏡の胡散臭いような寮長だった。それにしてもファミリーネームかっこいいな。二年生で寮長という座を獲得しているあたり、相当な力があると見受けられる。
それに続いていつの間にやら寮長の隣に立っていたのは、細くて背が高い人。寮長だって私みたいな女と比べてもだし、きっと一般の男子高校生のうちでも平均より高い、くらいの位置にはいるのだろうけれど、それとは比にならないくらい、背が高かった。
「僕はオクタヴィネル寮副寮長、ジェイド・リーチ。ぜひこの機会に親交を深められればと思います」
副寮長は、予期せぬアクシデントの影響もあり、オクタヴィネル寮の談話室までの誘導をしてくれたのだけれど、どうやら彼も物腰が柔らかそうで、丁寧な人らしい。長身と並んで特徴的なのは、金色のオッドアイとギザギザの鮫みたいな歯。
先に寮長が言ったように、テーブルには美味しそうな料理がたくさん並んでいる。料理人がついているわけでもなさそうなので、入学式の間に先輩たちが用意してくれたのだろうか。だとしたらすごい腕をお持ちみたいだ。
鏡の間から出る直前、声をかけられた。イレギュラーな魔法の使えない生徒に、暴れ回った猫。その次くらいにイレギュラーとはいえ、優先されるまでもないと思ったのだけれど。
『明日の放課後、学園長室に来てくれますか? 話があります』
考えるまでもなく、性別に関してだろう。今日は幸い誰からも顔を見られていないのか、それに関して言及されることはなかったのだけれど、隠し通すにしても時間の問題だ。遅かれ早かれ、寮生にはバレてしまうだろう。特に寮長や服寮長、頭が良さそうで勘も鋭そうだから。早ければ明日、もしかすると今日気がつかれてもおかしくない。男子校の中では特段浮いてしまう華奢な体つきと、髪と、骨格やら顔のパーツやら。男装や女装だとかコスプレとか、そういうのをする人だっているけれど、結局男女の差は大きいのだ。
はあ、とため息を零すと同時に、机の上に並べられた料理へと視線を移す。魚介から肉、サラダ……って、オクタヴィネル的に魚を食べるのってセーフなのだろうか。タコの人魚であるだろう海の魔女を信仰しているはずだし、この談話室にも水槽やらがあるのに。
目立たないよう一番端で、向かい側には誰もいない席を選んだのだけれど、これが逆に浮いてしまう要因になったのか、私の向かいの席に気配を感じた。恐る恐る顔を上げていくと、
「なぁに稚魚ちゃん。食欲ねぇの? 全然食べてないじゃん」
ゆったりとした話し口調で、未だ料理にひと口も手をつけていない私を心配したのか、私の前にいつの間にやら座っていたのは副寮長だった。確かに、周りの新入生たちは早速話し込んでいたり、自己紹介をし合っているのを見るとまあ、無理もないだろうか。それにしても副寮長、さっきの真面目でしっかりした印象と違うような。
「副寮長。えっと……」
「へぇ、やっぱオレたち似てんだねぇ。残念、オレはジェイドじゃなくてフロイド。ジェイドはあっち」
そうして長い指をさされた方を向くと、そちらには服寮長が立っていた。魔法か何かで分身でもしているのかと思いきや、忙しなく二人を見比べると少しだけ相違点があった。と思う。耳元で揺れる綺麗なピアスも、髪の一部の色違いも、それからオッドアイだって、すべてが鏡で反転させたように反対。加えて、強いていうならフロイドと名乗ったこちらの方が顔つきが柔らかいような気がしないでもない。名前にこのそっくりな顔。察するに、双子か兄弟だろう。これは、高度な間違い探しだ。
「キョロキョロしてクダゴンベみてぇ。とりあえず食べれば? こんなにあるんだから食べた方が得でしょ」
「あ、……はい。いただきます」
「声ちっさ」
まさか絡まれるなんて思わなかったし、どうせ性別なんてバレてしまうのはわかっているのだけれど、それでもどうか今のうちは隠しておこう、とまたあえてフロイド先輩だけに聞こえるか聞こえないか、くらいで声を発することにしたのだ。
クダゴンベって、魚だろうか。多分魚だろう。私のことも稚魚ちゃん、なんて呼んだのだし。そんなにコアな魚に例えられても褒められているのか貶されているのか以前にその例が思い浮かばないのだけれど、それはさておきテーブルへと再度視線を戻し、目の前にあった鯛のカルパッチョに手を伸ばした。
「あ、……えっ、美味しい」
「でしょ? それ、オレが作ったんだよ」
「えっ! すごい」
あまりにじっと見られているものだったから、どんな反応をしようかと口に入れたのだけれど、反応なんて作るまでもなく美味しかった。実家の近くの海鮮の店で出るものと何ら変わりないどころか、舌が蕩けるといっても過言でないくらいに美味しいのだ。だから、フロイド先輩の作ったものだって聞いて驚いたし、この人、なんとなくだらしなく見えるけれど料理上手だなんて、ギャップとはまさにこのことだ。
「わた、……自分、料理をそんなにしたことがなくて。羨ましいです」
「んー、でもいずれ稚魚ちゃんも料理は覚えることになるかもね。そのときは教えてあげる」
危ない。一時的だとしても、もし男という設定で女を隠すのなら、一人称は変えるべきだ。咄嗟に頭が回って良かった。半分は言ってしまったのだけれど。もしかしなくても、僕とか俺の方が良かっただろうけれど、自分が壊れちゃう気がして、そうはしなかった。気持ち程度声を低くもしてみた。それと、いずれ覚えることになるって何だろうか。ナイトレイブンカレッジには学食があるはずだけど、やっぱり朝晩のご飯は寮生が分担して作るのだろうか。だとすれば不安は募るけれど、フロイド先輩が教えてくれるそうなので心配はない、と思う。
オクタヴィネル寮って、思ったよりも全然普通の親切な寮だ。そう思ってパスタを皿に取り分けていると、フロイド先輩があくまで無邪気に、私に質問を投げかけた。きっと本心からの無邪気さ。きっと、そう。
「ねーねー稚魚ちゃんさぁ。暑くないの? 入学式終わったんだから、もうフード取っちゃっていいよ?」
「えっ、と……そういう気分? で」
「顔よく見えねぇし、邪魔くせぇじゃん」
「こらフロイド。新入生の嫌がることはしないように。ナマエさん、お気になさらず」
「はぁ〜い」
焦ったし、助かった。フードを取るように促しつつも手をこちらに伸ばしてこなかったのは運が良かった。それと、寮長の言葉も。確かに式が終わった今、フードを被っているのは私だけで、目立たないように端に座っていたのがかえって目立ってしまっているだろう。寮長の言葉と、案外簡単に寮長の言うことを聞いてくれた物わかりのいいフロイド先輩に安堵しつつも、パスタをフォークに巻きとった。そういえば名乗ってないし、寮長と副寮長の自己紹介しかなかったから、向かいの先輩の足が長いから、若干私の足と当たってしまうのが微妙に気まずくて、できる限り足を後ろに引っ込めた。
◈◈◈
眠れそうで眠れない、微妙な覚醒状態が繰り返されて、眠気が取りきれない状態で学園へと向かうべく、制服に身を包んだ。割り当てられた自室に入ると制服と寮服が既にかかっており、サイズも見事に私に合っていて、言ってしまえば少し気味が悪い。もちろんのことスカートでなくパンツスタイルで、新鮮だった。例えイレギュラーでも、郷に入れば郷に従え。私はこれで生活をしていかなければならないだろう。
朝食は寮か、もしくは校舎内の食堂でとるものと聞いているので、とりあえず寮の談話室に顔を出してみた、のだけれど。早起きだったのか、談話室には誰もいなかった。それか、私の時間が間違っているのだろうか。どうしよう、何も知らなくて、不安になってきた。無難に食堂で食べるべきか、それともご飯を抜いていくべきだろうか。食堂も見たことがないし、初めて行くところに一人なんて心細いし、わからないことだらけだ。きっと後者になるだろう。そう思って、談話室から出ようとしたときだった。
「ばぁ」
「う、わあっ!」
丁度巨大な水槽から踵を返した瞬間、大きい影が私を覆っていて、無邪気な笑顔に無邪気な顔で私を驚かしてきた。もちろんそれに当てはまるのは一人しかいないけれど、それに気がつくより先にお尻が床についてしまっていた。尾骶骨に痛みが響く。そんな私を、けたけたという擬音が似合いすぎるほどに笑うフロイド先輩は、私に目線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。副寮長とそっくりだけれど、多分、こんなことをするのはフロイド先輩だ。
「あはっ、稚魚ちゃんビビりすぎ。別に食ったりしねぇよ」
「く、食う……」
「朝早いねぇ。談話室になんか用?」
あなたも大概早いです、なんて思っているのも束の間、驚きのあまり腰が抜けそうになって、立つのもやっとの私の手を引いてくれた。その触れ合った手は、思った以上にひんやりとしていた。やっぱり、案外紳士なのかもしれないけれど、第二ボタンまで開けられたワイシャツから覗く白い肌になんというか、見てはいけないものを見た気持ちになる。ミドルスクールのときも、第二ボタンまで開けている男子はそこそこいたのだけれど、間からインナーが見えていたから、ここまで肌が見えているのはなんというか、気まずい。つい目を逸らしながらお礼を言うと、どういたしまして、と言われた。
「えっと、……朝食ってどうすればいいかなって」
「食堂か、それか寮のキッチンで各自で作るか……一番楽なのは店に出した残り」
「店……」
「そ。アズールが経営してんだけど、まあその話は今日の放課後にでもあんじゃね?」
高校二年生が店の経営だなんて、これもナイトレイブンカレッジゆえなのだろうか。確かに、昨晩に出た料理はどれも絶品で、とても高校生が作ったとは思いがたかったけれど、たった今合点がいった。その話、というと、もしかするとお手伝いなんかをするのだろうか。一人でお店を回すのはまず無理だろうし、フロイド先輩の料理が上手だったことから推測すると、だ。
下を向いて考え込んでいると、頭上からまた無邪気な笑い声が聞こえたので、何かおかしいことでもあったのだろうかと顔を上げると、黄金色をした瞳が妖しく光って、ギザギザした歯を覗かせるように弧を描いた。無邪気というか、どこか狂気的な、そんな笑い声。どこか爽やかな匂いも、心地が悪い。突然の、昨日や今しがたと打って変わった表情に、つい背筋が伸びて、腕、それから耳元から頭の中にかけてがぞわぞわした。そのまま私よりも大きなフロイド先輩は、顔を私の顔の近くに近づけて、私の顔をまじまじと見た。楽しそうに、愉しそうに。
「へー、ほんとにジェイドが言ってた通り、メスなんだぁ」
「……え」
「昨日は匂いしなかったけど、香水でもつけてたの?」
心臓が跳ね上がったのは、その獲物を仕留めた鮫のような瞳と目が合ったから。時間の問題とはいえ、女であることを指摘されたから。それ以上に、副寮長が言っていた通り、ということと、匂いということに引っかかって、怖くて、動けない。昨日フードを被って隠していたのに、もしかしてバレていた? 匂いって、もしかして昨日学園長にもらったあの香水はそのためのものだったの?
「駄目だよ? 隠すならもっと上手くやらなきゃ。オレらとかサバナクローのワンちゃんたちみたいに鼻が利くやつらには、どうせバレるんだし」
隠し通そうとしていたわけではないし、もし上手く隠すことができれば、くらいの気持ちだったけれど、いざ指摘されてしまうと冷や汗が噴き出て、たまらない感覚に陥る。獣人だけでなく、フロイド先輩や寮長にも匂いでバレるということだろう。獣人はともあれ、オクタヴィネル寮生もそんなに嗅覚が優れているというのだろうか。それ以外に、このミドルスクールのときと変わらない髪や、女特有の体型だって、隠す気がないのが見えてしまっているので、心情と行動の釣り合っていない中途半端さにみっともなさすら覚えてしまっていた。
それを見かねたのか、フロイド先輩の瞳はよりいっそう笑みを深めると、私から離れた。
「まぁ、オレらはお前がメスでもオスでも気にしないけど」
「……え?」
「どうせ使われるのには変わりねぇんだしさぁ。あはっ」
やはりその狂気的な笑い声がどうも怖くて、もしかするとオクタヴィネル寮の新入生で一番初めにこの寮の恐ろしさを知ってしまったのは、私かもしれない。しかもあの物腰柔らかで丁寧口調な寮長と副寮長も、フロイド先輩の発言から推測するになかなか危険な人だ。使われるって、何?
その場から動けないまま、背の高いフロイド先輩を見上げると、嬉しくて口角が上がるのが止められない子供のように私を見下ろして、それから頭を撫でられると、全身の毛が栗立つような感覚になった。やっぱり私は、とんでもない寮に入ってしまったのではないだろうか。ナイトレイブンカレッジで、オクタヴィネル寮で、四年間も生きていける自信だってない。お母さん、もしかするとお母さんが思っているよりも早く帰ることになるかもしれない。