恋愛、ねえ。
何度か、そろそろ恋愛した方がいいかなあ、なんて思って、検索履歴がおすすめのマッチングアプリだったり、彼氏ができない原因どうこうのサイトだったりで溢れ返っていた。それも、一時期ではあるけれど。結果としては、マッチングアプリには興味がそんなに持てないし、原因云々で自信過剰ながら私に当てはまることはなかった。自分磨きなんて十分すぎるほどしているくらいだし、男の人の知り合いはどこかしらにいるし、オープンオーラだって出しているくらいだ。
しかし、その「恋愛した方がいいかなあ」の時期は本当に一瞬で、トラッポラが別れた後、二週間、多くて一週間に一度の頻度で飲みに行く関係になってからは専らなくなった。
「いやほんと、クルーウェル先生の連絡先聞いとけば良かった」
「ナマエちゃんが聞かなかったのは割とマジで謎だわ。うちの兄貴ですら知ってるよ」
「え、いいな……」
「でしょ」
会話も、気がつけばいつも通りのくだらない会話にもどっていた。やっぱり、一番楽だ。学生時代も何度も話に出てきたその兄貴を紹介してよ、なんて言っても、ぜってーやだ、と言ってくるのは変わりない。
会社の飲み会より頻度の高い飲み会では、すっかり行く店が定まってきており、新鮮味はなくともこれで良かった。アルコールによる暑さで髪を耳にかけようとしたとき、硬い無機質なそれに指先が当たって、ついでといってはだけれど、耳朶に触れた。そのまま、私が許可を出しては唐揚げにレモンをかけるトラッポラをじっと見ると、耳元には学生時代に一番見かけたネイビーもなければ、リングでもなかった。
「……ピアス、してないの?」
「ん? あー、ちょっと邪魔になるとき多くて」
「そう」
「そういうナマエちゃんはいつもしてるよね。気に入ってんなら良かった」
潰れたレモンを横に避けると、どうぞ、とお箸で私を指してくれたので、唐揚げに箸をつけた。
トラッポラがあのとき開けてくれなかったら、まあ、クルーウェル先生に頼んでいたのだろうけれど、ビビりを奮い立たせてくれたのは目の前の男だし。思った通り、おしゃれの幅だって広がった。うん、と笑いながら返せば、トラッポラも次いで唐揚げを摘んだ。
いつだってテラコッタの下で光っていたネイビーは、もう見れないのかな。私とお揃いだって言っていた、あの――
いや、そういうことか。
学生時代は私のことが好きだったから、つけていた。都合のいい解釈かもしれない。だったら尚更、もうつけないということはそういうことだ。もう完全に、新しい恋をしてるんだな、なんて思うと、胸がきゅう、となる。なんだろう、感慨深さ、じゃないよね。
「――聞いてる?」
「ごめ、聞いてなかった」
「最近ぼーっとしてんね。愚痴なら聞くって」
「ううん、愚痴とかは……ないかな」
「頻度下げる?」
「これくらいがいい」
そんなに気遣ってくれなくてもいいのに、なんて思うけれど、嬉しい気持ちは隠せない。今ここにフロイド先輩がいれば、「独占欲強いとか、どっちだよ」なんて笑ってくるに違いない。
飲み慣れないホワイトサワーは甘くて、口の中で弾けた。会うならこれくらい頻繁がいい、なんて我儘? トラッポラに笑いかけると、彼も口先だけで息を洩らした。
「それでさ」
「ん?」
「ナマエちゃんは彼氏とかいねーの」
「うん」
「うわ食い気味でびっくりした」
食い気味? 確かに、らしくない。少なくともナイトレイブンカレッジにいた頃なら、「どうだと思う?」くらいは言っていたと思う。実はクルーウェル先生、なんて冗談まで言っていたかもしれない。大人になった? いや、むしろこれでは子供になったような気すらする。
目を丸くしてそう言うトラッポラに、うそ、と言うと、ホント、と返ってきた。
「なに、まだ恋愛とかあんまり興味ない感じ?」
「いや……別になかったわけじゃないけど。……今は、いいかな。その気になったら紹介とか……してもらうかも」
何をどもっているんだ。この歳の男女で、さらには学生時代からの友達ならこれくらいの会話は当然だろう。きっと。なんなら、「まだできてねーの?」「別にいいじゃん」くらいの会話はするものだと思っていた。トラッポラは、ふぅん、といつもみたいに興味のなさそうな相槌を打ってから、今日はレモンサワーを煽った。
「まあ、なんつーの」
「うん?」
「お互い頑張ろーぜ」
「……うん」
気遣いの鬼だと思う。私はまだ社会に出てから一度も経験がない。対して目の前の男は、作ろうと思えばいつでも彼女が作れる男だ。学生時代から、大人になれば遊びそうだとは思っていたけれど、おそらく本当にそのタイプだった。
恋愛もいいと思う。思うけど、こうして二人で会って、近況報告して。この時間が奪われるなら、私は今は彼氏なんていらないし、欲を言えば、トラッポラも彼女なんて作らないでほしい。けれど、これを目の前の男に言う勇気はどうしてだろう、少しもない。昔なら、「彼女なんて作らないで」ってわざと思わせぶりに言って、反応を確かめるくらいはできただろうに。やっぱり、頭の中で、聞こえもしないフロイド先輩の声が聞こえた。
◈◈◈
「……またか」
あれから、実のところ二度目だ。トラッポラは宣言通り頑張っているだけ。対して私は、心地の良い空間から離れたくなくて、何もしていないだけ。だから当然なのだけれど。
二度目の彼女は、二ヶ月もった。けれど別れて、それを合図にまた『明日会える?』と来るだけ。完全に、都合のいい女ポジションになってしまっていることには気がついた。それでも、トラッポラと会って話せることが嬉しかったから、即OKをした。
今度の彼女は少し違った。また、かわいい子だった。付き合ったのがすぐにわかったのは、トラッポラがマジカメに投稿するようになったから。カフェに行った。水族館に行った。レストランに行った。たった二十四時間しか残らない投稿でも、もちろん目に入るに決まっている。今回は本気なんだ。そう思うと、イライラした。イライラする。
「っ!!」
持っていたスマホを思いきり投げた。運が良いのではなく、理性が残っていた私の狙い通りソファに沈み込んで、割れることはなかった。見る度に更新されるマジカメ。別に会うなら、セベクでもシルバー先輩でもエペルでもフロイド先輩でもいいじゃん。話を聞いてもらうだけなら、誰だっていい。そんなことはわかっているのに、少しも話す気にも誘う気にもなれない。物に当たるなんて、稚魚じゃあるまいし。ストッキングを脱ぎ捨てて、スマホを拾うと、ベッドに寝転がる。布団に潜り込む。駄目だ、イライラする。
こんなに、抑えのきかない性格だったっけ。イライラももやもやも止まらないのに、投稿を見る手が止まらない。見なければ苦しい思いをしなくて済むのに。こんなの、自分の首を絞めるだけなのに。ハイライトにまでご丁寧にまとめてあって、そんなのするの、初めてじゃん。この間の彼女のときも教えてくれなかった。今回も教えてくれないのに、投稿だけはして、なんなの、あいつ。そうやって思いが募りに募って、気がついたときには、ほぼ無心で更新される皆の投稿を追っていた。
「……恋愛、ねえ」
オルトも好きな子がいるらしい。クルーウェル先生だってもしかしたら結婚しているかもしれない。元クラスメイトたちも、彼女とのツーショットを投稿していたりして、もしかして、遅れをとっているのは私だけ?
「うっ、……うう」
そう考えてみれば、寂しい。いつもと同じ1LDKの狭い部屋が、今日はこんなにも広くて静かに感じる。寂しい。こんなことなら、実家なんて出なければ良かった。ただただ、涙が零れ落ちて、洗ったばかりのシーツを濡らす。何が原因なの? 寂しいから? きっと、寂しいからだ。
誰でもいい。誰でもいいから会いたい。誰でもいいから抱いてほしい。誰でもいいから。そう思って、連絡先を眺めては勢いよくスクロールすると、もちろん仲が良い人の名前ばかりが並ぶ。フロイド先輩? 違う。エペル? セベク? 皆、違う。いきなりこんなことで連絡するなんて申し訳ないし、誰もしっくり来る人がいなかった。誰だったら、いいの。
「や、もう、いや」
身体を丸めれば、シーツもぐちゃりと皺を寄せる。寝るときに元に戻すのが面倒だとか、そんなことを考えながら、染みをあえて作るみたいに顔を押し付ける。鼻をすすって、ひきつけが起こるくらい泣いて、こんな姿、誰にも見せられない。
私がこうして泣いている間、そんなことは知らずにあの男は、他の女の子と仲良くデートでもしているかもしれない。答え合わせは、日付が変わる頃か明日の朝。マジカメで確認できるのはいつものことだ。この前までなら、心のどこかでこう思っていた。また別れたら飲みに行こう、そのときのお店も探しておこう。けれど、今回はその「別れたら」がないかもしれない。あっても、かなり先かもしれない。一気に、孤独を感じた。
『エペル』
悪い女、かもしれない。寂しくなって、誰でも良くないとか思っても、結局誰かに連絡を入れる。
『明日のおかず何がいいと思います?』
それでこの寂しさが埋まるなら、かまわない。
『久しぶり』
『また飲みに行きたい』
セベクにまで送って、ふと我に返って、何をしているんだ、とベッドに身を投げ出した。送信取り消し……をするほどの内容ではないのが救いだ。からからになって、もう涙は出なくなって、それと同時に頭も冷静になった。
トラッポラごときで、おかしかったんだ。誰でもいいわけがない。そのへんの男に抱いてもらうほど貞操観念は死んでいない。誰でも埋まるわけじゃない。まだ、大丈夫だ。
「頭いた……」
クルーウェル先生にも、色々教えてもらった。その中には、ずっと自分を大事にしろっていうのもあった。大丈夫だ、変な考えには及ばない。寂しさは、少し晴れた。いっぱい泣いたおかげか、皆にメッセージを送ったからか、それでもトラッポラのアイコンを見るとまた喉の奥が苦しくなるから、スマホを伏せた。
◈◈◈
鳥が鳴いている。いつも聞く音より先に、鳥が鳴いた。寮生活のときは、絶対に聞くことがなかった音だ。それに誘われるように目を開けると、カーテンの隙間からわずかな光が洩れていた。
しまった、寝落ちしてしまっていた。時計を見ると、まだ六時前。服は昨日と同じで、お風呂にも入っていないなんて。おまけにメイクすら落としていない。終わった。頬が湿っていて、気持ち悪い。けれど、幾分かすっきりした。
『タコのナムル』
『わかった』
『また日を合わせよう』
「げ……」
そうだった。昨日、寝落ちする前、とにかく連絡を入れまくったんだった。ただ、三人に留まっているところが良かったと思う。それに、送った内容が『会いたい』とか『寂しい』にしなかった私のことは全力で褒めたい。そうして紛らわせられるものでもなかったのだと思うけれど。
それから、つい声を洩らしたのは、大量の不在着信だった。深夜二時くらいまで数分おきに鳴らされていて、気がつかなかったなんて、私も私でかなり疲れていたのだろう。
まだ痛む頭を押さえながら、きっと目も腫れているだろう、と一刻も早くお風呂に向かった。
お風呂から上がって、髪を乾かしてから、やっといつも通り。ただ、ホットタオルを作っていること以外は、いつも通りだ。メイクに取りかかるとき、ようやくエペルの不在着信に応えるように、通話ボタンを押した。
せっかく早く起きれたし、と下地を丁寧に塗り込んでいると、いつもよりも化粧乗りがいい。これだけでもテンションが上がるので、嬉しいことだ。
五コールで、早くもその音は途切れた。すかさずスピーカーにすると、それと同時に、音割れしそうな声が聞こえてきた。
『もしもしナマエ!? やっと出た……』
「起こした? ごめんね」
『いや、全然いいけど……どうしたの?』
「どうしたって……別に何も」
何もないわけではないけれど、今は特段気分が良い。このまますべてを忘れて、最高の気分でアイシャドウをまぶしたかった。エペルは「はあ?」と不機嫌そうな声を上げて、いや、謝罪が足りなかっただろうか。それにしても、エペルにそんなに心配させるようなメッセージ、送ったっけ。
『……ナマエが今まで僕の名前だけ送ってきたこと、なかったでしょ』
「あー、そうだっけ」
『うん。……何かあっただろ』
「んー……うん」
ホットビューラーで睫毛を上げながら、曖昧な返事をする。エペルのくるんとした睫毛は、天然だった。羨ましい話だ。エペルと、いつもはどんな会話をしてたっけ。最近ここのカフェを見つけたとか、ヴィルさんは大活躍だね、とか、林檎細工がちょっとできるようになったとか。
確かに、それだけ考えれば、今回は変だったのかもしれない。いつもは用件も一緒に送るのに、ということだろうか。ミスった。送信取り消し、するべきだった。いや、それでも勘づかれた可能性がある。
「でも、もう大丈夫」
『本当? 無理してない?』
「してないよ。心配してくれてありがとう」
かなりすっきりしたし、もう大丈夫、だと思う。けれど、ふとした瞬間にまた昨夜みたいになるんじゃないか、と思うと、溜息が零れた。なら、今日はいつも以上に気合を入れておしゃれしよう。かわいくしよう。目の腫れなんて隠すメイクをしよう。新しいブラウスをおろそう。
『また、予定送るから会おう』
「うん、楽しみにしてる」
それで、私たちの久しぶりの会話は終わった。スケジュールを見れば、会社での飲み会と友達とのランチ以外は空白だ。週末の夜なんて特に、何も入っていない。じゃあ、尚更綺麗にして、気分を変えなきゃ。
買ってからずっとつけてなかった新しいピアスは、控えめな大きさで花の形を模したもの。それだって、おろそう。自分のご機嫌くらい自分でとれる。
そういえば、最近はピアスを全然取り外ししていなかった。不衛生だな、なんて思って、けれどそんなにシンプルなものって持ってたっけ。巻き始めた髪を耳にかけると、ネイビーが光った。丸くて、ちっとも邪魔にならない小さめのピアス。いつから、これのままだったっけ。いつつけたっけ。
「……傷つけたくせに」
私の身体に一生消えない傷をつけたくせに、あの男は、こんな思いなんて知らずに他の女の子と笑っている。お揃いだとか言ったのに、なかったことにするみたいにして。
じゃあ、私もいらない。鏡の向こうの私と目が合うと、その私と同時に視線を滑らせては、ピアスのキャッチを勢いよく取り外した。こんな私も、酷く自分勝手だ。