幻想ならどれほど良いか

 清潔感があって、爽やかで、優しい笑顔の、四つ上の隣の部署の先輩。

「ナマエ・ミョウジです」
「うん、知ってるよ」

 あれから、どうにか気を紛らわせようとか、恋愛をしている周りに追いつこうと考えた結果、同僚のあの子に男の人を紹介してもらうことになった。その言葉を聞いたときの、あの子の目はキラッキラだったなあ。私も、恋愛をしたい。そう言ったら、紹介されたのは、隣の部署のまあまあ噂は立っていた先輩だった。イケメンどうのっていう噂だ。
 とりあえず手始めに、と男性とは会社近くのカフェで会うことになった。何やら、関わりがないのに私のことが気になっていたらしく、ナイトレイブンカレッジだけでなくここでも有名人なのか、と鼻の下を擦った。

「この度は会ってくださって、ありがとうございます」
「そんな、かしこまらないで」

 確かに、イケメンなのだと思う。何よりこの清潔感と不快にならない程度の香水が、ポイントが高い。シルバー先輩やレオナさんと並べたら負けだ。ナイトレイブンカレッジ時代の彼らのことは頭の片隅に置いて、ホットティーを口に運んだ。対して先輩は、ブラックコーヒー。セベクの顔が、脳裏に浮かんでしまった。

「ずっと気になってたんだ、ミョウジさんのこと」
「……どういうところが?」

 まさか見た目とか、ベタな褒め方をするわけではあるまいな、と思いつつ、それはそれでめちゃくちゃ嬉しい。ずっと、見た目には気を遣ってきた方だから、私だって相手を不快にさせないくらいには綺麗だと思う。ところで、いきなりファーストネームを呼ばないところも、好感度は高い。

「もちろん綺麗っていうのもあるけど……うちの部署でもよく気がつく子って話が回ってきて」
「へえ……嬉しい」
「あとは、理系が得意な子もうちでは珍しいっていうのもあるかな」
「ふふ、うちの部署には割といますよ、理系の子」

 魔法薬学、魔法解析学、錬金術。私の得意科目であるクルーウェル科目をいかに使えるかっていうので、クルーウェル先生には一緒に進路について悩んでもらった。といっても、ここまでガチガチに理系タイプの子は、確かにうちの部署でも女にしては珍しいのかもしれない。気がつくのは、きっとモストロ・ラウンジでの経験もあってのことだろう。
 彼の褒め方は、裏がなかった。きっと、本当にそう思ってくれているのだろう。綺麗すぎるくらい、裏がない。

「何か趣味とかは?」
「えーっと……カフェ巡りとか、料理も結構します」
「へ〜、女の子らしい」

 ここまで感心してくれると、嬉しいな。嬉しいけれど、照れはしない。ドキドキもしない。他にも好きなことはある。家でゴロゴロするのとか、ネットサーフィンとか、とてもそんなことは言えない。恋をしようともなると、自分をある程度は取り繕わなくてはいけないのか、と紅茶を飲みついでに息をついた。

「聞いてもいい?」
「? どうぞ」
「今まで恋人はいた?」

 これはまあ、本題に入るための話題だ。男の人は、男性経験がない女の人が好きという記事を読んだ。それと同時に、彼氏がいない歴があまりにも長いと、女側に問題があるように思う、という記事も見た。この人は、どちらで取るだろうか。最後に付き合ったのは、もうほとんど十年前。しかも、ミドルスクールでのお遊び感覚の恋愛だった、と思う。
 じっと真っ直ぐ見てくる男性の目を、私もじっと見ると、ケーキにフォークを入れた。

「いたことはあります。……でも、ミドルスクールのときに一度だけですから」
「へえ。それ以降は? 周りに男がいない……女子校だったとか?」
「いえ、むしろ――男の友達は、多い方でした」

 女子校なんてとんでもない。その反対の男子校だ、なんて頭の中で唱えつつ、バスクチーズケーキをひと口食べた。先輩は、コーヒーもなかなか飲まず、ケーキも食べずで、ずっと私の話を聞いてくれる。つまらないのではないだろうか。きっと、つまらないと思う。

「あの、面白い話できなくてごめんなさい」
「どうして? ミョウジさんのことを知れて嬉しいけど」

 どこまでも良い人だ。裏のない笑顔でそう言ってくれるので、申し訳なくて目を逸らしてしまうほど。私には、勿体ないくらいだ。こんなに心が綺麗なら、私みたいな荒んだ、あざとぶりっ子女なんて合わないに決まっている。けれどもう、あの頃みたいにあざとい行動は無理にはしないし、するとしても、特定の相手の前だけだ。

「でも、そんなに恋愛経験が浅いなんて……」
「……引きました?」
「全然。むしろ嬉しいよ。今までの周りの男友達は、どうしてミョウジさんのことをそういう目で見なかったのか疑問なくらい素敵だから」

 この短時間で素敵、だなんて、私がどれだけ性格が悪いか知らないのに。どこを見てそう思ったんだろう。そういう目で見なかったばかりではない。私のことを好きだった人も、何人かいた。告白してきたのが一人しかいなかっただけで。それを、振ってしまっただけで。
 恋愛経験は浅いけれど、男の子との距離は全体的に近かった。手を握られたこともある。お姫様抱っこだって何度かされた。抱きついたこともある。なんなら、一年生と二年生の頃は常時ベタベタしてくるウツボまでいた。こんなことは、言えやしない。

 どうしよう、少しも照れないし、ドキドキもしない。ナイトレイブンカレッジにいた頃、すごく頻繁にドキドキさせられて、照れてきたのが嘘みたいだ。大人になったということだろうか。

「そろそろ時間だね」

 お昼を兼ねたティータイムだったから、物足りない。どうしてお昼ご飯を頼まなかったのだろう。時間いっぱい、お互いの話をした。でも、まだ会ったばかりで、くだけた話はもちろんできなかった。
 この人は、私には勿体ない。……いや、性格がきっと、私と合わない。この人は根っからの光だとすれば、私は性根腐った悪女だ。光みたいな人は何人もいたけれど、ナイトレイブンカレッジにいた誰よりも、私と合わない。

「あの、ありがとうございました」
「こちらこそ。良かったら、ID教えてもらってもいい?」

 あと、何回会って、何回目で付き合うんだろう。恋愛って、こんなに義務的なものだったっけ。もう、どんな話をしたか覚えていない。トラッポラやエペルたち、ナイトレイブンカレッジ生との会話も、いつだって何を話したか覚えていないような薄っぺらなものだったけれど、満足感が全然違う。けれど、私はきっとこの人と付き合って、色々なことを経験するのだろう。
 私はもちろん頷いて、最近よく動いている方――ミドルスクールのときの友人や会社の同僚と繋がっている方のアカウントを提示した。

 ◈◈◈

 ピコン。マジカメの通知音が鳴って、心が躍る。エペルから、『もうすぐ着く』と一通入った。洒落た居酒屋でもバーでもなくて、私たちの就職先の丁度中間にある焼肉屋だ。エペルといえば焼肉だし、私も牛タンとか食べたい気分だったんだよねえ。
 今日はヒールでもないし、髪はかろうじて少し巻いた。今日の飲み会は、スカートではなくてパンツスタイルだ。久しぶりに穿いたような気がする。

「ごめん、待った?」
「待った〜けど久しぶり。かっこいいね」
「うん、久しぶり」

 卒業する頃には、一年生のときより背が随分高くなっていた。それでも声は澄んだまま低みを帯びて、ふわふわの髪もそのまま。顔つきは大人びていて、ヴィルさんが学校にいなくなってからも美容に関する努力を習慣化していたから、ずっと綺麗だった。なんなら、寮長だったくらいだし。

「ナマエも綺麗だよ」
「やだ……惚れちゃう」

 あのエペルが、私のことを綺麗と言った。お世辞でも、そんな。
 エペルの私服は、それなりにダサかった覚えがある。今日のエペルは、大人になったエペルは、かっこいい。あの頃の美少女なんていなくなっている。マネキン買いしたのか、センスが良くなったのかはわからないけれど。
 エペルが来てから、嫌なくらい視線が集まった。あのヴィル・シェーンハイトが目をつけた男だ。それに、こんなに綺麗。隣にいるのが申し訳ないくらいだけれど、エペルは柔らかく微笑んでは、「会えて嬉しい」と言った。ボーテ、百点。

 なんの色気もない店に入ると、美味しそうな匂いが充満して、私たちは早足で指示された座席へと移動した。個室みたいになっていて、最高〜!

「カンパーイ」
「カンパイ」

 エペルはまさかの「とりあえず生」派だった。美味しい? と聞くと、別に、と返ってくるあたりは、好きじゃないんだろうな。
 久しぶりだから、私はノンアルカクテル。エペルがお酒を、しかもビールを飲んでいるのは違和感しかない。こんな美青年が、生ビールをぐびぐびと……ではなく、ひと口飲むごとに微妙な顔をしている。かわいい。

「それで、最近どう?」
「バリバリ仕事してるー、めちゃくちゃ元気」
「……そっか。良かった」

 皆の近況とかを見ていると、やっぱり私も頑張れる。隣のデスクの先輩も、微妙に私と張り合ってくれるのでやる気が上がるし、周りの環境は大事だ。加えて、持ち前のあざとぶりっ子も社会では世渡り上手になるために必要といえば必要だった。個人に、学生のときみたいにからかい目的や遊び目的で使うのではなくて、かわいい後輩としてのぶりっ子。
 ほっと息をついて、意気揚々とカルビを焼いていく様をぼーっと見ながら、周りに飛んだ油やタレを拭く。エペルはありがとう、と言いながら、私のお皿にタレを入れてくれた。

「エペルは?」
「僕も楽しくやってるよ」
「良かった。……ねえ、彼女とかいる?」

 楽しくやってる、のは日々のメッセージのやりとりでわかっている。今知りたいのは、どちらかというとそっちの事情だった。今になって、やっと恋人とかの話ができるようになったのは、男子校だったから?
 私の質問が予想外だったのか、生ビールを苦そうに飲んでいたのを、喉に何かが詰まったみたいに固まって、アクアブルーの目を見開いた。

「いないけど……どうして? 珍しいね」
「でも言い寄られたりはあるでしょ」
「あ、あはは……まあ、ね」

 エペルも、恋人はいない。私だけでないことに安堵しつつも、それでも私の周りは恋人がいる、最近までいた、という人の割合の方がはるかに高い。エペルだって、作ろうと思えばいつでも作れる。仲がいい同僚二人も、一人は男を取っかえ引っ変えしていて、一人は三年前から付き合っている子だから、私だけがアウェイな感じがするのだ。悩ましげな私の表情を汲み取ったのか、焼き上がったカルビを私のお皿に盛っては、身を乗り出すみたいに顔を覗き込んだ。それも、耳に柔らかな髪をかけながらという美しい所作で。普通だったら、落ちるよね。

「……いや。私、そろそろ恋愛した方がいいと思って、この前紹介してもらったんだよね」
「へえ、そうなんだ」
「なんだけど……なんというか、ドキドキしないし。……いや、まだ好きじゃないからそうなのかもしれないけど、恋愛ってこんなんだっけって思って」

 すごくいい人なんだけど、と付け足すと、肉を口に運んだ。新しくホルモンと牛タンが届いたのを、ありがとうございます、と受け取ったエペルは、間髪入れずに新たにそれを焼き始めた。じゅう、といい音が鳴って、でもホルモンって噛み切れなくて食べるのが苦手だ。少しだけ額に汗を滲ませてエペルが前髪をよけると、ちらりとこちらを見て、目が合った。

「付き合うの?」
「付き合うんだと思う。……付き合ったら、好きになることもあるし」

 私には生憎その経験はないけれど、よくある話らしい。生焼けなのか焼けているのかほとんどわからないホルモンを私が裏返すと、網に少しだけ張り付いた。

「……この前、連絡してきたとき。あの、通話したときあるでしょ」
「あー……うん」
「あれ、何かあったって言ったよね。聞いてもいい……かな?」

 そこ、掘り下げる? あまり今でも触れられたくないし、目に入らないように、あのアカウントもあまり開いていない。まあ、エペル相手だし、これが同僚なんかなら決して言うことはなかっただろうけれど、包み隠すこともないだろう。張り付いたホルモンをほぼ力づくで剥がしてはエペルのお皿に盛ると、「トラッポラとはよく飲んでたんだけど――」という導入から始めた。

 ◈◈◈

「は?」
「それで、一緒に飲めないのもイライラするし、彼女がいるのもイライラして、なんか、全部イライラしたんだよね」

 あのときみたいに、もう涙が出たりなんていうのはないけれど、思い出すだけで、もやもやとイライラが止まらない。かわいいけれど控えめな、どこか収まりの悪いピアスがついた耳朶に触れると、それをくるくると回してみる。
 この話を聞いていたえペルは、ひと言、「は?」とだけ発してから、ノールックでホルモンを焼くと、火が高く上がった。フリーズしたエペルに、あれ? と思いながら、私がまたホルモン焼き係としてエペルのお皿に盛っていくと、エペルが二、三回瞬きをして、長い睫毛が揺れた。

「いや、……ええ? ナマエって、なんつーか……そんな馬鹿だった?」
「ばっ!?」
「いや、馬鹿っつーか、アホっつーか……」

 馬鹿だのアホだの、なんて失礼な。やっぱりホルモンは噛み切れなくて、なんとか喉に流し込むと、待ってましたの牛タンを焼き始めた。その様子を見ていたエペルは、ドン! と机を叩いて、「あー!!」といきなり叫んだ。いや、迷惑迷惑。個室タイプで心底良かったと思った瞬間だった。

「率直に言うけど」
「……うん」
「ナマエはエースのことが好きなんだろ」
「……」
「どれだけ一緒にいたと思ってるの。……ナマエのことは、一番わかってるよ」

 ドクン。心臓が飛び出そうなくらい、胸が鳴った。ドクン、ドクン、ずっと鳴っていて、耳のあたりに心臓があるんじゃないかってくらい、うるさい。なんとなく、なんて言われるかはわかっていた。「他人の好意には敏感なのになんでそんな……」とエペルはぼやく。

 私、自分に嘘ついてた。

 でも、それは仕方ないことだ。一度振った相手で、あちらはもう私のことを微塵も想っていなくて、新しい恋を楽しんでいて、もう私が入る余地なんてない。だから、友達としての嫉妬、友達としての悲しさ、友達としての怒りに置き換えるしか、仕方なかった。もう、苦しい。ノンアルなのに、アルコールなんて回っているわけがないのに、早くも視界がぼやけた。

「ナマエ」
「……だって、私、一回振ってるし、あっちはもう私の事なんてとっくに吹っ切れたし」
「……」
「あっちには、大切な彼女だっているから。だから、私は新しい恋をしなきゃ」

 告白されてから、もう三年が経つんだ。そりゃあ、普通に好きだったとしても、振られたとしても、どっちにしろそう想いが続くなんて有り得ない。今更好きなんて言っても、もう遅い。あのときOKしていればなんて後悔しても、もう遅いんだ。いっそ告白されたあの日から、すべてをなかったことにしたい。じわり、涙が滲んで、エペルの指先がこちらに伸びてきたかと思いきや、そのまま重力に従って落ちた。薄い牛タンが、火が通っては縮んでいく。

「……じゃあさ、僕と付き合って忘れる?」
「え、……」

 エペルの澄んだ綺麗な低音が、肉が焼ける音に混じって確かに耳に届いた。エペルと、付き合って忘れる。すごく、良い考えだと思った。あの先輩と付き合うより、取り繕わなくてもいいし、素敵だと思った。
 けれど、即答できなかった。私、いつの間にこんなに贅沢になっていたんだろう。エペルの瞳をじっと見たまま、口端を震わす私を見た彼は、ふ、と目を細めて笑った。それと同時に、涙が零れ落ちる。

「ふふ、やっぱり、ナマエはよくわかってるよ」
「わかって……」
「告白されたら付き合う、なんて言ってたくせに、即答しないなんて、もう答えみたいなものでしょ」

 にひひ、と意地悪で無邪気な笑顔をするエペルは、前みたいな、「かわいい」に戻ったような気がした。
 その通りだと思った。確かに、学生時代は間違いなくこの考えを持っていたから、告白されたら、エペルでもオルトでもスペードでも、誰でも付き合っていた、と思う。なのに、私はトラッポラのことを拒否した。あのときから、始まっていたの? なら、トラッポラの告白を受け取る方で、始まりたかった。時間を戻せる魔法が使えればいいのに。……たとえ使えても、もしかしたら、同じだったかもしれないけれど。

「私……」
「うん」
「トラッポラが、好き……」

 友情の「好き」でなくて、恋愛の意味で言う「好き」は、言うだけで耳まであっという間に熱くなった。同時に、涙まで零れ落ちた。認めてしまったら、もう訂正なんてできない。いつの間に、こんなにも大切な存在になっていたのだろう。涙がぽたぽた落ちて、エペルが今度こそ指先で涙を拭ってくれるけれど収まらなくて、いつの間にか盛られていた牛タンは、食べてみれば塩気が強かった。

 ◈◈◈

 エペルと話せて、良かった。全部の私の思いを話して、本当に、すっきりした。

『僕はよくわからないけど……まずはまた話してみるとか、どう……かな』

 私だってわからないよ、なんて笑った。

 エペルと駅で分かれて、また絶対会おうねって笑って、女の子たちの視線を浴びる彼に手を振って、方向の違う電車に乗った。
 私はもう、二度か三度か、何度もチャンスを逃している。次のチャンスがいつ来るかもわからないし、来ないかもしれない。なんなら、今更もう遅い。そんなの、考えるだけで嫌になる。嫌になるけれど、トラッポラが私を諦められたのはきっと、私に真摯な想いを伝えてくれたから。そうだ。告白を区切りに、終わりにしよう。そうしたら、本当に、お互いに、「素が出せる友達」に戻る。

「ほんとは付き合いたい……」

 付き合うって、何をするんだろう。けれど、好きな人と付き合えるなんて、素敵なことに違いない。成長した今なら、よりいっそう幸せなはずだ。日常に、新たな日常が加わるなんて、素敵だと思った。叶うことなんてほとんどないのに、胸が高鳴った。口にするだけで、頬が熱を持った。はあ、と息を吐けば、白く曇る。同僚と見た星空よりも、残業終わりの星空よりも、先週一人で見た星空よりも澄んで見えるのは、季節的な問題だろうか。

「さむ……」

 とりあえず、帰ったら連絡を取ってみよう。いくら付き合っている間、他の女の子と連絡を取らないといっても、ブロックはされていないだろうし、前みたいに返信くらいはしてくれるだろう。
 冷える手先を擦り合わせながら、駅から出たところにある自販機でコーンスープを買う。ピッ、と高い電子音が鳴って、いつも通りハズレが出て、そんなものに興味はないから、さっさと缶を拾っては手で包み込んだ。

 早く、帰って連絡がしたい。

 少し早足になって、状況は何も変わっていないのに気持ちだけが軽くなって、うきうきしながら家に向かった。
 そんな私の足を止めたのは、目の前にあった光景だった。

「――好き」
「うん、オレも好き」

 私が降りた電車の後に来た、あの電車だろうか。それとも、私より先にいたのだろうか。知っている声が聞こえて、心臓が大きく鳴った。思わず、目を見開くしかなかった。反射的に後ろに下がるしかなかった。電車のドアが閉まる音と、発車する間抜けな音が聞こえた。風が、通った。

 キス、してた。

 ダッフルコートに身を包んだ、よく知る、外灯に照らされたテラコッタの髪と、向かいにはふわふわのミルクティー色の髪の女の子。顔は、見えない。背伸びをして、彼氏の首に腕を回して、彼氏は女の子の肩を抱いて、人気ひとけがなくてもよく見える場所で、キス、してる。赤くて熟れたチェリーがゆっくりと現れては、すっと細められて、彼女の髪を撫ぜた。

 見たくなかった。見たくなかった。吐きそうだ。苦しい。吐きそうだ。気持ち悪い。苦しい、苦しい。
 一気に出し切ったはずの涙がぶわっと込み上げて、丁度外灯の範囲外まで消えたところで、人目なんて知らない、と必死に走った。やっぱり、駄目だ。私が好きになった男は、違う女の子に「好き」と言っていた。聞き間違いなら良かった。良かったのに、はっきりと、言っていた。

 せめて、私が見ていないところだったら良かった。なんで、今日なの? せめて少しだけでも時間をずらしてよ。
 もう、今更“いい関係”になんて戻れない。戻れるはずがない。今まで通り接することなんてできない。
 神様は、私のことなんて嫌いなんだ。けれど、海の魔女にお願いする気なんて起きなくて、冷たい風を受けながら、嗚咽して、無我夢中で走った。