大会が近付いたこの時期は、夜になっても一向に気温が下がらず、じっとしていても汗がにじみ出てくる。俺は、苗字さんが訪ねてくるのを待ちながら、前回の勉強会の復習を急いでいた。この頃は、大会が近いこともあり、早朝から先ほどまで通して様々な練習を行っていたため、勉強する時間が取れなかったのだ。

暫くすると玄関で物音がし、俺の部屋の前で「弦一郎くん、お邪魔しますー」と声がした。俺が返事をするとゆっくりとふすまが開かれ、苗字さんが部屋へと入ってくる。

「ごめんね、少し遅くなっちゃった。」
「いや、気にならない程度だ。」

苗字さんは座布団の上に腰を下ろすと、突然驚いた表情で俺の手元を見た。

「……あれ、それ前回の?今やってたんだ。珍しいね」
「面目ない。部の大会の練習のために時間をとられてしまってな」
「弦一郎くんがそこまでいうってことは本当に忙しいんだね、テニス部は」

彼女は、宿題として課された復習を俺が今おこなっていたことに関して、怠惰だとかそういったことを一切疑わなかった。そこに少なからず嬉しさを覚えながら、「今度こそ全国三連覇を成し遂げるためだ」と言葉を続けた。

「そのためには一切の妥協も許されん。もう二度と、敗北という屈辱を味わわないためにもな。」
「ほんと、そういうところは尊敬するな…」

隣に腰かけている彼女は、そう呟くと不意にこちらに手を伸ばした。何事かと固まる俺をよそに、その手は俺の二の腕あたりに軽く触れた。

「……!?」
「そういえば、ここ最近でさらにがっしりしたよね。凄い焼けてるし」

ちゃんと日焼け止め塗ってる?と言いながら、彼女は両手で俺の腕を持って好き放題にしている。以前、テニス部の連中にからかわれてからというもの、妙に彼女を意識するようになってしまった俺は、予想もしなかった彼女のその行動に、すべもなく顔を赤くした。

「……日焼けなど、別段気にすることでも、ない」
「ううん、見た目うんぬんじゃなくて、日焼けは体に悪いんだよ?だからちゃんと日焼け止め塗らないとだめだし、焼けたらケアしなきゃダメ。」

彼女は珍しく強めの口調でそういってから、かばんの中を探り出した。

「……苗字さん?」
「今、日焼け用のローション塗ってあげるから。焼けた個所全部出して待ってなさい」
「しかし、今日の勉強は――」
「あ、あったあった。ほら、いいから」

有無を言わせぬ彼女の態度に、俺は仕方なく腕と脚の袖を少し捲り上げた。苗字さんはローションとやらの瓶から液体を手に出して、俺の腕に塗り広げていく。少しひんやりとして心地が良かった。
結局、手足や首、頬など、服から露出した部分ほぼすべてにそれを塗られた俺は、前回の復習も漸く終わらせ、苗字さんの方に目を向けた。いつもなら彼女は始めに今日の課題の範囲を教えてくれるのだが、今日は俺と目を合わせて薄く微笑んだまま、何も言わない。

「苗字さん、今日の分は――」
「テニスの大会って、いつだっけ?」

先ほどから俺の言葉を遮って別の話題を振る彼女に違和感を覚えながら、俺は日程を思い浮かべる。

「三日後に関東大会決勝を行い、二週間後に全国大会だ。」
「三日後!?明々後日か…じゃあ明日も明後日も練習をびっちりやるんだ?」
「ああ、だが、調整の意味合いが強い故に、そこまで厳しい練習は予定していない。」
「そっか、じゃあ今日は最後のハードな練習だったのかな?」
「うむ。……して、何故そのようなことを?」
「これから全国大会終わるまで、勉強会の回数を減らそうと思って」
「……は?」

何を言われているのかわからず、俺は不用意な言葉を返してしまった。回数を減らすとは――

「……何故?」
「だって、弦一郎くんの学力、危ないとは思わないし、何よりも私が弦一郎くんの家庭教師してるのは勉強を教えるためだけじゃないし」
「……というと?」
「勉強を教わるためだけたったら、プロの家庭教師の人に頼んだ方が教え方も効率もいいに決まってる。それをあえて私がやってるのは、私がほかの人よりも弦一郎くんの気持ちに近かったから。」
「俺の…」
「師匠に頼まれたあの日、師匠も言ってたけど、確かに弦一郎くんはあの時の私と同じ顔してた。私には、どんな気持ちで一つのことを諦めるに至ったのかわかる。だから、師匠は私に頼んだの。弦一郎くんの心のケアも、できるから。」
「……それは分からなくもない。だが、何故それが減らすことに繋がるのだ」
「だって、今の弦一郎くんは誰がどう見ても忙しいもの。そんな時に私とのこの時間を無理やりとったら、ただ負担になるだけ。必要に迫られてないなら、無理にやることない。」
「しかし、忙しいのは事実だが、俺は無理をしているつもりはない。」
「弦一郎くんは頑張り屋さんだからね。今はそうでも、大会中にこのまま続けたら無理することになる気がするんだ。」

無理をしていないのは嘘などではないし、意地を張っているつもりもない。しかし何をどういっても苗字さんは決定を覆そうとしない。俺の中に、何故かよくわからない焦りが生じた。

「だが、この夏休みという絶好の機会に勉強の時間を減らすというのは勿体ないと思うのだが。」
「でも、大会終わったら部活自体は引退でしょう?今までよりも時間が多く取れるようになるはずだよね?」
「で、でも、赤也――後輩に来てくれと頼まれるかも――」
「毎日じゃないでしょう?」
「だ、だが――」

なおも言葉を続けようとする俺に焦れたのか。苗字さんは俺の隣で膝立ちになって、俺を少し上から見下ろした。

「焦ってる?大丈夫?」
「いや、焦ってなど――」
「焦る気持ちは分かるよ。だってこの時期に勉強時間を減らすなんてこと、普通の受験生だったら絶対しない。でもね、私が保証する。弦一郎くんは絶対大丈夫。」

彼女は腕を伸ばして、俺の背に手を回した。――抱きしめられていると理解するまでに数秒を要した。驚きと緊張で固まる俺をよそに、彼女は背に回した手を俺の頭に移し、俺の頭を撫でだした。……彼女の柔らかな胸元が顔に当たった。

「だから、焦る必要なんてどこにもないんだよ。弦一郎くんがテニス大好きなのは私がよく知ってるから。今は他のことは置いておいて、大好きなことに専念して。」

――そうだ。俺は高校でこそ三連覇を成し遂げると誓って、今までテニスにこの身を捧げてきた。だが何故俺は、テニスを優先しろと言ってくれた彼女の言葉をここまで必死になって取り消そうとしているのだろう?

焦っている?確かに俺は今の今まで空前絶後なほどに焦っていた。しかし俺は、彼女の言うように勉強をしなくなるということをそこまで危惧しているわけではない。苗字さんが俺の学力が現時点では危険ではないと言ってくれたことで、それに関する焦りは殆ど消えたといっても過言ではなかった。

だとしたら、俺は何に焦っているんだ。熱くなる体と裏腹に冷静になっていく頭で、俺は必死に理由を探す。


* * * * *

『副ぶちょー、最近どうなんすか、例のカノジョさん!』

春過ぎのあの一軒以来、しつこいほどに俺と苗字さんの中を探りたがるこの後輩に辟易しながら、俺は帰りの支度をしていた。

『赤也、いい加減にせんと――』
『うわ、ぶちょー!副部長が暴力するー!』
『ふふ、八つ当たりはよくないぞ、真田。』
『八つ当たり?俺はそんなつもりは――』
『あ、そうだ、俺、この前のオフの日、副ぶちょーとカノジョさんみたっすよ!ね、ジャッカル先輩!』
『ん?ああ、お前のゲーセンに付き合った日か。新しく出来たショッピングモールに入ってったの、真田だったよな』
『へえ、デート?』
『ち、ちがう!あれは、いつも俺の勉強の面倒を見てくれている礼がしたいと申し出たところ、彼女が買い物に付き合ってくれと――』
『そーいうのをデートっていうんだろぃ』
『な、それは違――』
『もう付き合っちゃえばいいのに。彼氏いないんだろう?』
『そうだな、苗字さんに彼氏がいるというデータは無い。』
『な、何故蓮二がそのようなことを知っているのだ!?』
『フ…俺のデータに死角はないぞ。』

告れ告れ、と囃し立てられて狼狽する俺に追い打ちをかけるように、仁王が『青春じゃのう…』と呟く。

『いい加減認めたらどうなんだい?彼女のこと、好きなんだろう?』
『っ、だ、誰がっ!』
『理想じゃないか、週に何回も会う機会がある恋人なんて。告白すればいいだろう?』
『だ、だが、それで断られたらどうするのだ!?試験までまだ何か月ももあるというのに!』
『お、やっぱりカノジョのこと、好きなんじゃないっすか!』
『揚げ足を取るな赤也!』
『そんときは、……まあ、どんまいだな。』
『割り切れ!』
『…貴様ら…他人事だと思って…!』


* * * * *

俺が苗字さんに並以上の想いを抱いていることは、この際認めざるを得ないだろう。そんな俺が、苗字さんの好意を踏みにじってまでわがままを言う理由は――

彼女の手が俺の短い髪を梳いていく感覚で現実に引き戻されながら、俺は詰めていた息を吐き出した。

「やっぱりお疲れ?……そういうわけだから、これから大会の終わる一ヶ月くらいの間、週一に減らして、しっかり休もう。ね?」
「……嫌だ」

急に口を開いた俺が、初めて真っ向から彼女に反抗するようなことを言ったのに驚いたのか、苗字さんは「え…?」とだけ言って、俺の頭を撫でていた手も止めた。

「俺は、……この時間を負担だと思うことはこれまでも、これからも、無い。……微塵も、ない。」
「……どうして?」
「俺は、この時間に……癒しを感じているからだ。先ほど苗字さんも言っていた。いままであなたに話を聞いてもらい、言葉を交わすことで、俺は…励まされていた。そのうちにいつの間にか――」

俺はそこで言葉を飲み込んだ。ためらいと、ほんの少しの恐怖が頭をよぎる。苗字さんは俺の背を赤子にやるようにゆっくりとしたリズムで軽くたたきだした。――そうだ。俺は、出来る限り俺を理解しようとしてくれ、ものを教える立場にあっても上から目線ではなく、対等な目線にあろうと努めてくれるその姿勢に、

――惚れたのだ。

背中をたたかれる感覚と包み込まれる温かさが心地よい。俺は恐る恐る彼女の背に自分の手を回した。彼女は一瞬身じろいだ後、俺を包む腕の力を少し強めた。それに励ましと期待を感じた俺は、重い口を開く。

「――いつの間にか俺は、…あなたと話をすることに重きを置くようになった」

声を聴くだけで、励まされた。それまで特に何も感じなかった勉強が、楽しくなった。共にいるだけで、心が癒された。

「それ程までに俺はあなたを、…苗字さんを、」

好いている、と音にならない声を吐き出して、俺は彼女の背に回した手に力を込めた。思っていたよりも、彼女の背は狭かった。

「……だから、回数を減らすことは…受け入れがたい」

テニスは好きだが、それと同じくらいこの時間が大事だ。だから、この時間を減らすことは逆に俺の苦痛になりえる。だから――そう言葉を吐き出す俺に、それまで黙って聞いていた苗字さんは、ふ、と息をもらし、腕をといて体を離した。急に無くなった温かさに、頭の中も急に冷えていく気がした。失礼だとはわかっていたが、目を合わせることなどとても出来そうになく、俺は腕を下ろして顔を俯けた。

「……驚いた。そんな風に考えてくれてたなんて」

顔上げて?と柔らかい声で彼女は言ったが、混乱や焦燥と緊張や周知などでごちゃごちゃになった俺は、その言葉に従うことが出来なかった。そのまま沈黙していると、ふいに俺の頬に冷たい何かが触れた。それが何なのか認識できる前に、俺は無理矢理上を向かされることになった。何か――彼女の手が、俺の頬を包み込んでいる。

「何そんなに暗い顔してるの。私何も言ってないのに。」
「……迷惑に、決まっている」
「どうしてそんなに否定的なの。私こんなに喜んでるのに。」

どうしても合わせることが出来ずに下に泳がせていた視線を上げると、視界に入ってきたのはほんのりと朱色に染まった苗字さんの顔だった。

「喜んで――」
「そうだよ、そんなに思ってもらって、嬉しくないはずなんてないんだから」
「……それは、」
「でも、勉強は週一にする。心の癒しになってるとしても、体の癒しにはならない。それはわかるね?」
「だが、俺はそれが――」
「残りの日は、今日みたいにただお話したり、ケアしたりする日にしよう。弦一郎くんは私とお話ししたいってだけで、勉強したいわけじゃないもんね。」
「しかしそれではわざわざ来てもらう意味がないと思うのだが」
「あるよ。言ったでしょう、私は勉強を教えるためだけの家庭教師じゃないって。…それに――」

言葉の途中で口を噤んだ彼女は、膝立ちの格好から腰を少し屈めて視線を俺と同じ高さに合わせた。息が触れる。

「――弦一郎くんの“彼女”だったら、会ってお話しするのなんて、当たり前じゃない?」

“彼女”――その甘酸っぱい響きに驚いて固まった俺に、彼女は重ねて、「“彼女”に、してくれる?」と呟く。

俺が頷いた直後に口元に触れた柔らかな熱は、今までに味わった何物よりも甘かった。

 




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