どうしたんです、と彼の背中に尋ねても、何の返答もない。彼は壁と向き合ったまま動きもしなかった。もしや、また具合でも悪くなったのではないかと焦った私は彼の肩に手をかけた。
「触るな!!」
刹那、大きく叫んだ彼は私の手を払う。一瞬だけ見えた彼の顔、特に目は赤くなっているように見えたが、彼は私の視線を避けるようにすぐに壁に向き直ってしまった。私はおとなしく手を引っ込める。
「……どうしたんです?」
「…ほっといてよ」
彼はそういったきり、黙った。背の高い彼だが、今日はなんだか小さく見える気がした。
「何か言いたいことがあるなら言ってくださいね。ここには、私と沖田さんだけですから。」
「知ってるよ、そんなの!!」
またも彼は声を荒げて、私のほうを勢いよく振り返った。そして口を開き――私から目をそらして、そのままゆっくりと口を閉じた。最近、彼がこうして迷う姿をよく目にするようになった。私のところに来たばかりの底ぬけた笑顔は消え、今では何かを無理やり覆い隠すような笑みを見せるのだ。
「……何か…お悩みですか?私が力になれることでしたら――」
「君には関係ない!」
彼の悩みを何としてでも聞き出そうと意気込みかけた私は、彼の予想以上の強い語気に思わず口をつぐんだ。――それはそうだ。彼はこの世界の住人ではないし、きっと私のような人間が口を出すことができないような重い何かを抱えているのだろう。
「……ごめんなさい、出過ぎた真似を…――」
平和ボケした今のこの時代より、死と隣り合わせの彼の時代のほうが、きっと個人個人にかかる責任というものが大きくて、更に戦いの中に身を置く彼はもっとそれが大きくなるに違いない。『みんなで力を合わせて解決』など、彼からしたら甘ったれの考えなのかも知れなかった。
「――……お昼ご飯、出来たら呼びますから。」
私はそれだけ言って彼の部屋を出ようと、彼に背を向けた。
「……っ待って!!」
途端、彼は私の手をつかんだ。驚いて固まる私をよそに、彼はその手を無造作に引っ張る。私はなすすべもないまま、背中から彼の胸元に飛び込んだ。
「きゃっ!?何を…!?」
「……駄目だ」
彼は私の首元に顔を伏せた。驚いて首を回しても、見えるのは彼の茶色っぽい髪だけである。
「……沖田さん?」
「……ごめん。」
彼はそれだけを呟いて、私のおなかあたりに回した腕の力を強くした。私はかける言葉も見つからず、そのまま立ち尽くす。彼の息が私の肩のあたりを温かくした。
「さっきのは……八つ当たり。悪かったと思ってる。だから――」
表情は見えない。だが、声音はまるで泣き出す寸前のような響きだった。
「――君まで、僕を一人にしないで…」
小さく、精一杯に呟かれた叫びは、私の心をとらえる。腹のあたりの手に自分のものを重ね、私は言葉を返した。
「一人になんて、させません。もし沖田さんが一人でどこかへ行こうとしても、ついていきますから。」
「本当に?」
「嘘はつきません。だから、沖田さんも、私のこと一人にしないでくださいね。」
「……わかってる」
彼はそういうと、私の背から離れて前に回り込んだ。ゆっくりと上がって私の頬に触れた彼の手は細かく震えていた。
「……沖田さん?」
「……大切なものが増えれば増えるほど悲しみも増えるってわかっているのに、どうして大切なものを増やしてしまうんだろう…」
彼の眼は底なしの深い色をたたえている。私の目ではなく、そこに映った自分の姿を見つめているのかもしれなかった。
「きっと、失う時の悲しみよりも、ともに在ったときの幸せのほうが大きいからだと思います。それに、大切なものが一つもなかったら、生きる理由だってなくなってしまいます。」
少し前の沖田さんのように――そう心で呟いた。彼はしばらく何も言わずに私を見ている。私も彼を見つめ返す。彼の瞳は私の姿を鮮明に映していた。
「……そんなもんかな」
「そんなもんです。」
「…………そっか」
「そうですよ。」
彼は心の底から納得した表情で呟いて、目を細めた。綺麗で、儚い笑顔だった。
「……僕はね、きっと怖がってるんだ……――」
ゆっくりとした口調で語りだす。私は彼の手に重ねた自分の手に、少しだけ力を込めた。
「――こっちの世界に来て、帰れなくなって……僕は自分の存在意義を失った。」
剣に生きてきた彼にとって、それを真っ向から否定されたことは、自分自身を否定されたも同然だったのだ。
「でも君は…僕に、新しい居場所をくれた。君の隣という、居場所を。」
「沖田さん……」
「だから、怖い。君を失ったら僕は……」
彼の手に力が込められたのがわかった。私はただ、彼の居場所に慣れているということが嬉しくて、手を彼の手の上に添えた。
「両方失う、なんてことはないと思います。でもきっと、両方を持つこともできないんだと思います。だから、沖田さんが私を失う時が来たら、きっと元の世界に戻れますよ。」
何の確証もない言葉ではあったが、私は自分で言ったこの言葉に、妙な自信を持っていた。しかし、それを聞いた彼は顔をゆがめた。
「それじゃ、駄目だ。なら……僕は――」
彼は迷っている様子で言葉を切った。私は何も言わずに言葉の続きを待つ。ふと、彼の瞳が強い光を帯びた。
「僕は……剣を、……棄てる。」
「……沖田さん、それは――」
「何も言わないで。聞いて。」
彼の目が、輝いていた。私は何も言えずに黙った。
「どうせ、この世界に来ていなかったら――君に会っていなかったら、僕は死んでだ。剣がどうのこうの言ってる場合じゃなかったんだよ。それが、君のおかげでまた剣の道を望めるようになった。…でも、」
言葉を切って私の頬を撫でる彼の表情は、苦しそうに歪んでいる。だが、目の光は衰えない。
「それはきっと、望み過ぎだと思うんだ。僕は前に、労咳を治したくて、剣を捨てられなくて、近藤さんの傍に置いてもらいたくて――こっちの世界に来てしまった。あのころの僕のすべてを失った。多くを望み過ぎると、きっとどれも失うんだ。だから、――」
私は彼の言葉を遮って、彼の胸元に飛び込んだ。もう、聴いていられなかった。
「私には……その代わりになれるほどの価値なんて、ないですよ」
私は彼にとっての、刀の、新選組の、近藤さんの代わりになれるとでもいうのだろうか。
「価値なんて、客観的なものでしょ。だから…君の価値は、僕が決めるんだ。」
彼は少し腰をかがめて、私に目線を合わせる。深い緑色が、私の視線を捉えて離さなかった。
「君は……僕の存在理由だ。……いや、それ以上かもしれない。」
だから、と音にならない声を紡いで、彼は私に顔を近づける。温もりが口元に落ちた。
「今度こそ、僕の存在意義を守ってみせる。だから、名前ちゃん…君は、」
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