入梅1
「先輩の、憧れている人ってどなたですか?」
井桁模様の一人が、きらきらと目を輝かせていった。
六月の、ある晴れた日。梅雨に入る前に遠出をしようと滝夜叉丸が言い出して、体育委員会は裏々々山までのジョギングと相成った。
今は裏々々山の頂上で、四郎兵衛、金吾と下級生だけで休憩中だ。委員長は裏々山を越えたところで姿を消した三之助を探しに行っている。着いたときには息が上がってふらふらしていた一年生も、おしゃべりができるくらいには回復したようだ。
そして、突然彼が口にしたのが冒頭の台詞というわけだった。
「戸部先生だ」
尋ねられた金吾は、即答した。
「剣豪だからですか?」
「剣がお強いというのが第一の理由だ」
そばで聞いていた四郎兵衛は(そうだよね)とほほえんだ。金吾は一年生のときから、一流の剣豪を目指している。それは、いまさらといってもいいほど当たり前のことで、無邪気にあれこれと尋ねる一年生がかわいらしい。
四郎兵衛は、ふと、三之助が聞かれたら、何と答えるだろうかと思った。
金吾は言うまでもなく、滝夜叉丸も、慕っている先輩といえば、七松小平太しか思いつかないくらいには分かりやすい。もちろん、本当のところは知るよしもないが、それを間違いないと思えるくらいの年月は、一緒に過ごしてきた。
小平太がいた頃の滝夜叉丸は、今よりずっと楽しそうだった。
滝夜叉丸が「梅雨に入る前に」と言ったのは、彼の人を思い出してのことだったかもしれない。雨だろうが、なんだろうが、「裏々山までジョギングだ!」と言い出すかつての委員長を、必死に止めていたのは滝夜叉丸だった。特に梅雨の時期は思う存分体を動かせないせいか、小平太の暴君ぶりがひどくなる。それを思い出したのだろうか。
卒業してから、二年。小平太は一度も学園に顔を出していない。
同じ委員長となった滝夜叉丸が、ここのところ寂しそうにしていたのを、四郎兵衛は知っていた。
そういえば、と思考は次屋三之助へと飛んでいく。
彼にも憧れている人はいるのだろうか。思いつかない、という事実に四郎兵衛の胸は痛くなった。これだけの時間を共有しているにもかかわらず、三之助のことを知っているとはいえない自分が悲しい。そして、それだけの隔たりがあるということが寂しかった。
「時友先輩は、憧れている人っていますか?」
ふいに話を振られて、四郎兵衛ははっと顔を上げた。目の前には井桁模様が立っている。
四郎兵衛はちょっと考えて、「滝夜叉丸先輩、かな」と答えた。すると、一年生はひどく驚いたように、目を丸くする。
「な、なんでですか!?」
「どうしてですか!?」
一年生だけでなく、二年生まで駆け寄ってくる始末。
「どうして、って」
「だって、滝夜叉丸先輩って言ったら、口を開けば自慢ばかりだし、戦輪をやらせようとするし」
口を尖らせる一年生に、思わず「でも」と言葉が漏れた。
(次屋先輩を見つけられるのは、委員会の中では滝夜叉丸先輩だけだもの)
首を傾げる後輩に、四郎兵衛は口を開き……そのまま、かたまった。
一年前なら、まったく迷いなく言葉にしていただろうその理由が、四年生の今となっては、ひどく恥ずかしいことに変わってしまった。
「しろ先輩?」
金吾の声が上から降ってきて、四郎兵衛は困ったように顔を上げた。ぷ、と金吾が吹き出す。
「先輩、顔が真っ赤ですよ」
「き、金吾! 笑わない、で!」
「本当に、次屋先輩のことになると、一所懸命ですよね」
つまり、彼はその理由を見抜いているということか。四郎兵衛は、頬がさらに熱くなるのを感じた。
「なん、なんでっ」
「だって、しろ先輩見てれば分かりますよ」
くすくすと笑う金吾に、四郎兵衛は頭を抱えた。先輩として、この状態はどうなのか。金吾だから構わないとも思うけれど、さすがに恥ずかしい。
「金吾!」
四郎兵衛は金吾の袖を引っ張って、耳元で「ないしょにして」とささやいた。これが、三之助にばれたら、体中の血が沸騰しかねない。
手を放すと、金吾がさらにおかしそうに笑った。
「分かりました、内緒ですね。でも、しろ先輩、ちょっと、反則です」
「な、なにが!?」
「……っぷ」
金吾が、再び笑い出しそうになったとき、一年生が「あ」と声を上げた。
つられて振り返り、四郎兵衛は目を丸くする。
「な、なな、七松先輩!?」
七松小平太、二年前に卒業していったはずの先輩が、なぜか肩に滝夜叉丸を担ぎ、三之助の腰紐を引っ張って現れた。
二人ともぐったりしていて、反応がない。
「久しぶりだな、しろ!」
「どうなさったんですか?」
「久しぶりに学園に遊びに来たら、お前たちが裏々々山に行ったって聞いてな!」
追っかけてきたんだ! とこともなげに言う小平太は、委員長だった頃と何一つ変わっていないように見える。
小平太を知らない下級生たちは、この突然出現したいけどんを、ただただ呆然と見上げるばかり。
「ところで、なんで滝夜叉丸先輩は担がれているんです?」
その中で金吾が静かに疑問を投げた。
「走っている途中で見つけたから、担いだ」
返ってきた言葉に四郎兵衛と金吾は絶句した。つまり、滝夜叉丸は走ってきた小平太に突然担ぎ上げられ、気を失っている状態なのか。
その隙に、小平太は三之助の紐をぽいっと放り出し、「初めましてだな!」と下級生たちへと駆け寄っていく。
「ま、待ってください!」
いち早く我を取り戻した金吾が、小平太を追った。
滝夜叉丸を担いだままでも、無茶ができるのが七松小平太といういけどんである。一年生まで拉致されたらかなわない。
四郎兵衛は反対に、地面に放り出された三之助に駆け寄った。
ここまで引きずってこられたのだろうか。体中が土に汚れて、ところどころ擦り傷ができている。
「次屋先輩、だいじょぶですか」
四郎兵衛が声をかけると、うめきながらも三之助は顔を上げた。
「……七松先輩にやられた」
小平太のほうでは、滝夜叉丸が目を覚ましたらしく、「降ろしてください」だの、「一年生に手を出すな」だの、騒がしさが一段と増している。
四郎兵衛が、三之助に「立てますか?」と尋ねると、彼は力なく首を振った。
「しろがおぶって連れて帰って」
「はぅ……」
三之助は四郎兵衛よりも頭一つ半、背が高い。体格がいいというわけではないが、しなやかな筋肉がついている。決してそういうわけではなく、ただひょろっとしている四郎兵衛にできるはずがない。
だが、四郎兵衛がそれを断ったら誰が三之助を連れて帰るのだろう。小平太はおそらく滝夜叉丸を放さないし、さらに三之助を担ぐことはいくらなんでも無理だ。
そうなると、金吾……
「わかり、ましたっ」
四郎兵衛は首をたてに振った。できると思ったわけではない。金吾に三之助を連れて帰られるのは、なんだかもやもやするのだ。
「え、ほんと?」
「ほんと、ですっ」
「できるの?」
「なんとか、しますっ」
息巻く四郎兵衛だったが、その背後に金吾が立ったのには気が付かなかった。ひょいと、襟首をつかまれて、三之助から離される。
「金吾?」
「しろ先輩、帰りましょう」
金吾はきっぱりと言った。
その片手は一年生と手をつながれ、二年生がさらに隣に立っている。
「七松先輩は、滝夜叉丸先輩を担がれたまま、学園にお戻りになるそうです」
少し離れたところで二人はまだ言い合いをしている。といっても、滝夜叉丸が一人で怒っているだけなのだが、四郎兵衛は委員長がなんだか楽しそうなことに気が付いた。
「そしたら、帰ろっか。ぼくは、次屋先輩をおぶ……」
言葉は途中で大きな手に遮られた。いつの間にか立ち上がった三之助が四郎兵衛を引き戻して、金吾を見る。
「帰ろう」
「え? え? え?」
「はい」と差し出された腰紐を思わず握って、四郎兵衛は歩き出した三之助を慌てて追いかけた。
「だ、だいじょぶなんですか?」
「んー、だいじょぶ」
「ほんと、ですかっ?」
「ほんと」
三之助がぽんと四郎兵衛の頭に手をのせて、笑った。
学園に着いて、四郎兵衛が下級生たちを井戸端へ連れて行ったあと。
腰に巻かれた紐をほどいた三之助に、金吾が近付く。
「次屋先輩」
「なに?」
「……次は問答無用でしろ先輩を連れて戻りますからね」
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