入梅2

「今晩、泊まりにこない?」
 三之助がまたどこかへ行ってしまわないように、と彼を五年長屋まで送りに言った四郎兵衛は、その言葉に引き止められた。

「作兵衛は隣の部屋に泊まりにいっているから大丈夫」と、先回りして言われては、うなずくしかない。あの日から、四郎兵衛はちょくちょく三之助と作兵衛の部屋に泊まりに行くようになった。三之助に誘われるばかりだったが、そのたびに作兵衛は数馬の元へと避難しているようで、四郎兵衛としては申し訳ない思いがある。
 追い出される作兵衛が本気で迷惑がっていないことは、四郎兵衛には分からないことだった。



 夕食のあと、寝巻きに着替えて、四郎兵衛は三之助の部屋へと向かった。
「次屋先輩」
 周囲をはばかり、小さな声で名を呼んで、とんとんと戸を叩く。いつもなら、「どーぞ」と声があるはずなのに、この日はそれがなかった。四郎兵衛は不安になってもう一度戸を叩く。
「次屋先輩?」
 やはり反応はなく、四郎兵衛の胸を不安が過ぎった。
 もしや、風呂とか、厠へ行ったりして、迷子になっているのでは。しかし、今まで四郎兵衛が来そうな時間に、三之助が部屋を空けていることはなかった。それに、明かりもついている。
 四郎兵衛は失礼だとは思いながらも、わずかな期待を込めて、少しだけ戸を引いた。そっと中をうかがうと、はたして、三之助はいた。柱に背を預け、あぐらをかいたまま、居眠りをしているようだ。四郎兵衛はほっとしながらも(だって、迷子になっていたらかなわない)、どうしようかと迷う。
 戻ろうか、入ろうか。 
 三之助の許可なく、部屋に足を踏み入れることはためらわれた。いつもの四郎兵衛だったら、四年長屋へ戻っていただろう。
 しかし、今日は気になることがあった。三之助が憧れる人……聞いてみたいと思うのは、おかしいだろうか。それが、四郎兵衛を迷わせる。
 そのとき、廊下の先から「作ちゃん!」と声が聞こえた。続く、笑い声。四郎兵衛は反射的に戸を引いて、部屋に飛び込んだ。
 心臓が早鐘を打っている。隠れる必要はなかった、と思う。しかし、見られたくないと思ったのは事実だ。思ってもみなかった感情に、四郎兵衛はうろたえた。後ろめたいことなどないはずなのに、恥ずかしさが消せない。
 声の主たちは、三之助の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋へと入った。(富松先輩と、三反田先輩だったのかな)と、四郎兵衛は考え、さて、どうしようかと初めに戻る。
 三之助は起きる気配がないし、四年長屋へ戻るのに遅い時間ではない。ただ、戻りたいと思っているわけでもない。四郎兵衛はどうにもできず、三之助が起きるのを待つことにした。
 とりあえず、できることだけしておこうと布団を引っ張り出す。三之助の分と、自分の分。最初のとき以来、三之助は二組、布団を敷くようになった。それを倣ったのだが、どうして三之助がそうするようになったか四郎兵衛は知らない。
 朝になって、自分が三之助の腕の中にいたのはびっくりしたが、あったかくてしあわせだったのに。
 そこまで考えて、四郎兵衛ははたと気付いた。三之助は寝巻き姿だ。六月とはいえ、体を冷やしては体調を崩すこともあるだろう。四郎兵衛は掛け布団を引っ張ってきて、三之助にそっとかけた。肩が出ないように整えて、顔を上げる。と、目が合った。

「わっ」
 驚いて身を引くと、すっと腕をつかまれる。
「しろ」
 ぐっと引かれて倒れこんだ四郎兵衛を、あたたかな布団が包み込む。
「驚いた?」
 見上げると、三之助はいたずらな笑みを浮かべていた。
「おきて……」
「うん、起きてた」
「なんで」
「かわいかったから」
 かっと、耳まで熱くなるのが分かった。作兵衛と数馬から隠れたのを見られた。戻ろうかどうしようか悩んだのも、全部。心の中までは分からなくても、見られたくなかった。
 誰より、三之助には。

 じわりと、涙が浮かんだ。
 三之助が悪いわけではない。考えてみれば、三之助は五年生で、それも優秀な忍びのたまごだ。人の気配に疎いわけがない。それをちょっと利用して、いたずらをしたとして、どれだけ悪いことになるだろうか。
「しろ?」
 背後から気づかうような声が聞こえて、四郎兵衛は「なんでもないです」と頭を振った。思い切り涙声で、なんでもないもあったものではなかったが、それ以外は言えなかった。
「ごめん。ごめん、しろ」
 三之助が慌てたように身を起こした。そんなふうに謝らせたかったわけではない。四郎兵衛は情けなくなった。
(どうして、いつもこんななんだろう)
「しろ?」
「はい」
「ごめん。そんなに驚かせるつもりはなかった」
 頭をぽんぽんと優しくなでられて、四郎兵衛は大きく息を吐き出す。
「いいえ。驚いたのは、少し、です」
 三之助は、泣いたわけを聞かなかった。ただ「ごめん」とくり返し、布団ごと四郎兵衛を抱きしめる。

(なんだか、あの夜みたいだ)
 初めて四郎兵衛がこの部屋に泊まった日。
 違うのは三之助が恐くないということ。嫌われてしまうかもしれないという恐れはわいてこない。三之助がそんなふうには思わないと知っている。
「ちょっと、いじわるしたくなったんだ」
 三之助が、ぼそりと告白した。
「俺がいない間、みんなで楽しそうだったから」
 四郎兵衛は逡巡の後、三之助の言うのが裏々々山でのことだと分かった。小平太に引きずられながら、それでも下級生たちの様子を見ていたのだろう。四郎兵衛が頭だけ振り返ると、三之助は拗ねたように口を尖らせた。
「金吾が笑っていて、楽しそうだった」
「あれは」
 四郎兵衛は、ふと、あの質問を三之助にしてみようと思った。
 どきんと、跳ねる心臓は無視する。状況を説明するためだったら、なにもおかしくない。そんなに構えることではないはずだ。一年生がしていたように、気楽に尋ねれば、三之助も簡単に返してくれるだろう。
「次屋先輩は」
「俺?」
「はい。どなたか、憧れる人って、いますか」
 三之助は何度か目を瞬かせ、「どうして?」と言う。その表情に四郎兵衛はくすりと笑ってしまった。意外なところで、驚かし返せたようだ。
「なあ、しろ。どうして?」
 三之助は二度、三度と訪ねたが、四郎兵衛は答えをいわなかった。
「ないしょ、です。教えてくれたら、話します」
「仕返しかあ」
 三之助も、四郎兵衛の意図を読み取ったようだ。
 困ったように笑って、「利吉さん、とか?」と口にする。
「利吉さん、ですか?」
「違うなあ」
 三之助は四郎兵衛の肩にあごをのせて、うーんとうなる。しばらくして、「鉢屋先輩かも」と答えを出した。
「彼の変装の技術はもちろん、それを支える観察力。あれはたしかに、尊敬していたかもしれない、と思う」
 四郎兵衛はなるほどと、卒業した彼の人を思い浮かべた。たしかに、天賦の才を持った人だった。しかし、三之助がそんなふうに思っているなんて。
「そろそろ、理由を教えて」
 あったかい布団と、三之助のぬくもりに、すっかり気持ちよくなっていた四郎兵衛は夢うつつに答えた。
「一年生が、金吾に、聞いていたんです」
「憧れる人を?」
「はい」
「金吾は、戸部先生だろ?」
「でした。それで、ぼくにも……」
 あ、余計なことを言ってしまった、と四郎兵衛は少しだけ後悔した。でも、その黒い染みは、与えられたぬくもりに溶かされていく。
「そんな話をしてたのか」
 三之助の腕の力が、少しだけ強くなった。
 四郎兵衛は(どうしたのかな)と疑問に思いながらも、もうまぶたが持ち上げられない。
「しろは」
 遠くからの声に、四郎兵衛は首をかしげる。
「なんて答えたの?」

 ああ、それは……滝夜叉丸先輩です。
 でも、ないしょなんです。
 次屋先輩には、絶対ないしょなんです。

「…………」
 四郎兵衛はもぞりと動いて、布団を頭までかぶった。
 だって、滝夜叉丸先輩は、いつも迷子の次屋先輩を見つけられる。
 それが、うらやましいなんて。ぼくも、次屋先輩を見つけられるようになりたいなんて。恥ずかしくて言えないです。

 布団の闇とぬくもりは、四郎兵衛を眠りの中へと誘っていく。



「……滝夜叉丸」

 三之助のつぶやきは、四郎兵衛に届かなかった。


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