黒南風2

 七月――
 四郎兵衛は一人で、食堂から教室へと向かっていた。外では蝉の声が鳴り響いている。
 もうすぐ、夏休みだ。
 授業は今日が最後で、委員会も昨日ですべて終了した。後は補習者の発表を待つだけで、その心配をすればいい。その、はずだった。
 しかし、今、浮かばない顔で廊下を歩く四郎兵衛の胸を占めているのは、補習になるかどうかではない。
 一つ年上の先輩。次屋三之助のこと。

「四郎兵衛!」
 ふいに呼び止められて、四郎兵衛は振り返った。四年い組の川西左近が食堂から走ってくる。
 思わず、首をかしげた。ふだん話すことのない彼に、声をかけられた理由が思い当たらない。左近は四郎兵衛の前までやってくると、「突然ごめん」と顔の前で手を合わせた。
「放課後、ちょっと時間ある?」
 疑問はそのままに、四郎兵衛は頭の中でざっと予定を確認する。委員会はない。用事も、ない。復習はしたいけれど、後回しでも大丈夫。
「うん、あるよ」
「ありがとう。相談したいことがあるんだ」
 ほっとしたように笑う左近に、四郎兵衛の疑問は深くなる。
 優秀ない組の左近が、は組の自分に?
 しかし、四郎兵衛がそれを口にするよりも早く、左近は「倉庫の裏で待ってて」と言い置いて、食堂に戻ってしまった。
(倉庫の裏?)
 疑問が増えた。
 保健委員の彼が、倉庫に用があるとは思えない。そもそも、倉庫の前ならともかく、何故裏なのだろうか。
 しかし、四郎兵衛はすぐに(ま、いいか)と思い直した。行ってみれば、分かるだろう。
 四郎兵衛は踵を返し、ぎくり、と体をすくめた。
 向こうからやってくるのは三反田数馬と、三之助。慌てて隠れる場所を探すものの、一直線の廊下にそんなものはなく、回れ右をするのは、いくらなんでも不自然すぎる。
 しかたなく、脇によって、「こんにちは」と頭を下げる。数馬が「ありがとう」と答えて通り過ぎた。三之助は何も言わない。
 ちらりとでも、四郎兵衛を見てくれたのか。それとも、一つも気にかけずに行ってしまったのか。
 下を向いていた四郎兵衛には分からない。

 六月のあの日から、突然、三之助は冷たくなった。
 お泊りの誘いもぱたりとやんで、四郎兵衛はもうどうしたらいいか分からない。四郎兵衛の何かが三之助の気に障ったのだろうか。失礼なことでも……誘われるままに部屋に泊まりにいってしまったけれど、図々しかったのだろうか。
 原因が分かれば謝れるのに。二度と近づくなというのなら、そうするのに。
 胸がきしむ。
 本当はいやだけど。前のように笑って「しろ」と呼んでほしいけれど。それでも、今のようにただただ冷たくされるよりましだ。
「……せんぱい…………しろ先輩!」

「わっ、わわっ!?」
 大声で呼ばれて、顔を上げると、黄緑の忍装束が二人立っていた。
「金吾」
 彼の後ろでつぼを抱えているのは、同級の山村喜三太……?
「どうしたんですか、こんなところで」
 四郎兵衛ははっとした。脇によけたまま立ち尽していたなんて、それはおかしく見えるだろう。
「なんでも、ないよ。考え事を、してたんだ」
 ごまかすように言ったが、金吾はあやしむような目つきのままだ。しかし、四郎兵衛ががんばって笑うと、「それならいいですけど」とつぶやいた。
「じゃ、行くね」
 それ以上聞かれる前にと、四郎兵衛はその場を逃げ出した。
 ごまかせた自信はない。金吾は洞察力の優れた忍たまで、剣術使いなのだから。


「きーんごっ、どうしたの?」
 行こうよ、と喜三太がせっつく。
 金吾は四郎兵衛の走り去った方を見つめたまま、「うん」と応えた。


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