黒南風3

 梅雨の明けた空は抜けるように青く、刺すような日差しが降り注ぐ。
 倉庫の影に入って、四郎兵衛はほっと息をついた。
 教室を誰より早く出てきたのは、授業の内容にめまいを覚えたから。平静に先生の話を聞く級友たちに、うろたえたところを見せたくなかった。

「本日の授業は、これについて」
 黒板に書かれたのは「色」の一字。
「己の体を使って、対象を誘惑し、情報等を引き出す術を学習する。これについては、座学のみであるから、各自心して聞くように」
 同学年の中には、先輩に連れられて花街に出入りしている者もいる。中には、ひそかに思いを通じさせ、情を交わす関係にある者もいる。
 だけど、それは自分とは離れた遠い場所にあって、関わりになるのはもっとずっと先だと思っていた。それが、こんなに早く……。
 先生は夏休みを利用して、経験をつむようにと言ったが、四郎兵衛は今から自分にはできそうにないと思っていた。
 今まで、くらいついて、何とか忍術を学んできた。それを、あきらめなければならないのだろうか。しかし、手の中の「忍たまの友」を見つめると、そんなことはしたくない、とも思う。
 この難題を乗り越えて、まだ先へと進みたい。

「ごめん、遅くなった」
 声が聞こえて、四郎兵衛は立ち上がった。息を切らせて、左近が駆け寄ってくる。
「あついね」
「うん、あつい」
 二人して倉庫の壁に寄りかかり、ふうっと息をついた。夏の暑さにめげない、虫の声がうるさい。
「あ、のさ」
 左近がひどく言いにくそうにつぶやいた。
「今日の、授業。どうだった?」
「…………!?」
 四郎兵衛はびっくりして、びっくりしすぎて頭を壁にぶつけた。ごん、と鈍い音がする。
「大丈夫!?」
「だ、だ、いじょぶ」
「それなら、いいけど」
 気まずい沈黙が下りる。
 左近の言う授業が、「色」の話だとすぐに分かった。他に、左近がこれほど言いにくそうにする授業の話なんてない。今ので、どうして倉庫の裏、だったのかも理解した。
 四郎兵衛は、おそるおそる「何で知っているの?」と尋ねた。
「午前に、ぼくたちもやったんだ。それに、僕、保健委員だし、三反田先輩から聞いていたし」
「そう、そっか」
 四郎兵衛はなんと答えたらいいか悩んだ。
(ぼくには無理だと思う? どうしたらいいのか分からない?)
 悶々としていると、左近が「どうしたらいいんだろうね」と言った。彼は少し頬を染めて、眉尻を下げる。
「三反田先輩に聞けばいいんだろうけど、恥ずかしいし」
「うん、ぼくも」
「どうする?」
「どうする、って、うん……」
 四郎兵衛は言葉に詰まった。それを決められなくて、頭を抱えていたのだ。
「もし、決まっていないなら」
 左近が四郎兵衛を見た。
 四郎兵衛も左近を見た。
「僕と、練習しない?」
 練習……れんしゅう……
 左近と?
「な、な、な……」
「他の人には聞けないんだ。みんなは、もう知っているみたいで……四郎兵衛はまだでしょ? 僕も、知らないし……」
 最後はか細い声だった。同じ思いなのだと思う。
 しかし、練習……れんしう……。
「口吸いだけでも、お願い! このままじゃ、次の授業なんて、受けられないよっ」
 気付くと、左近が目の前に立っていた。
 顔の横に手をつかれる。
「三郎次には、頼まないの?」
 それはふいに、思いついた名前だった。いつも仲がいいのに、何故彼に頼まないのだろう。
 すると、左近は顔を真っ赤にして、「言えないよ!」と叫ぶ。
「三郎次には、こんなこと、頼めない……」
 仲がいいからこその意地だろうか。そんなことを考えていると、ぐいっと顔を近づけられた。
「いいの? だめなの?」
 四郎兵衛だって練習はしなければいけない。
 それは分かっている。
 今のところ、相手はいないし、当てもない。断る理由は、ない。
 腹をくくらなければいけない。
 こくり、とうなずくと、左近は声をひそめて、「いくよ」とささやく。
 四郎兵衛はぎゅっと目を閉じた。


「しろ」

 まぶたの裏に浮かんだのは、三之助の顔――

「わっ」

 四郎兵衛は思わずその場にしゃがみ込む。
(なに? 今の、なに!?)
 口を両手で押さえて、飛び出しそうになる心臓を押さえ込んだ。
(なんで? なんで?)
 左近が「どうしたんだよ」と困惑したように言うが、四郎兵衛は顔が上げられない。もう一度、同じことができるとは思えなかった。
「あの、さ」
 四郎兵衛は口を開いた。
 唇がからからに乾いている。
「やっぱり、知っている人に、教えてもらった方が、いいと、思うんだ」
「……なんで?」
「だ、だって、ぼく、も、左近も、やり方を知らないんだし、試したって、それが正しいか、分かんないよ」
 頭の上で、左近が腕を組んだのが分かった。うーんとうなっている。
 四郎兵衛は必死で言い募った。
「ぼ、ぼく、恥ずかしいのがまんするよ。先輩に頼んでみる」
「え?」
「だから、左近も、三郎次に頼みなよっ」
 このまま左近と練習することはできない。代わりを提案しなくては、引き下がってもらえないような気がして、思いつくままに、言葉をつむいだ。
「ぼくも、がんばるからっ」
 半分泣きそうになりながら顔を上げると、左近はぎゅっと口を引き結んでいた。
「さ、左近?」
「そうだよね。僕たち、忍者になるんだもんね。恥ずかしいからなんていって」
 左近は決意をかためたように、「逃げちゃいけないよね」と言う。
「がんばろう、四郎兵衛」
「うん」
 四郎兵衛は差し出された手をとって、立ち上がった。
 しかし、吹っ切れたような表情の左近とは対照的に、後ろめたい思いでいっぱいだ。口にした言葉は、すべてがこの場を逃れるためのものだ。

 ――先輩に頼んでみる。
 本当に、そんなことができるのだろうか。以前ならともかく、こんな状態で。三之助が承諾してくれると思えないのに。
 それなのに。どうして、言ってしまったのだろう。
 でも、他に考えられなかった。

(どうしよう)

 悪化したとしか思えない状況に、四郎兵衛は再び、頭を抱えた。


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