木下闇2

 川西左近をよく知っているわけではない。四郎兵衛の同学年、保健委員ということだけ。
 だが、直感が背中を押した。
 気付けば、その後を追っていた。



「僕と、練習しない?」
 左近の声は、木の上にひそんだ三之助の耳にもしっかり届いた。
 四年生の二人は、周囲に誰もいないと思い込んでか、声をひそめる様子もなく、矢羽を使うでもなく、話をしている。
「な、な、な……」
「他の人には聞けないんだ」
 三之助は身を隠したまま、周囲の気配を探った。金吾が追って来ているかと思ったが、その様子はない。
 しかし、次の左近の一言に、三之助はかたまった。
「口吸いだけでも、お願い!」
(何の話かと思ったら、色か!)
 三之助は力いっぱい拳を握った。

 好きだとか、嫌いだとか、この二人の間になにかの感情があるわけではない。
 それは分かっている。理解している。
 授業のためであり、忍者として必要な経験のためだ。かくいう三之助も、通ってきた道だった。級友たちと練習する気になれず、七松小平太に花街へ連れ出してもらった。
 だから、怒りを覚えるのは筋違いで、感情を動かすようなことではない。しかし、そんなふうに自分に言い聞かせたところで無駄だということも分かっていた。
 四郎兵衛から目が離せない。
 こういった話題と彼が結びつかないものだから、四郎兵衛の返事さえ予想できない。
 いや、「うん」と言ってほしくないのだ。
「いいの? だめなの?」
 返事を迫る左近に、四郎兵衛は迷う様子を見せたあと、こくりとうなずいた。
 四郎兵衛が目をつぶった瞬間、思わず顔を背ける。
 そのまま背を向け、この場を立ち去ろうとした、そのとき。
「わっ」
 珍妙な声が聞こえて、三之助は思わず振り返った。
 四郎兵衛が両手で口を押さえて、しゃがみ込んでいる。左近が怪訝そうな顔をしているところを見ると、四郎兵衛が逃げたのか。
「どうしたんだよ」
「やっぱり、知っている人に、教えてもらった方が、いいと、思うんだ」
 四郎兵衛はしゃがみ込んだまま、必死な様子で、口を動かしている。左近も思うところがあるせいか、四郎兵衛の話を聞いているようだ。
 暗い気持ちのまま、三之助はなぜか動けずにいた。
 この場にいて良いことなどないと、四郎兵衛に関わらない方が良いと分かっている。しかし、わずかな期待が残っているのもまた事実だ。
「ぼ、ぼく、恥ずかしいのがまんするよ」
 三之助は息を詰めた。
「先輩に頼んでみる」
 足元が崩れ落ちるような感覚。
 体から血の気が引いていく。
 全身から力が抜けるような……。
 三之助はどれだけ言葉を尽くしても、表すことができないと思うような絶望感に襲われた。
 強く。
 強く、力いっぱい、枝を蹴った。
 先の枝につかまり、勢いをつけて、別の木に飛び移る。

 はにかんだように笑う四郎兵衛の顔が忘れられない。
「滝夜叉丸先輩です」
 とても大切そうにつむがれた言葉が耳朶にこびりついている。
 滝夜叉丸は承諾するだろうか。授業のためだといえば、あの委員長はうなずくかもしれない。
 だが、彼には想い人がいる。何くれと理由をつけて、応じないかもしれない。どちらにしろ、四郎兵衛は泣くことになるのか。
 滝夜叉丸のために。

 三之助は肩で息をしながら、ゆっくりと立ち止まった。
 途中で地面に降りたが、行く先も決めず、でたらめに走ったせいで、自分の居場所が分からない。裏山だろうか、裏々山まで来てしまったのか。調べるのも面倒だ。
 三之助は袖で乱暴に汗をぬぐった。
(何で俺には内緒なんだよ)
 自分を慕ってくれていると思っていた。それがうぬぼれにすぎなかったというのも分かった。
 四郎兵衛の慕う相手が滝夜叉丸というのも驚きだったが。絶対に内緒だと言われるほど、信用を得られていなかったのか。
 それが何より、三之助の胸を、深くえぐった。

 三之助は木の幹に背を預け、地面に座り込んだ。
 六月の、あの夜。同じように座った自分の腕の中に、四郎兵衛はいた。そのぬくもりも忘れられない。のどを鳴らして、自分をあざ笑う。
 こんなことなら、布団なんて取っ払ってしまえばよかった。
 細い手首をつかんで。腕を引いて。力いっぱい抱きしめて。唇を合わせて。
 
 そう、夢を見たことがあるのはたしかだが。実際には布団越しに抱きしめるのが精一杯だった。それが、今は近付くのも恐い。
 三之助は膝を立てて、額をつけた。
 学園に戻ろうという気が起きない。しばらくはこのままでいよう。

 すべてを放り出したい気分だった。

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