出水2
三之助は上がり口に腰をかけたまま、即席のたいまつを囲炉裏へと放り込んだ。軽く袖についた雨粒を払って、草鞋を脱ぐ。しかし、少し戸を開けただけで、結構濡れてしまった。せっかく乾きかけていたのにと、ため息が漏れた。
しけった薪はぶすぶすと音を立てながら、それでもちらちらと赤い炎を生み出す。
三之助は板の間に上がると、奥の壁に寄りかかって座った。
(妙な音がしたと思ったんだけどな)
風でも、雨でもない音。
忍の修練を積んでいなければ絶対に気付けないような違和感だったが、三之助には聞こえたという確信があった。しかし、気になったところで、どうしようもなかった。
戸を開けただけで、たいまつが消えそうになるほどの風雨。
三之助はあきらめて、目をつむった。
学園から発作的に飛び出したあと、山中で昼寝をしたのがそもそもの間違いだった。いつの間にか強まった風に阻まれて、夜までに学園に戻ることができなかった。
とはいえ、季節は初夏。野宿をしたところで、死ぬことはないと高を括っていたら、雨まで降り出す始末。寝場所に選んだ岩陰を離れ、雨をしのげる小屋を探し出すまでにずいぶん濡れてしまった。洞窟、という選択もあったが、雨の勢いに出水の危険性を考えざるを得ない。もし、あふれた水が洞窟までやってきたら、逃げ場がなくなってしまう。
さいわいにも、裏山近辺は委員会の活動でいやというほど走り回った場所だった。小屋を探し出すのは、学園に戻るよりも簡単だった。
学園では、少しは騒ぎになっているのだろうか。少なくとも、五年生の連中は、作兵衛を中心に大騒ぎをしてくれると信じている。天気が回復すれば、必ず探しに来てくれる。もしかしたら、滝夜叉丸も委員会のよしみでそれに加わってくれるかもしれない。
(しろは、心配してくれっかなあ)
学園にいるときは、そばによるのも恐ろしかったくせに。図々しいと承知しながら、想っていてほしいと望む。心臓が力いっぱい握り締められたようにきしんだ。
三之助はぎゅっと拳を作って、ひたいに当てる。きしみ続ける心の蔵のさらに奥、腹の底に黒いものがたまっている。それは痛みを覚えるたびに、そのかさを増すからたちが悪い。
(顔が見たい)
ぽかんと開けた口。
ぼさぼさのくせに、やわらかい髪。
小さい手、あたたかな体温。
ぱちり。火がはぜて、薪が転げた。三之助はぼんやりと視線を上げて。
その先で、突然、戸が開いた。
「つぎ、や、せんぱ、い」
頭が真っ白になった。
風の音も。雨の音も。
何もかもが世界から消えた。
自分の心音。呼吸。すべてが失われていく。
ただ、四郎兵衛の顔だけが、何にも勝る強さで目に焼きついた。
「見つ、けた。よかったあ」
四郎兵衛の小さな声は、まるで池に投げ込んだ石のように、三之助の意識に波紋を起こす。
急速に音が戻ってきた。唸る風に、揺さぶられる小屋のきしみ。
しかし、それでも三之助は動けなかった。音や呼吸や、感覚が戻ってきたところで、どうしたらいいか分からないのは変わりない。
三之助が動かないと見た四郎兵衛は、まず、戸を閉めた。少しだけ、暴れる雨風の音が遠くなる。
「着がえと、乾飯、持ってきたんです」
四郎兵衛は背負っていた包みを、上がり口に置いた。
「もし、濡れて、たらと、おもったんですけど、いらなかったですか?」
そんなことはない。忍装束はさっきぬれたばかりだし、髪だって乾いていない。夕食も食べていないから、乾飯でも何でもありがたい。
だが……。
三之助はゆっくりと立ち上がった。
(そんなことは、どうでもいいだろ)
だって四郎兵衛の格好の方がひどい。ぬれねずみなのはまだ分かるとして、泥まみれなのはどうしてだ。そもそも、学園からここまで来たのが信じられない。
ここは山中で、日はとっくに沈んでいて、おまけに嵐だ。
すっと足を踏み出すと、四郎兵衛の方が小さく跳ねた。
「すい、ません。ぼく、帰ります、ね」
(なんでそうなる!)
四郎兵衛が背を向けるものだから、三之助は囲炉裏をまたいで一気に距離を詰めた。腕をつかむと、四郎兵衛の肩が、また跳ねた。
「なんで」
「だ、って、次屋先輩、怒って……」
「当たり前だ」
四郎兵衛の背が震えた。泣いていようが、怖がっていようが、我慢がならなかった。
三之助ははだしのまま土間に降りて、四郎兵衛を力任せに引き寄せた。背中から、力いっぱい、抱きしめる。
「次屋、先輩、あの」
「なに」
「ぬれますっ」
「だから?」
「よ、よごれますっ」
「着替え持ってきたんでしょ」
なおもわたわたと動く手をつかまえると、四郎兵衛はやっと黙った。
改めて抱きしめなおした体は、やたらと冷たい。初夏なのが信じられないくらい、芯から冷えている。
三之助は、深くため息をついた。
「ほんとに、なにやってんだよ」
その一言で、四郎兵衛の体が一気にこわばった。
「大雨に強風だぞ。しかも夜だっていうのに、山になんか入んな。その泥だって、こけたんだろ」
「で、でも、だいじょぶでした」
「大丈夫じゃなかったらどうすんだ。二度と、すんなよ」
三之助は四郎兵衛がうなずくと思っていた。小さな声で、「はい」と答えると。
ところが、返ってきたのは違う言葉だった。
「それなら、いなくならないで、ください」
三之助は、思わず腕を緩めた。
四郎兵衛は背を向けたまま「いなくならないでください」と繰り返す。肩が震えているのは、泣いているからだろうか。
三之助の意識は急速に過去へとさかのぼる。
今、腕の中にいるのは、三年前と変わらぬ四郎兵衛だ。
いなくなっちゃったから、こわかったと泣いていた。たった一人で、三之助を待っていた、あの四郎兵衛だった。
「ごめん、しろ。悪かった」
三之助は濡れた髪に頬を押し当て、「ありがと」と続けた。
ふえ、と四郎兵衛が奇妙な声を漏らす。緊張が解けたのか、ぐずぐずと泣き出す四郎兵衛に、三之助は思わず笑みをこぼした。
(かわいい)
どうしようもなくかわいい。申し訳ない気持ちはあるものの、口元がゆるんでしまう。
四郎兵衛が滝夜叉丸を好きだろうが。
何を三之助に内緒にしてようが。
四郎兵衛は探しに来てくれて。
今、こうして、腕の中にいる。
こだわりや痛みなんて。後回しにしたっていい。
三之助は目をつむって、とぐろを巻くよどみに蓋をした。
触れる髪と皮膚と、感じる鼓動だけ。今はそれだけを。
信じたかった。
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