残暑2
少し高くなった空の下。夏休み明けの授業はつつがなく執り行われた。廊下を走る足音も、庭に響く笑い声も。いつもとひとつも変わらない。四郎兵衛も、当然、その中にいた。
放課後の掃除中。ほうきを持ったまま、ぼんやりと、空を見上げる。
昨日、学園に戻った彼は、最初に新野先生に、次に六年生に挨拶に行った。おみやげは実家で作った漬物だったが、新野先生も滝夜叉丸も喜んでくれた。
誰も嵐の日の話はしなかった。そのおかげで、日常に戻ってきたのだと感じられたのに。
滝夜叉丸に、「明日は中庭に集合だ」と告げられた瞬間。すべてがくずれた。「はい」と答えた声が、震えたのは隠せなかった。
夏休みの初めから、四郎兵衛はくり返し夢を見た。
三之助に、触れられる夢。
それはどんどんあの夜からかけ離れていって。夢の中で、何度も、何度も口を吸われた。しまいには、自分から求めるようになって。まるで、もう一度、あの夜を望んでいるようだと気付いてからは。後ろめたさだけがのしかかるようになった。
そんな状態で、以前と同じにふるまえる自信はない。三之助にどんな顔で会えばいいのだろう。もうすぐ、委員会の時間だというのに、答えが見出せない。
「いつまで掃除してるんだよ」
級友に声をかけられて、はっと顔を上げると、いつのまにか、教室から人がいなくなっていた。掃除はとっくに終わったようだ。
「ごめん」
四郎兵衛はほうきを片付けて、深く、ため息をついた。中庭までの短い距離が、今はひどく恨めしかった。
「今日は、用具委員会と合同で、たこつぼと塹壕を埋める作業を行う」
穴だらけの中庭の中心で、滝夜叉丸が高らかに宣言した。
たこつぼは六年い組の綾部喜八郎が、新学期早々に製作したもので。塹壕は一年生の授業で掘られたものだという。
「なお、用具委員長代理の富松作兵衛は次屋三之助を見つけ次第合流する。それまで、用具委員は私の指示に従うこと」
用具委員全員から不満の声が漏れた。
滝夜叉丸は二つの委員会全体の様子を見なければいけないし、金吾は喜三太と二人で、一番深いたこつぼに取りかかっている。
畢竟、下級生の世話は四郎兵衛の役割だ。一、二年生を連れて、塹壕へと向かった四郎兵衛は、先輩らしく彼らに言い渡した。
「足元に気をつけるんだよ」
「はーい」
元気よく返事をして、下級生二人は土を入れはじめる。四郎兵衛は二人に注意を払いながら、反対側から塹壕を埋めていくことにした。
三之助の姿がないのも、また、いつもの光景だった。いつも、のことでないのは四郎兵衛が現状にほっとしていることだ。三之助を探しに行きたいとも思わず。彼が現れるのを心待ちにしているわけでもなく。いっそ、委員会が終わるまで見つからないでいてほしいなんて考えている。
どんな顔をしたらいいのか分からない。いつもがどんなだったか思い出せない。いや、顔を合わせた瞬間、自分がどんな顔をするのか予想できないのが一番こわいのだ。
(だいじょうぶ)
四郎兵衛は踏鋤で土をすくいながら、自分に言い聞かせた。
次屋先輩が来たら、お久しぶりですって言おう。笑って、頭を下げよう。
そうすれば、そんなに妙な感じはしないはず。その後はすぐに作業に戻る。滝夜叉丸先輩に怒られるはずだから、こっちには来ない、はず。
よし、だいじょうぶだ。
塹壕を半分ほど埋めた頃、「滝夜叉丸先輩!」と作兵衛の声が聞こえた。
反射的に顔を上げた四郎兵衛は、視線の先に、引きずられていく三之助の姿をとらえる。
「しろ」
ひらひらと、三之助が手を振った。
どんっ、と大きく心臓が跳ね上がった。急速に、周囲から音が消えていく。気付けば、金縛りに合ったように、動けなくなっていた。手を振り返すこともできず、ただ立ち尽くす四郎兵衛はひどく奇妙だっただろう。
三之助は首をかしげて、四郎兵衛へと足を向けた。と、その襟首を滝夜叉丸につかまれる。
「三之助!」
滝夜叉丸の怒号に、四郎兵衛はようやく我に返った。ひきつる頬を無理やり動かし、笑って見せる。なおも四郎兵衛を見たままの三之助に頭を下げて、塹壕に向き直った。
まったく、うまく笑えた気がしない。ひとつも、大丈夫ではなかった。
三之助をしかりつける滝夜叉丸の声を背にして、四郎兵衛は一心不乱に穴を埋め続けた。
日が傾きはじめた頃。「今日はここまで!」と、滝夜叉丸の声が響き渡った。
塹壕もたこつぼも、あらかた埋め終わっていたが、残ったものは「本人に責任を取らせる」そうだ。四郎兵衛は一、二年生を伴って、井戸へと向かった。よく手を洗うようにと言い、水を汲んでいると、三之助を呼ぶ滝夜叉丸の声が聞こえた。
「お前、一人で帰るなよ。誰かに遅らせるから」
「えー」
「文句を言うな。また、富松に面倒をかける気か」
四郎兵衛はあわてて手を洗って、土を落とした。
「ごめん、ぼく先に帰るね」
「え!?」と驚く下級生をその場に残し、長屋へと駆け出す。
滝夜叉丸が三之助を送らせるといえば、その役目はきっと四郎兵衛に回ってくる。
さっき、大丈夫じゃないと分かったばかりなのに。しかも、迷わないようにといつも手をつないでいたことを思えば、絶対に(無理!)だった。
「四郎兵衛はどうした?」
井戸へやって来た滝夜叉丸に問われて、下級生二人は顔を見合わせた。
「長屋に戻られました」
「戻った?」
滝夜叉丸は首をかしげた。
解散を言い渡した後だから、戻ることに問題があるわけではない。しかし、三之助も滝夜叉丸も待たずに戻るのは、四郎兵衛らしくないことだ。
「金吾!」
しかたなく、滝夜叉丸は三年生を呼びつけた。呼ばれた金吾は、話していた喜三太に断りを入れて駆け寄ってくる。
「なんですか?」
「悪いが、三之助を長屋へ送っていってくれないか」
金吾は目を丸くして、きょろきょろと辺りを見回した。
どうやら考えることは同じのようだ。
「四郎兵衛は長屋へ戻ったらしい」
「……戻った?」
「私は喜八郎を連れてこなければならないからな。悪いが頼むぞ」
金吾が三之助を振り返った。
彼はぼんやりと突っ立っている。
「今度は何をやらかしたんでしょうね」
「私が知るか」
滝夜叉丸のいらだったような返事は、たしかに、そのとおりだった。
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