大きな手2
どのくらいの時間、どのくらいの距離を走ったか。四郎兵衛は感覚を失っていた。
木々が後ろへ流れていく。しかし、その景色でさえ次第に滲んで。三之助が追ってきているような気配がないことを確認して、ゆっくりと速度を落とした。
ぼたぼたと涙が落ちていく。一人になれてよかったと思う。それなのに、胸をしめつけるような苦しさが増す。四郎兵衛はとうとう立ち止まって、適当な木の根元に座り込んだ。膝をかかえてうつむけば、装束に次々と染みが現れた。
涙は止まりそうになかった。悔しい思いと、情けない思いと、よく分からない苦しさがあいまって、胸の中に大きな空洞をつくったようだ。
かつて、憧れた三之助は三年生だった。
四年生になっているのに、今の自分はあの日の三之助にも追いつけていない。三年生の金吾は、四郎兵衛が持ちたかったすべてのものを持っている。
もっと成長してしまった三之助が恨めしいわけではない。頼りになる三年生になった金吾がねたましいわけでもない。
手に入れられなかった自分が悲しい。
三之助はぼけっとしているようで、その実よく人を見ている。もちろん、本当にほうけていることがあるのは否めないが。後輩が落ち込めば、さりげなくはげますし。委員長の横暴が過ぎれば、遠慮なくけんかもする。五年生の中での立ち位置など四郎兵衛が知れるはずもないが、自分の意見をはっきり言う三之助を、先輩たちが頼ることがあるのは見ていて分かった。無自覚に迷子になるという欠点を差し引いても、いや、むしろそれさえ、三之助の魅力だった。
(比べて自分は)と思うことがどんなにばからしいことか、四郎兵衛だって承知している。四年生ともなれば、誰にだって得手、不得手が生まれるし。それは当然だと分かっている。
だが、相手が三之助となると四郎兵衛は冷静さを欠いた。自分がふだんどれだけ冷静かはともかく。冷静ではないと判別ができなくなるほど、気持ちを乱されるのだ。それは年を重ねるごとにひどくなっている。二年生の間は、ただ憧れるだけでよかった。手をつなぐことがあれば素直に嬉しかったし。頭をなでられるだけでも、心が躍った。
それがどんなに幸福な時だったか。
三年生になったあたりから、嬉しく思うよりも、胸を締め付けられるようになったのだ。
四郎兵衛の髪を、冷たい風が揺らした。
ぼんやりとした頭を持ち上げると、周囲が薄闇に包まれているのが分かった。
日が沈む。
ここが裏々山で、春とはいえ、山中で夜を明かしたいとは四郎兵衛も思わなかった。のろのろと立ち上がり、重たい足を動かす。日が沈もうとしていることで、大体の方角は分かった。裏山の方角に進んでいけば、そのうち知っている道に出るだろう。学園に近付けば、誰かが見つけてくれるかもしれない。滝夜叉丸か、金吾か。はたまた、自分が帰ってこないことを心配した同級生たちか。
(滝夜叉丸先輩は、次屋先輩を見つけただろうか)
今では委員長の彼なら、そんなことは簡単だろうと思った。三之助も、見つけてもらったら素直に長屋に帰るだろう。無事に長屋へ帰ることができるかは分からないが。どうあっても、五年生の彼が四郎兵衛を探しに来ることはない。
四郎兵衛はあわせをぎゅっと握った。
こんなに迷惑をかけて、これからどうやって委員会に顔を出したらいいのだろう。入ってきたばかりの一年生にも、きっとどうしようもない先輩だと思われたに違いない。
いっそ、体育委員会をやめてしまおうか。
考えたとたんに、ふたたびじわりと景色が滲んだ。
それは本意ではない。滝夜叉丸の自慢顔、金吾の仏頂面、二年生、一年生たちの無邪気な笑い声。どれも、四郎兵衛にとって大切なものだ。それなのに、強烈に残って離れないのは三之助だった。
あの日の笑顔はもちろん、ふだんのぼけっとした顔も、たまにしか見せない真剣な表情も。思い出すのは全部三之助。一つ年上の先輩。
「しろ」
三之助に呼ばれるのは好きだ。気持ちがあったかくなる。
同じくらい、苦しいこともあるけど。
でも、それでも。
「しろ」
すぐ後ろで声がして、四郎兵衛はびくりと足を止めた。
まさか、と思った。だって、三之助は迷子になるほうで、迷子を見つける側ではないのだ。だが、たしかに彼だ。聞きなれた声を、間違えるはずがない。
四郎兵衛はぐっと足に力をこめた。逃げようと思った。しかし、それよりも早く。手を引かれる。腕を回され。ぎゅ、と。
「見つけた」
耳元でささやかれて、四郎兵衛はやっと自分の身に何が起きたのか理解した。
体に回されたたくましい腕に、背中に感じる体温。
心臓が跳ね上がった。
「よかった、日が沈む前に見つけられて」
はあ、と息をつかれ、跳ね上がったばかりの心臓が。
手加減なく握りつぶされるように痛んだ。
涙が、止めようと思うこともできずにあふれた。
「しろ、どうした」
四郎兵衛は頭を振った。
迷惑をかけてごめんなさい。
役に立てなくてごめんなさい。
足を引っ張ってごめんなさい。
自分が悪いのに、気づかってくれる三之助に申し訳なかった。
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